第8話

「おはようございます、ノル様」


『あぁ、おはよう』


 あの市場への外出からまたしばらく経ったが、私のノル様は何も変わらず日常を過ごしていた。


『サラ、今日も少し散歩をしようか』


「はいっ。では、すぐに片づけてまいります」


『夜は逃げたりしないから、ゆっくりで大丈夫だよ』


 一つだけ変わったところがあるとすれば、ノル様が散歩へ連れ出してくださるようになったこと。


「お待たせしました、ノル様」


『足元にはくれぐれも気を付けて』


「あ、あんなことにはもうなりませんよっ」


 完全に日の落ちた夜の森。

 ノル様の手にしたランタンの小さな明かりを頼りに、ゆっくりと歩を進める。

 

 静かな森を歩いていると、まるでこの世界に二人だけしかいないような感覚に襲われて。

 思わずギュッと、ノル様の腕を抱きしめる。


「……」


 夜散歩は、特に特別なことなどは無く。

 ゆっくりと森の中を歩いて屋敷へ帰ってくるという、ただそれだけのもの。

 それでも私はこの時間を、待ち遠しくてたまらないほどに気に入っていた。


(ノル様も、同じように思ってくれていたら、嬉しいな)


 ノル様と出会う前の自分ならば、きっと考えもしなかった感情。

 一人でいることは気楽だったけれど、二人でいるほうがずっと充実している。


「……」


 気づけば進行方向は逆を向いていて、この時間の終わりも近づいていた。

 日を重ねるごとに短くなっていく体感時間に、私は小さなため息をつく。


(次の買い出しは、もっと先)


 もしも私が出掛けたいと言ったなら、きっとノル様は快諾してくださる。思い上がりかもしれないが、お優しいノル様のことだからきっとそう。

 だけどそれはあまりにも我儘な気がして、言い出せはしないのが現実だ。


(私から何か返せるものがあれば、こんな気持ちにならないで済むのだろうか)


 ノル様にもしも何か欲しいものがあるのなら、私はそれを全力で与えてあげたい。


(できることはたかが知れているかもしれないけれど)



「おかしいな、この時間にいないことなんて今までなかったはずだが……」


「あら……?」


「……」


 滅多に人が来ない屋敷を、訪ねてきている人がいる。

 郵便の配達員かとも思ったが、身なりを見るにそういうわけでもないらしい。


「あの、どちら様……でしょうか」


「む、こんな場所で女性の声……?」


 恐る恐る声をかけてみると、その訪問者は機敏な動きで振り返った。

 整った身なりの男性で、年齢は30代前半くらいだろうか。

 服装を見るに、別の家の人かもしれない。


「おお、麗しき令嬢よ。このような時間にこのような場所で一体何を……」


 めんどくさそうな訪問者の挨拶を、ノル様が間に入ることで遮った。


「……」


「なんだ、いたのかお前」


(お前……!)


 ノル様に向かって「お前」と言い放つ訪問者。

 しかしその言い方は、敵意を向けたようなものではなくむしろ親しみの込められたもので。


(一体、どういう関係の方なのだろう)


「おや、ご令嬢。私の顔に何か付いておりますかな?」


 妙に芝居の掛かった大ぶりな仕草。

 ノル様とはまさに対照的で、正直非常に苦手なタイプだ。

 間に入ってくれたノル様に感謝しながら、その背に隠れさせていただく。


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