無名!?名前のない営業マン

 レンドは蔵書の山の中で目を覚ます。傍らには同じように本を枕にして寝ているシルヴァの姿があった。白衣を毛布代わりにしていたようだが、すっかり離れてしまっている。


 年中温暖な気候な地域で、日本の中では唯一四季のない町ではあるが、早朝ともなれば肌寒さを感じるだろう。いつもはうるさい彼女も寝ていれば可愛いものだった。少し近づいて白衣を掛け直してやろうとする。


「…………」


 ふと目に入ったのは彼女の胸元。横になっているためか押しつぶされて、谷間が出来ている。幼いころには一緒に風呂に入るほどだったが、それぞれがアカデミーに入学してからは、互いの部屋に入ったことすらない。だからこそ、シルヴァのあられもない姿には耐性がなかった。


 普段から手術や処置、検診などで女の裸など見慣れているつもりでも、好きな女性の体とは、また一際違うものだった。恥ずかしさのあまり、彼女の白衣に触れることすら出来ない。


「暖炉の正方、代償は我が魔力。神秘の木片。温度よ上がれ。」


 シルヴァの頭上に魔術を編んで、熱を灯す。直接触れても熱くはないが、近くにいるだけでほんのり暖かさを感じられる魔術だ。マードレ王国にいた時の冬場にはよく利用していた。


「クソ。考えることがいっぱいだっていうのに……」


 先ほどの双丘が頭から離れず悶々とする。記憶消去の魔術を唱えかけて、手を止める。適当な紙に念写魔術を唱えてシルヴァの胸を写して、自室の鍵付きの引き出しに隠すと、改めて記憶をかき消した。


「もう一回寝るか…。」


 なんとなく、特に意味があるわけではないがシルヴァに背を向けて寝た。

 顔を赤らめたシルヴァから「変態」とののしられる夢を見たが、それも記憶から消したことは言うまでもないだろう。


 目が覚めると隣にシルヴァは居ない。かすかに朝食のにおいが漂うことから、すでに起きているのだろう。スズとの話声も聞こえる。


「どうしたの?変な顔して」

「いや、おかしな夢を見ただけだ…。それより、今日は初診患者が来る。魔術でしか治せないが、一応見に来るか?」

「やめとくわ。Dr.ウランについて調べたいし」


 シルヴァはパンを口にしながら首を振る。隣ではスズがさみしそうな表情をしていた。


「お父さん、私お手伝いできない?」

「いや、どっちかと言えば俺も何か出来るできるわけじゃないんだ」


 事前に電話予約をしており、患者曰く仕事があるので土日しか来れないという。予約の際に名を名乗ったはずだが、レンドはそれを覚えていない。

『アノニマスシンドローム』別名を匿名症候群、あるいはドッペルゲンガー病。病名が示す通り、ドッペルゲンガーに名前を奪われ、だれにも自分を記憶してもらえなくなる奇病だ。


「ドッペルゲンガーってモンスターよね?」

「…あ、知ってる!!ドッペルゲンガーと取り付かれた人の両方を見ると、取り付かれた人が死んじゃうんでしょ?」

「よく知ってるな。俺の部屋の本を読んだのか?」

「うん、クロムと一緒に読んだ!!」


 治療法は名前を奪ったドッペルゲンガーを呼び出すことから始まるが、決して二人の姿を見てはいけない。もし、二人同時に見てしまえばオリジナルの方が消え去り、完全に乗っ取られてしまうのだ。

 あくまで召喚の手伝いをするだけであり、それ以降は患者次第だ。


 朝食も終えて診療所で儀式の準備をしていると、チャイムが鳴った。


「初めまして魔術医師のDr.マギカだ。」

「はじめまして…。私こういうものです」


 慣れた手つきで懐から名刺を差し出すと、レンドはそれを受け取る。社名と所属部署、電話番号が記載されているが、名前の部分だけは黒く塗りつぶされていた。

 当然、この男が悪ふざけで名前を消したわけではない。彼のドッペルゲンガーが、徹底的にオリジナルから名前を奪うことで、成り代わるチャンスを増やしているのだ。


「名前、見えないですよね…」

「安心しろ。必ず治してやるから」


 不安そうな患者を元気づけようと思って言うが、治すと言われても男の表情は暗いままだった。


「で、アノニマスシンドロームを発症したのはいつ頃だ?」

「今月のはじめぐらいです。なじみの取引先にあいさつに言ったら、向こうの部長さんに名前を聞かれて…。何度も会っているし、名刺も交換してたので。おかしいなと思いながら帰ったら、妻が泣きながら私の名前を思い出せないと言い出したんです。」


「お前が知り合いの名前を忘れているということは?」

「ないですね。さすがに全員をすぐに思い出せるわけじゃないですけど、顔を見ればある程度は思い出せます。」


 期間や症状を含めても、まだまだ初期段階。アノニマスシンドロームは自分の名前に始まり、友人の名前を忘れ、自分の顔を忘れられるようになり、人の顔を忘れるようになり、最後には完全にドッペルゲンガーに成り代わられてしまう。


 たとえ、家に引きこもってドッペルゲンガーと一緒に他人に見られるのを回避しようとしても、症状はどんどん進行していくものだ。


「ドッペルゲンガーを直接召喚しないと治せない。というのは事前に伝えてあるな。そっちの第二治療室にお前がいてもらう部屋だ。俺は隣の部屋でお前を見ないでいる。何かあったらブザーを鳴らせ。儀式を強制中断させて、ドッペルゲンガーを転移させる」


「わ、わかりました。けど、先生…」


 部屋を出ようとして呼び止められるが、顔を伏せたまま話そうとしない。もし処置に疑問や不安があるのなら早めに解消しておくべきであり、だからこそ患者に寄り添って話を聞こうとするが、男は首を振って立ち上がった。


「なんでもないです。大丈夫ですから、儀式を始めましょう」

「そうか…?なにか聞いておきたいことがあれば何でも聞いてくれ。」


 また小さな声で「なんでもないです」という。男は何とも言えない表情を浮かべており、かすかながらレンドは嫌な予感であふれていた。

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