第20話

 男が一人、遠く聳えゆく海原を見ていた。黒く禍々しい色の水だった。風に泡立つ白波は、誰かが零した涙のように見える。風が強い。灰色の雲が、ごうごうと音を立てて流れてゆく。それをぼんやりと目で追っていたら、何ものかに足首を掴まれた。


 見ると、海からあどけなさと息を飲むほどの美貌とを併せ持った持った少年が、自分を見上げていた。白く濡れた手が、男の灰色のズボンの裾を掴んでいる。彼の指が触れた場所からじわじわと塩辛い水に濡れて、布地がまるで膿んだように黒く染まっていった。


「こんな岩場の上でぼうっとしてると転がり落ちるよ」


 明るく笑う声で、少年は言った。しかし男には、彼こそが自分を海の底へ沈め来ようとするセイレーンに思えた。


 少年は男の中の侮蔑と怯えを読み取ったのか、ますますおかしげに笑った。ズボンの裾から手を放し、すいと泳ぎ岩場から離れ、海の中を揺れることなくたたずみ、男を見上げた。


 男は少年を見下ろした。


 唐突に、男はこの子どもが哀れに思えてならなくなった。こんな悪魔の住むような暗い海の底でたった一人きりで暮らす子どもが、不憫に思えたのだ。


「淋しくないのか?」


「なら、僕の側にいてくれるわけ?」


 美しい顔に似合わない皮肉そうな色を浮かべる。


 例え男が本気で少年の側にいたいと望んでも、それは無理な望みだと言うことを二人はよく知っていたし、そもそも男はそんなことを望んではいなかった。


 海は暗く意地悪で、決して男の存在を受け入れはしないだろう。男もまた、海を受け入れはしなかった。


 押し黙った男に、少年は不機嫌そうに眉根を寄せた。手をひらめかせて水をこちらに向かって投げてくる。冷たい海水の飛沫が、男の頬や腕に跳ねた。


「どうしてそうゆう顔するかなぁ。僕がこんなふうなのも、おまえが人間だって事も別に哀しい出来事じゃないだろ。僕はそんなにかわいそうに見えるわけ? 一人じゃ生きていけないように見える? でも、これでも結構長い時間、一人きりで生きてるんだけど。憐れまれるほど、僕は自分を不幸だと思ってないし、ていうかそんな顔して憐れまれる方が不愉快だよ。僕という生き物を侮辱してる」


 少年は一度にそう言うと、溜息を吐いて呆れた顔をした。


 岩場の方へ泳ぎ寄ると、器用な仕草でひょいと乗り上げ、男の隣に腰を落とした。男は慌てて辺りを見回した。少年の姿を他人に見られでもしたら、大変な事になる。


 一方、一番警戒していなくてはならないはずの少年は、あっけらかんと言った。


「大丈夫だよ。誰もいない」


 その通り、夕闇の近づいた海辺には誰の姿もなかった。沖を漕ぐ船の姿さえ一艘も見渡せない。それでも不用心すぎると男は非難を込めて、少年を睨んだ。


 美しい顔の下に続く体は、白く透き通るような裸身である。数珠のように連ねた真珠や珊瑚を首や腰に巻き付け、肌を包むように長い黒髪から雫を落とす。その裸身の腰から下は、魚の尾だった。七色に瞬く鱗は、宝石のようにきらびやかで身を飾る数珠玉よりも美しい。


 はるか昔、この鱗に金銀の財宝を詰んでまで手に入れようとした大名がいたのだという。はたまたこの海の一族を手にれるために一国を犠牲にしたものもいたのだという話しもある。


 人魚なのだ。


 この美しい少年は、その海の一族特有の綺麗な容姿と魚の尾を持ち、意のままに水の中を泳ぐ人魚なのだ。そして、男の遙か倍の長さの時間を、生きているのだということも知っていた。


 「ねぇ」と少年が男を呼んだ。男が視線を落とすと、少年は海の彼方を見つめていた。深い色をした瞳が、暗く影っている。


「海が泣いてる。あまりに多くの人が死にすぎたんだ。海は命を生むけど、人間の命は一度離れれば土に還ってしまうから。離れて言った命を哀れんで泣いてる」


 男にはそんなふうには見えなかった。海の波は変わらず陰気で繰り言のように愚痴をこぼしているようにしか聞こえない。


 それでも、この少年がいうのなら真実なのだろうと男は思った。


 船に乗った者も、戦闘機に乗った者も、多くの者が帰っては来なかった。たぶん、この海原のどこかで死んだのだろう。戦争とはそうゆうものだ。


 男は無言で少年を見た。


 子どもは唇を緩め、淡く笑みを作った。


「ま、僕としては誰がどこで死のうが関係ないけどね。海に沈んだ命は、等しく僕ら海の一族のものだ。彼らはすぐに泡のように消えてしまうけれど、しばらくの間は退屈な時間の相手をしてくれる。生きている人間よりもよっぽどいい。僕らを捕まえようなんて、考えたりしないから」


