第22話

 伊吹がカウンターで貸し出し手続きをしている間、璃夕は一足先に外に出て待っていた。図書館の壁は本棚に塞がれていない場所以外、ほとんどが硝子張りのせいで、ぽつんとマロニエの木の下にたたずんでいる璃夕の細い背中が見えた。


 彼は図書館に隣接して作られている児童公園で遊んでいる子ども達を眺めているようだった。


 マロニエの尖った葉が落とす緑色の影が、彼の体に薄い灰色の皮膜を作っている。それが、ベールを被っているようで綺麗だった。


 日曜日は親子連れ以外に若者も利用する。ふと目にすると大学生ぐらいの男が何事か、璃夕に話しかけているのが見えた。男はとろけそうな笑みを浮かべて、食い入るように彼を見つめていた。伊吹はすぐに男が何をしようとしているのか悟った。しかし、足はそちらに向けて動き出さなかった。ぴっぴっと目の前で司書が本にバーコードを押しあてている音を、ぼんやりと右耳で聞いているだけだ。しばらくして、男は酷く名残惜しそうな様子で足早に璃夕の元を去っていった。それを見届けて、胸を撫で下ろす。と、同時に璃夕が振り向いた。視線が伊吹を求めて動き、こちらを見付けると憮然とした顔のまま、唇を引き上げるようにして不機嫌そうに微笑む。


 伊吹は本を掴んで足早に外に出ると「遅い」と怒声が飛んできた。首を竦めてやり過ごし、彼の顔を見る。それから、去っていった男の小さくなった背中を見た。


「気付いてたんなら、助けろよ」


 ぽそりと呟く。どうやら、彼も自分が黙って傍観していたことに気付いていたらしい。伊吹は苦笑を浮かべて、手に持っている本を掲げて見せた。


「本があるのにホッポリ出してですか?」


 璃夕は舌を鳴らした。が、すぐにころりと機嫌を変え「借りれた?」と子どものような口調で尋ねてくる。


「大丈夫ですよ。このまま璃夕さんの家まで、宅配しますね」


「よろしく!」


 「んじゃあ、帰りますか」と、二人が歩きだしたときだった。「笠原じゃないか」という声に呼び止められた。振り向くと、図書館から出てくる男がいる。彼は自分を見て、少し驚いた顔をしていた。伊吹もびっくりした。


 園守清晶そのもりきよあきだ。


 彼は肩から鞄を提げ、こちらへと歩いてくる。眼鏡を付けているの姿を学校では見かけることがないので、すぐには誰なのかわからなかったのだった。その硝子の向こうの瞳が軽く瞠られている。


「怪我をしたと聞いたが、大丈夫なのか?」


 心配する声は教師そのものだった。


 この間、工藤と山岡の口から園守の名前を聞いてから、伊吹は得体の知れない不安をこの教師に対して抱いていた。不安はそのまま、園守に対する不審へと繋がり顔に出てしまう。笑みを浮かべようとした唇が硬く強ばっているのが自分でもわかった。


「はあ、なんとか」


「そうか。私がゴミ捨てを頼んだばかりに、すまないことをしたね」


 心底後悔しているというように、彼は瞳に悔恨の色を滲ませている。いまだ包帯に包まれている伊吹の手を見た。その手が掴んでいる本も見た。


「大丈夫なのかい、荷物なんて持って」


「重くない物なら平気ですよ。本当ならこんな大袈裟にするほどの怪我じゃないので」


 軽く本を持ち上げてみせた。園守は食い入るように包帯を見ていたが、そこになんら異常が見て取れないのを認めると、ややホッとした笑みを見せた。


「そうか。あの凄い爆発と炎で、よくそれだけの怪我ですんだものだよ。まさに奇跡だ」


「はあ……」


「水道管が破裂して水が噴出してこなければ、きっときみは死んでいたよ。本当に奇跡だ」


 奇跡だと繰り返す園守に対して、伊吹はどう答えて良いのかわからず曖昧に頷いた。


「そうですね……」


 ――――伊吹にはどうしてこの男が、そこまで自分を心配するのかわからなかった。


 怪我をさせたことに責任を感じているというには、園守はもっと他人に対して無関心な印象だった。どこか両親に似ていると思っていた。もっともそれは伊吹の勝手な先入観でしかなかったのかもしれない。人の心の内側が見えないように、本心から生徒の怪我をすまなく思っているのかもしれない。


 心配してくれていることへのお礼を言った方がいいのかもしれない。伊吹が口を開きかけたとき、ふと園守が傍らにいる璃夕を見た。その瞳が軽く見開かれ、すぐに困惑そうに細められた。


 園守が驚いたのは璃夕の容姿にだろう。彼に始めて会う人間は、だいたいが同じ顔をする。が、その次の表情の意味がわからなくて、伊吹も璃夕を見た。


 璃夕は、瑠璃色の瞳を目一杯見開いて、呆然としたように園守を見つめたまま、固まっていた。驚きと言うよりは驚愕、衝撃と形容するのが相応しいだろう。


「璃夕さん?」


 「あ」と、璃夕の唇が動いた。それをきっかけに彼の顔が揺れる。崩れるように何かが剥がれ墜ち、それはやるせない切なさだったり愛おしさだったりしたが、それもすぐに掻き消え、不審だけが残った。


 挑むような鋭さで園守を見ると、


「おまえ誰だ?」


 唐突にしては不躾な質問だった。園守は「は?」と首を傾げた。


「裕哉ゆうやによく似てるけど、ぜんぜん別人だ。おまえ、裕哉の一族のものか?」


「裕哉? 裕哉というのは死んだ叔父の名前だが……」


「死んだ? 裕哉は死んだの?」


 璃夕の傍らにいた伊吹には、死という言葉が璃夕の体に衝撃を与えたのがわかった。


「きみは私の叔父を知っているのかい―――」


 園守は何かに気付いたようにはっと息を飲んだ。


「その、目は……。きみは、きみはまさか」


 園守の言葉は最後まで続かなかった。いきなり璃夕が伊吹の手を引き、くるりと園守に背を向けてすたすたと歩きだしたのだ。


「璃夕さん?」


「帰ろう。僕がここにいる意味はない」


 ナイフでばっさりと切り捨てる強さで言葉を吐きだした彼は、もの凄いスピードでずんずんと歩く。その手を引かれている伊吹は、あわや転びそうになった。振り向けば、立ちつくした園守の姿が小さくなって行くところだった。


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