第24話

 璃夕は眉間に皺を寄せて、伊吹を見た。おもむろに手を付きだし、てっきり本を取るのだと思った手は、伊吹の腕を掴んだ。怯む伊吹を有無も言わせず門の中へ引っ張り込む。


「り、璃夕さん!」


 伊吹は慌てた。璃夕の足を心配したのだ。彼は伊吹を庭へと連れてくると、本を縁側へ放り投げた。次ぎに軒下に干してあった金盥を指差して「そこの水道から水汲んできて」と命令する。不機嫌そのものの声に、伊吹はびくびくとしながら言われるまま庭先にあった水道から水を汲んで、縁側に深々と座り込んでいた璃夕の足元へ置いた。水は日の光を反射して、魚の鱗のようにきらきらと瞬いていた。


 彼は盥の中に足を入れて水に浸した。伊吹は彼の傍らに立って、ぼんやりとそれを見ていた。綺麗だなと思った。疲れた色を滲ませた横顔も、青白い頬も、伏せた瑠璃色の瞳も、璃夕はとても綺麗だった。


 不意に彼の唇から、薄い吐息が零れた。


 伊吹はびくりと肩を揺らした。


「伊吹はバカだと思う」


 ぼそりと聞こえてきた声は、不機嫌そのものでますます伊吹の恐怖と不安を掻き立てた。さっと顔を青ざめさせ、伊吹は璃夕から離れるべく、一歩身を引いた。これ以上側にいれば、ますます彼は自分を嫌いになってしまうかもしれない。それだけは、いやだった。好きな人に嫌われるのはつらい。


 帰ろうとして踏み出した足を「逃げるな!」という鋭い一喝によって釘付けられた。


 璃夕はきらきらと瞬く瑠璃色の瞳で、伊吹を見ていた。


 怒っている顔だった。


「伊吹は本当にバカだと思う」


「ごめんなさい」


 反射的に謝ってしまう。


 とたん、また溜息が聞こえて伊吹は小さくなる。身を竦めて嵐が通り過ぎるのを待っている伊吹の手を、濡れた璃夕の手が触れた。


「顔が見えない。ちょっとそこに屈んでくれる?」


 伊吹は言われるまま、璃夕の足元に膝を付いた。しかし顔を上げることはできなかった。盥の中で、白く小さな足が水の中に沈んでいるのを、じっと見る。そうして気を逸らそうとしていた。


「裕哉とは、六十年ぐらい前に、この海で出会った」


 伊吹の頭の上に静かな声が落ちた。


「病気で兵役を免れて、疎開と療養をかねてこの町へ引っ越してきたんだって話しを聞いたよ。家族のほとんどを空襲と戦争で亡くしたとかで、酷く絶望してた。海で死ぬつもりで、盗んだ小舟で沖へ出て波間の中を漂っているところを、僕が拾ったんだ」


 色褪せた淋しげな声だった。その声につられて、伊吹は顔を上げてしまった。


「僕を見ても、死に間に見ている夢か幻だと思っていたのが笑えた」


 璃夕の声は、少しの後悔を滲ませて笑っていた。


「海の上にいるくせに船の上で干上がっててさ、介抱するのが大変だった。浜へ連れて行って、腹が空いたとか喉が渇いたとか暑いとか寒いとか煩いのなんのってなかったよ。人魚の僕にああも命令してくる人間なんて普通いないよね。捕まえるか怖がるか、せめて驚くがぐらいするだろうに、彼は平然としてた。平然とえらそうだった。でも、それがきっかけで知り合った。裕哉は自分は一人きりで孤独だと言った。僕も、一人だった。たぶん、だから僕らは親しくなったんだ」


 璃夕の声は静かで、淡々としていた。そこから窺える感情は皆無で、だけど伊吹には璃夕がその過去を懐かしんでいるのがわかった。


「三ヶ月ほど一緒に過ごした。一緒にって言っても、向こうがときどき海へ出てくるのを僕が見付けて、浜辺で人に隠れて話しをするぐらいだったけど」


「楽しかったんですね」


 伊吹の合いの手に、くすりと彼が笑った。


「さあ、どうだったかな……。最初は楽しかったけど、腹の立つこともあったし嫌なことやつらいこともあった。哀しいこともね。裕哉は人と付き合うのが上手いってタイプじゃなかったし、僕は僕で誰かと一緒に過ごすのはほんとうに久しぶりだったから、加減のわからない部分もあったんだと思う」


