金の竿と銀の竿

 見上げれば青い空。遠くを見れば緑豊かな山々。それらを鏡のように映し出す湖面の景色もまた美しい。この湖の下に魚がいなくても、釣り糸を垂らしてあれこれと考える時間を持つことが大切だと僕は思う。


 釣りをしに来たのは久しぶりだ。

 若い頃は手作りのワームでアタックするほど熱が入ったものだけど、今では竹竿でのんびりと当たりを待っている方が性に合っている。魚と対話をするのではなく、自分自身と対話するのが目的でもあるのだから。

 ピクピクと浮きが動いた。しばらく眺めていたら、グイっと竹竿が引っ張られ、浮きも湖の奥へと沈んでいく……グググっという手応えに身震いしながら、僕は竿を後ろに反らせた。


 ――プチン!


 あらら……大物だったねぇ。糸が切れちゃったよ。魚が疲労するまで駆け引きを楽しむべきだったのかもしれないけど、今の僕はそんな気分じゃない。ひとまず糸の切れた竿を脇に置いて、予備で持って来ていたやつを引っ張り出し、餌も付けずに糸を湖に向かってと投げた。


 この前、雪さんとダミアンを家に泊めた時、僕は彼女から「満子さん」という人のことを色々と聞き出すことができた。稼業の『何でも屋』をアシストしていたパートナー以上のパートナーということで、僕も彼女も信頼しきっていた間柄だということだが……同時に「炎の巫女」でもあったとか? そこがイマイチわからないけど、ともかく雪さんの冷気を凌ぐ熱量で僕をサポートしてくれていたのは確かなようだ。

 これだけの情報では僕の記憶も再起動することはないけど、少しずつ彼女のことがわかってくるのは嬉しい。パズルの欠けたピースが少しずつ埋まっていく時の安堵感みたいなものが込み上げてくる。僕の知り合いには人外な者も多いから、機会があれば彼らにも聞いてみようと思う。


 再びグググっと当たりがきた。

 しかし、今度は深く深く考え事をしていたので手に込めていた力も弱く、気づいた時は手から竿が離れて丸ごと持って行かれてしまった。それにしても不思議だ……餌も付けずに垂らしたんだけどなぁ。食いついてくるとは、よほどの食いしん坊さんだったかな? 大物っぽい感じだったし、ちょっと惜しいことをしたもんだ。


 竿も無くなったし考えもまとまってきたところで、僕は立ち上がって帰り支度を始めた。周りに散らかしていた荷物とゴミをまとめ、車へ戻ろうとしたその時……湖の方から「あのぅ……すみません」と細い声が聞こえてきた。

 幻聴だろうと、湖へ振り返ることもなく車へ向かおうとすると、再び「す、すみませーん! そこのお方!」と、さっきよりも威勢のいい声が聞こえた。振り返ると、湖の中から出てきた感じの瑞々しい女性が僕を呼んでいた。

 なんという美しさだ! 水も滴るイイ女とは、彼女の事を指すのだろう。水滴を弾く白い肌、しっとりと濡れた栗色の髪と睫毛と唇、濡れて体のラインがはっきりとわかる純白の装束。どれをとっても眼福だ。これぞ、正に女神さまだ!


「僕を……呼びましたか?」

「は、はいっ! あの……そのですね。竿を落とされたのではないかと……」


 確かに竿を落としたのでもう帰ろうとしていたけど、女神さまが両手にしている竿はどちらも違っていた。右手には金の竿、左手には銀の竿……何かの童話ドッキリかしら?


「えっと……僕が落とした竿は……」

「ちょっ! ちょっと待って下さい! まずは、私のセリフを言いきってから答えて下さいっ! お願いします!」

「えぇっ!?」


 両手の竿を掲げながら、ペコペコと懇願する女神さま。この人、大丈夫かな?

 時間に追われているわけでもなかったので、とりあえず彼女の余興に付き合うことにした。コホンと一つ咳払いして「では、お願いします」と彼女のターンが始まるのを待った。


「ありがとうございますっ! えっと……あなたが落としたのは、こちらの金の竿ですかっ? そ、それとも……こちらの銀の……あぁ! すみませんっ! こっちが金の竿でしたっ!」


 女神さまが「金の竿ですか?」と問うた時に差し出したのは銀の竿だった。めっちゃ緊張してる感じだけど……この『金銀イベント』に臨むのが初めてなのだろうか?


「えぇっと……もう一度、仕切り直します?」

「え? いいですかっ? ありがとうございます! では、お言葉に甘えて……コホン。あなたが落としたのは、こちらの金の竿ですか?」

「いいえ」

「で、ではっ! こちらの銀の竿ですか?」

「いいえ。僕が落としたのは、地味な竹の竿です」


 あの童話には、もっとセリフ回しが色々とあったような気がしたけど……「もう少しで、私に当たるところだった。悪気があってやったのではなさそうだから、拾って来てあげよう」みたいなやつ。ただ、そもそも論で、僕は竿を落としたことに困っていない。

 すぐに「いいえ」と「竹の竿です」と言い切ってしまったので、女神さまも展開の速さに戸惑っているようだ。再び「えぇっと、次は……」とかブツブツ言いながら、両手の竿を片方ずつ挙げて悩んでいる。


「じゃ、じゃあ! この竿を両方差し上げます! 正直だったのでっ!」

「ちょっ、ちょっと待って下さい。これって何かのお芝居ですか? 急なことで理解に苦しむのですけど。僕は金の竿も銀の竿も、落とした竹の竿にも未練はありませんよ」

「ええぇぇぇ? そんなぁ! それでは、私の試験がボツになってしまいますぅ」

「し、試験??」


 今にも泣きそうな表情で「試験に受かりたいですぅ」と懇願してくる女神さま。何か特別な事情がありそうなので、僕は腰を据えて「どういうことですか?」と話を聞くことにした。

