第10話

「……ん」


 いつもの天井、いつものソファー。

 いつの間にか私は、ソファーに寝かされていたらしい。


(まだ少し、ぼんやりしてる)


 記憶のほうもぼんやりしてくれればよかったのだが、そちらのほうはあまりに鮮烈すぎたせいかむしろはっきり覚えてしまっていた。


(……ファーストキス)


 あまり意識しすぎるとまた頭が茹で上がってしまいそうで、出来るだけ思考の端へと追いやりながらも唇へ手を当てる。


(こういうことにはあまり動じないほうだと、自分では思っていたけれど)


 実際、頬へされたキスに対しての動揺はさほどなかった。

 もちろん、頬と唇という差異はあったが、それよりも人物による差異が大きかったように思う。


(……ノル様のお顔、しばらく直視できないかもしれない)


 なんてことを考えていたら、また頭が少し火照ってきた気がする。

 水の一杯でも飲んで、気を静めたほうがいいかもしれない。


「よいしょ……」


「……」


「……あ」


 立ち上がった私の視線のその先で、あの市場へ出かけた時と同じようにノル様が窓際に座っていた。


「ノ、ノル様、いらっしゃったんですね」


 思ったように言葉が出てこず、どうもぎこちなくなってしまう。


「……」


 相変わらずノル様の視線はあらぬ方向を向いている。

 しかし、今はそのことがむしろありがたい。

 こんな状態であの深紅の瞳に見つめられてしまったら、きっと頭がどうにかなってしまうだろうから。


「……」


「……」


 なんとも言えない静寂。

 お互いに言葉を探って、決めかねている沈黙。

 こういう時はいつも、ノル様のほうから話を振ってくださっていた。

 たまには私からも、何か話を振れないものか。


「なんだか、奇抜な方でしたね。あの方」


『あんなことをするやつだと知っていたら、キミに近づけさせなどしなかった』


「……」


「……」


 会話終了。

 己のコミュニケーション力の低さが本当に恨めしい。


『おまけに私まで割れを失って、キミにあんなことをしでかしてしまった』


 あんなこと、とノル様は言う。

 婚約者であるというのならば、割とおかしな行動でもなかったと思うのだが。

 ノル様は私のことをガラス細工かな何かだと思っている節があるかもしれない。


「あの、ノル様」


『本当にすま


 返答の言葉を二つ折りに曲げて、私はずいとノル様へ迫る。


「……ん」


 そしてそのままの勢いで距離を詰めると、そのまま頬へと口づけた。


「私もしてしまいました、こんなこと」


 あぁ、水を飲みに行けなかったせいだ。

 全身の血液が沸き立つように、鼓動が早鐘を打っている。


「これでおあいこ、でしょうか」


 そこまで脆い女ではありませんよ、とお伝え出来るだけでよかったのだが。

 勢いに身を任せていたら、こんなことになってしまった。

 表情こそ変わらないが、ノル様も相当に驚いているのだろう。

 いつもなら逸らされてしまう瞳が、バッチリとこちらを向いてしまっている。

 

「……ぅ」


 瞳の中に、蕩けた顔をした女がいる。

 今、私はこんな表情をしてしまっているのか。


「……」

 

 そのことにやっとノル様が気付いたのか、目線を逸らすのではなく今回は手の平で視界を覆われた。


(……ひんやりして、気持ちいい)


 ノル様の手の平はとても冷たくて、茹で上がった頭がゆっくりと冴えていくのを感じる。


「わっ……」


「……」


 暗闇のまま私の身体がふわりと浮き上がった。

 どうやらもう片方の腕で抱きかかえられているらしい。

 まるで母が赤子をあやすように運ばれて、再びベッドへ戻されてしまった。

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