 璃夕は、きっと伊吹のために話しをしているのだろう。バス停で「裕哉って誰ですか?」と尋ねたから。


 声を聞いているだけでわかる。彼にとってその裕哉という人は、大きな意味を持つ人だったのだということが。死んだと聞かされたとき、刹那浮かんだ璃夕の顔を思い出して、もしかしたら自分は璃夕にとてもつらい話しをさせているんじゃないかと思った。


 いてもたってもいられなくなった。


「璃夕さん。もう良いよ、裕哉って人のことわかった。ごめんなさい」


「どうして謝るんだ?」


 璃夕の声が尖った。まるで伊吹に理不尽なことを突き付けられたと言いたげだった。伊吹は言い淀んだ。


「でも……。話したくないことを無理に話す必要はないかなって」


「おまえが聞きたがったんだろ」


「そうですけど……。璃夕さんにつらい思いさせてまで聞き出す事じゃないです」


 恐る恐る伊吹は言った。見ると、璃夕はぽかんとしていた。伊吹はそんなに変な事を言ってしまっただろうかと不安になった。


「り、璃夕さん?」


 彼は虹彩が滲みそうなほど瞳を大きくしていたが、くつりと苦笑に変えると、腕を伸ばし戸惑う伊吹の頬を撫でた。


「どうして、裕哉のことがつらい過去だって思うんだよ?」


「……なんとなく、です」


「おまえは良い子だね。ときどきすごくバカだって思うけど、圧倒的に良い子だ」


「……それって誉めてるんですか?」


「誉めてるんだよ」


 璃夕は肩を竦めると、今までの棘々した雰囲気を一瞬で吹き消すような優しい微笑みを浮かべた。哀しい匂いも苛立ちも一切ない、伊吹が大好きだと思った優しさと温もりだけの微笑みだ。


「裕哉とは、喧嘩別れしたんだ。僕が一方的に二度と逢わないって叩き付けてね。言葉通り、僕はあの洞窟で小さい伊吹に出逢うまで、この町にもどの浜にも近づかなかったから裕哉がどうなったか知らなかった。知りたいとも思っていなかった。だけど、今日彼が死んだって知らされて……少し驚いた」


 最後の一言は口の中で噛み含めるように重々しく響いた。


「当たり前だね。彼は人間だった。あれから六十年近く経ってるなら、死んでてもおかしくない」


 裕哉が当時いくつだったのかはわからないが、兵役を受けなくてはならなかったなら若くても十代後半だろう。それから六十年足せば、少なくとも傘寿に近いはずだ。


「璃夕さん……」


「懐かしい人を思い出して、ちょっと伊吹に八つ当たりした。ごめん。僕が悪いんだよ。伊吹はなにもしていないし悪くない。だから、そんなつらそうな顔されると困る」


 璃夕の手が、伊吹の頬を包み込んだ。冷たい手だった。この人の手はいつも冷たい。


「伊吹はもっと我が儘になっても良いと思う。甘えたりぐずったり、人を困らせたりしてもいいと思う。そうゆうのは子どもの特権だろ?」


「高校生なんて、もう子どもじゃありませんよ」


「子どもだよ。高校生なんて、まだまだ大人の庇護下にある存在じゃないか」


「でも……」


 伊吹の両親は子どもは庇護する物だとは考えはしなかった。気安く甘えることは禁じられていた。


「――――伊吹は、いままでそうやって生きてきたんだね。嫌われることに怯えて、自分を押し殺して我慢して息を潜めて他人の顔色を窺いながら。誰かが気紛れに手を伸ばしてくれるのをただ待ち続けて、蹲って。そうやって親の愛情に縋って生きてきたんだね」