 どうやら、この女神さまは湖のガーディアンで、次世代の後継者として絶賛トレーニング中らしい。他に後継者がいるわけではないけど、とりあえずは試験をパスしないと正式なガーディアンとしての称号を得ることは叶わないという。

 試験の内容は、この湖の由来と成分を記した文献から出題される筆記試験と、湖に映し出される四季折々の花鳥風月を写生する実技試験、更には湖と人間を繋ぐエモーショナルな実演試験と、なかなか難しい課題を突き付けられているようだった。先のコントみたいな問答は三番目の実演試験に当たるもので、人間に話しかけたのは僕が初めてだったようだ。そりゃあ、緊張もしたよね。


「筆記試験と写生の実技はパスできたの?」

「はい、暗記ものは得意なので筆記は満点でした。実技も、絵を描くことが好きなので合格点をいただけました。最後の実演がなかなか……」

「暗記が得意なのに、セリフは覚えきれないんだね」

「そ、そうなんです! でも、覚えているんですよっ。ただ……対人恐怖症で、人を見かけると頭の中が真っ白になってしまうのです」

「人が怖いの? それとも、人間が珍しいから見慣れてないだけかな?」

「えっと……りょ、両方だと思います。男性は特に怖いです。力任せに貞操を奪われたら……あぁ、お嫁に行けません!」


 女神さまは、拗らせ女子だった。

 何を見聞きして、貞操を奪われるような妄想を抱くようになったのだろう? この様子だと、いつまで経っても実演試験はパスできないような気がする。


「僕のことも怖いかい?」

「は、はいっ。正直言いますと……その優しそうな顔の裏側では狼のように虎視眈々と私の体を狙っている気がして……すいませんっ!」

「ははは……ずいぶんな言われようだね。まぁ、当たらずも遠からずだけど」

「や、やっぱり。私の体が目当てなのですねっ!」

「大丈夫、大丈夫。もう、その気も失せたから」

「そ、そんなぁ……」


 ガッカリした様子で「私の胸が小さいからなのね」とブツブツ言っている。目当てにして欲しいのかして欲しくないのか……だいぶ拗れているなぁ、この女神。こういうタイプは、催眠術でも使って自己肯定感をアップさせてあげるのが良いのかもしれない。幸いにも、僕は催眠術が得意だ。


「その拗れた自意識、僕が治してあげましょうか?」

「えっ? そんなことができるのですか?」

「催眠術でいったん眠ってもらい、その間に暗示をかけます。人間とのコミュニケーションが気軽にとれるような暗示とかどうですか?」

「す、すごぉい! 是非、お願いします!」

「ただ、こう見えて僕も商売人なんでね。何か報酬となるものをいただければ、その依頼を安請け合いすることにしているんですよ」

「報酬……ですか」


 女神さまは両腕を組んだり、片方の人差し指を口に当てて「うーん」と唸ったりしていたけど、報酬になるようなものを閃いたのか「ではっ!」と元気良く答えた。


「この金の竿と銀の竿を本当に差し上げます! 純金と純銀ですよ。重さは……わかりませんけど、けっこう重いです!」

「なかなか現実的な報酬だね。いいでしょう。その依頼、安請け合いするぜっ!」


 金の竿と銀の竿が手渡された。ズシリとくる重みに、大きな期待感が込み上げる。女神さまって、見た目以上に力持ちなんだな。ちょっと頭が弱いけど……脳筋タイプってやつか? 美人なのに勿体な……いや、このギャップが男も多いかもしれない。


 立ったままの施術もアレなので、僕は車に入れておいた折り畳みの椅子を引っ張り出して女神さまに座ってもらった。助手席から『何でも屋』のコンパクト道具セットを持って来て、中から懐中時計を取り出しブラブラと揺らしながら語りかけた。


「あなたはだんだん眠くなる……だんだん、だんだん……眠く……」

「……すぅすぅ」

「早っ! 秒でキマるなんて初めてだ!」


 正直ビックリした。僕の催眠術は、効き目が出るまでに時間がかかるというのが欠点だったのに。相手が脳筋の女神さまだからかな? 揺れている時計越しに、見つめ合った彼女の目が紫色に光り出したのは気になるところだけど……まぁ、相手が体質で良かったわ。


 眠っている女神さまに「人間は怖くない」ことや「男はケダモノではない」ことを説き、人を操れるくらいの傲慢な自信を植え付けた。やはり女神さまは、これみよがしのSっ気が世界共通のトレードマークだろう。人を相手にとしているなんてナンセンスだ。

 一通りの暗示をかけ終え、パンっと両手を叩き女神さまを起こす。パチっと目覚めた姿は子供のように可愛らしい表情だったけど、次第に目付きに変化し相手を見下すような鼻っ柱の高さが出てきた。


「よし、これで大丈夫だろう。いい表情になったね」

「そうかしら? まずは、あなたで試してみてたいけど……どう?」

「はははっ! それだよ、それっ! 誰に仕掛けても満点の合格は間違いなしだね」

「恩に着るわ。私に会いたくなったら、いつでも竿を投げ入れてちょうだい」

「覚えておくよ。それじゃ!」


 僕は金の竿と銀の竿を拾い上げ、クルリと女神に背を向けて車へと乗りこんだ。バックミラーを見れば、まだ彼女は僕が立ち去るのを見守り続けている。エンジンをかけシフトをドライブにしサイドブレーキを解放した。

 パッパッパッパッパと軽くブレーキを踏んで別れの挨拶をし、一気にアクセルを噴かせて湖を後にする。え? 「あいしてる」のサインかって? いやいや……「また会おう」だよ――。

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