 唇を綻ばせて笑う彼の姿は、海の底に潜む呪いの魔女のように禍々しく男の目には映った。だが、その怪しい光に自分の心が惑うのが男にはわかった。手を伸ばし、指の背で頬を撫ぜれば、冷たい温度と吸い付くような質感を感じる。肌に張り付いた髪の毛を払ってやれば、物憂げに少年が瞳を動かし男を見上げた。


 男は構わず手を動かし、頬から額へ額から耳へ耳から首へとなぞり、そっと首の後ろに手をやり彼の顔を仰のかせた。その顔を見つめたまま、心の底から男は呟いた。


「美しいな。相容れぬ命だからこそ、そう感じるのか。異形だからこそ、そう感じるのか。おまえは誰よりも美しい生き物だ」


 男の言葉に、少年はすうっと瞳を細めた。細く尖った三日月のように鋭く輝く瞳だった。男は少年の唇に己の唇を押しあてた。冷たく濡れた唇は、心地よく男の肌に合わさったが、それは男の意に反してすぐに突き放された。見ると、少年がぐいと拳で口角を拭っている。


 挑むような激しい瞳で男を睨んでいる。はっとするほど攻撃的な顔だった。


 男は少年が誰よりも優しい顔をすることを知ってた。まるで慈悲深い女神のように微笑むこがあることも、また、意地悪く悪戯好きな小悪魔のように男を魅了し、からかうことも知っていた。


 なのに、今彼の美しい面に浮かんでいる顔は、激しい憎悪だと男は感じた。


「気安く僕に触れるな。手慰みの相手をするほど、墜ちたつもりはない」


 ぴしゃりと男をはね除ける声だった。男は仕方なしに手を放した。行き場をなくした指を持て余して、ポケットに突っ込んだ。


 人魚は誇り高い海の一族だ。基本的に人間とは相容れぬ存在であり、容易く身を許す生き物でもなかったが、男と少年の間にはそうゆうものを越えたある種の親密さがあったはずだった。今まで男が悪戯に彼に触れて、拒否をされたことはまずなかったのだ。


 気紛れな少年のこと。今日は虫の居所が悪いのかもしれないと、男が頭の中で勝手な結論を付けていたときだった。


「逃げるんだ、遠くへ」


 不意に、少年が言った。今まで一度も聞いたことのない、厳かで優しい声音だった。海を見据えていた横顔のまま、手を上げ彼方を突き刺す。


「助けたい人がいればそれを連れて、遠く高い場所へ逃げろ」


 男は困惑して人魚の名を呼んだ。


「次の日の昼間、大きな波が来る。波はこの小さな町をあっという間に飲み込んでしまう。そうすれば人間なんてひとたまりもない。彼らは水の中では長くは生きてはいけないのだから」


 神託を下す巫女のような、冷え冷えとした声だった。


 男は戸惑って、子どもを見た。子どもは決して男を見ない。海だけを、見ている。決然と。


「僕がここにくるのも今日で最後だ。もう、二度とおまえとは逢わない」


「おい?」


 男はわけがわからず、人魚を見る。人魚は自分の肩を掴もうとした男の手を避けて、海へと飛び込んだ。


 真っ白な飛沫の中で、長い髪がやわりと揺れた。


「今までおまえと一緒にいて楽しかったよ。だけど、幸せじゃなかった。おまえにとって僕はたんなる見目の良い愛玩具と同じでしかない。だけど、僕には心があって誰かを愛したり傷ついたりするんだって事を、おまえは気付こうともしない。僕は先に破滅しか待っていないような関係は好きじゃない。だから、もう逢わない。海の底で一人きりで眠るよ。おまえは、おまえに相応しい同族と一緒にいる方が似合ってる。僕らは相容れぬものなんだから」


 波の間から聞こえてくる声ははっきりと響き、男の鼓膜を震るわせる。と同時に、男の心も震るわせた。


 行ってしまう、あの美しい子どもが行ってしまう、男は焦って手を伸ばそうとしたが、指は虚空を掴むだけだった。男がひとつ足を差し出すだけで、この身は波の荒い海の中へと落ちてしまうだろう。男は泳げなかった。きっと人魚は、自分を助けはしないだろうと、あの声を聞いて悟った。後を追って飛び込めなかった。


 白波の間から、美しい顔が覗く。その顔には悲哀も憎しみも見えず、ただ淡々と作り物めいていた。


 そして、すぐに海の奥へと消えてしまった。


 男はあの美しい異形の子どもを、失ったのだと悟った。


 「愛していたのだよ……」と呟いた声は、たぶんあの美しい人魚には届かなかったのだろう。


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