 伊吹はゆっくりと瞳を瞬かせた。璃夕が何を言っているのか、意味がわからなかった。


「璃夕さん。どうしたんですか?」


 彼の方がずっと哀しい顔をしていると思った。彼は小さな吐息を吐き出すと、伊吹の頬から手を放した。


「伊吹は僕との約束を忘れたままだ」


「約束?」


「そう。約束。小さな伊吹とした。でも伊吹は忘れてるみたいだ」


 伊吹は首を傾げた。思い出そうと頭の中にある海馬を手探りで漁ったが、何も思い出せなかった。


「いいよ。覚えていないのなら。無理して思い出すことでもないし。僕のことを覚えてくれてただけで十分だから」


「璃夕さん。あの……もう、怒ってないんですか?」


 恐る恐る尋ねると、くすりと璃夕が笑った。彼の顔が近づき、額に唇が触れたのがわかった。かっと頬に熱が宿る。


「これだけは知っていて欲しい。僕は伊吹のためだけに、人間の脚を手に入れて、陸の上に暮らしているんだってことを。何があっても僕は伊吹を嫌いになったりしない。伊吹が僕を嫌わない限りはね。僕は伊吹のすべての助けになってあげる。だから……」


 すうと息を吸い込み、璃夕は極上の笑顔を伊吹に見せた。


「だから、おまえは誰かに怯えることなく自由に生きればいい。伊吹は海に愛された子どもだ。この世に女神にまさる愛はないよ。だから伊吹は女神の愛めぐし子ごらしく、堂々と我が儘に生きてゆけばいいんだ」


 伊吹には璃夕が何を言いたいのか、正直さっぱり意味がわからなかった。この人はさっきから何を言っているんだろうと、不思議に思っていた。


 なのに、胸を突くような痛みが走った。喉の奥に熱がこもる。


 この人の仕草とか声とか言葉があんまりに優しくて、まるですべてのことに許されているような錯覚に陥りそうになる。どうして、こんなに優しいのだろう。どうしてこんな自分に、璃夕は優しい言葉や温もりをくれるのだろう。


 なかば夢を見ているような気持ちで、伊吹は璃夕を見つめていた。


 だけどと、唇が声なく動いた。


 だけど、父さんも母さんも俺のことを邪魔だって言ったんだよ。


 父も母も、離婚するときにどちらが自分を引き取るかで、たいそう揉めた。母が伊吹を引き取ったのは、父が結構な額の養育費を母に対して支払ったからだということを知っている。母はすぐに自分を田舎の祖父母に預けて外国へ行ったきり、ほどんど連絡を寄越しては来ない。


 堂々と生きるなんて、どうやればできるのだろう。両親の顔色を窺いながら、愛情のおこぼれに縋り付いて生きてきたような、惨めたらしい自分には、とうてい不可能なことのように思える。


 顔を上げて生きることは、決して簡単な事ではない。どんなに空気を吸い込んでも、風船のようには、胸は膨らまない。体は鉛のように重く、愚鈍な頭はずぶずぶと下へ下へと下がる一方だ。


「伊吹」


 璃夕は、俯きかけた伊吹の頭を、名前を呼ぶことであげさせた。おずおずと璃夕を見る自分に、彼は困ったような笑顔を浮かべた。その顔が再び近づき、こつりとおでことおでこがぶつかった。


 睫が触れ合えそうなほど近くにある綺麗な顔が、普段ならきっと緊張と戸惑いで動悸が止まらないだろうに、今は何故か静かな気持ちで見つめることができた。哀しいような切ないような気持ちが、胸をぎゅうぎゅうと押しているせいかもしれない。


「ごめんね」


 赤い唇がそうっと動いた。優しい、少し哀しげな声だった。


 どうして彼が謝るのだろう。わからない。彼は何も悪くない。無遠慮に過去の哀しい思い出を聞いてしまったのは伊吹だ。そんなことはきっと彼にもわかっているはずなのに、それでも璃夕は謝った。伊吹はじっとその音を聞いていた。


 胸が苦しい。喉と目の奥が熱い。


 璃夕は微笑みを浮かべたまま、もう一度「ごめんね」と言った。一言彼が声を創るたびに、自分の体から何かが剥がれ落ちて行くような気がした。それが何なのかわからなかった。璃夕の皮膚も声も手も瞳もすべてが優しかった。


 そのとき、伊吹は思い出した。


 小さな頃、独りぼっちだと言った伊吹に璃夕は、居場所とは自分で見付ける為にあって、誰かに与えてもらうものではないと応えた。なのに、彼は歩き出すことも出来ない臆病な伊吹のために、居場所を造ってくれようとしているのかもしれない。


 だけど、本当に哀しい過去を持っているのは自分ではなく、深く暗い海でたった一人きりで生きてきた彼の方だ。


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