第三話 間にある

「できるでしょ、私のショパンなら?」


あたしの思考をぶった切るように、またも挑発的な言葉が投げこまれてきた。


安姫を見る。笑ってる。ただ、そいつを言い表すのに適当っぽい言葉は、たぶん――信頼。


椅子から半分ずれ、ちょい、ちょいと空いたスペースをたたく。誘いに応じてあたしが歩み寄ると、安姫はピアノに対して、横向きに座り直す。


そしてあたしは、背中合わせに座る。


ここまでで、一時間。いつでも安姫の演奏は全力で、背中越しに伝わる呼吸はやや荒く、その汗は、熱い。


「いつも言われっぱなしで悔しいからさ、私も、ずっと考えてたんだ。枡美のこと。それで思ったんだ。枡美ほど音楽に愛されてる子なんて、そうはいないんじゃ、って」

「なんでよ。安姫のほうがずっと――」

「違うよ。私と音楽は、一体になるものじゃない。向き合って、戦ってる」


こつ、と、安姫の後頭部が、あたしのうなじに当たる。


「いつも怖いんだ。この曲の思いを、魅力を、どれだけ引っ張り出せるんだろう、って。頭の中で歌えたものを、どれだけ表現し切れるんだろうって。だから、私は弾くしかないんだ。曲が私を通して現れたって言う、確かな形にできるまで」


思いがけない言葉だった。


あたしにとって安姫は、いつでも太陽のようなピアノを弾く存在で。その指で、唯一無二の音を導き出すことを、心底喜んでいる。そんなイメージがあった。


「あ、もちろん楽しいよ?」

「エスパーかよ」

「枡美限定のね」


よくこういうこと、しれっと言えるもんだ。


「ただ、じっと見てるんだ。奥底で。はじめのうちは使命感なのかな、とも思ってた。それがお父さんの娘に生まれる、ってことだし」


広永先生はあたしたちの母校で教鞭も取っておられるが、それより前に、ひとりの大ピアニストでもある。何度となく、満員の大ホールで、先生のピアノに心揺さぶられたものだ。


「けど、違う。奥底のその向こうで、うごめいてるなにかを感じるの。その正体が、ここ数年でようやくわかったんだけどね」

「正体?」

「音楽を聴く人たち。私のピアノを、ってだけじゃなくてね」


ずいぶんと壮大な話になってきた。けど、妙にすとん、と腑に落ちてしまうのだから不思議だ。


「私は音楽と、人々の間にあるんだ。それをどれだけうまく伝えられるかは、いつも私の頭の片隅にあり続けてる。心強く、頼もしく、けど時に恐ろしい隣人。それが、私にとっての音楽。向き合わなきゃいけないものなの」


かなり観念的でもあり、正直どれだけ安姫の言葉の意味をくみ取れたかはわからない。けど、わかることはある。


安姫がそう思っているからこそ、安姫にとってあたしは、「音楽に愛された存在」なのだ。


「珍しいじゃん、あんたが自分語りなんて。けど、いまはあたしのこと話してくれるんじゃなかったの?」

「あっ!」


天然かよ。


なんだかもじもじし始めたのが伝わってきた。「えっと、それで、あのね、」って、もにょもにょしてくる。


「ほ、ほら、枡美ってさ。早いじゃない。譜面見てから、実際に演奏するまで」

「まぁ、だいたい初見で行けるよね」

「しかもさ、いきなり完成度高いじゃない? それってなんでなんだろって思ったんだけど、たぶん譜面だけでも、枡美、見えてるよね? その曲の全体像」

「んー。そう……なの、かな?」


まずは言葉をかみ砕く。

これまでも、よくあったのだ。ぱっと聞きでよく意味がわからなかった指摘が、実は思いもかけず痛いところをついてきたことが。

安姫はあたしをよく見てる。なら、その言葉にも、きっと込められた意味がある。


確かに、あたしの暗譜は速いらしい。転写だなんて言われたこともあるくらいだ。

譜面から音を組み上げ、途中途中にキーポイントを設ける。各キーポイントの接続をフレージングやリズムから関連付けて、つなげあわせる。そうして導き出した作品のテーマから、各フレーズを導き出し、音にする。譜面確認から演奏までのルートを大ざっぱに描いてみると、こんな感じだ。

そこに安姫の全体像が見える、って言葉を組み合わせれば、各フレーズを展開する必然性を見いだすのに長ける、って辺りになるだろうか。


「あるべきフレーズを、あるべきパッセージで弾く。そんなもんじゃない?」

「そんなもん。そんなもんだけど、普通実現できないからそれ」

「うーん、確かに難しいフレーズとか指まわりきんないよね」

「いやー、そこでもないんですよねー」


なんだよちくしょう、なぞなぞかよ。


と、それまでの少しふわふわした口ぶりから、ややトーンが沈む。


「ただ、もう答えは枡美も言ってるんだけどね。あるべきところの音、言い換えれば、あるべき曲の形。音楽に愛されでもしなきゃ、そんなすぐに見いだせるものでもないと思うんだ」


そう言うと、いきなりあたしの手を握ってくる。


「枡美さ、ちょくちょく陰で言われてたじゃない。私のまねするな、って」


ひく、と頬がつりかける。


「不思議だったんだ。わざわざ私の音なんかに寄り掛からなくたって、出すべき音はわかってるはずなのに、って。けど、いつ頃からだったかな。そんなこと言ってられる余裕もなくなっちゃって」

「なんでよ」

「気付いちゃったのよ。枡美が私の音そっくりになるときって、だいたい私がやりたい、って思ってたことを先にやってたの。わかる? 誰にも聞かせてなかったはずの音を、いきなり聞かされるショックがどれだけか!」

「んな大げさな……」

「全然よ! これでも控えめなくらい! そこからはもう、毎回死にものぐるいだったのよ! 私の理想は現実になっちゃった、なら、どうにか超えるっきゃない、って!」


つかんだまま、ぶんぶんと手を振ってくる。

名前が名前なだけありお姫様っぽく見られることも多い安姫だが、そこはもうピアニスト様、一流のアスリートだ。現役引退して久しいあたしなんぞ、振り回されるがままになってしまう。


「あーいや、ありがたいはありがたいけどさ、なんであたしもみくちゃにされてんの」

「だって悔しかったんだもん!」


ようやく、ぴたっと止まる。

あたしたちの手は、なぜか天高く掲げられていた。


「けど、だからこそわかったこともあるんだ。枡美が描けるのは、譜面だけじゃない。私の音についても、そうなんだって。枡美が私を、ときに引っ張り、ときに急き立ててくれる。だから私はここまで走ってこれた」


ところで、そろそろ手ぇ離していい?

照れ隠しに、できるだけぶっきらぼうに言う。

却下された。下ろしはしてくれたが。


「だからさ、出発の前に、どでかいのをもらいたいの。私のショパンの音楽を、胸いっぱいに詰めて。それで、世界と戦っていけるように」


きっといい顔をしてるんだろうなぁ、見れないのがちょっと悔しいや――そんなことを思いはしたのだが、あとから聞けば、このとき安姫は懸命に泣くのを我慢してたそうだ。なんてこったいだ、理解できた、と思っても、やっぱり安姫はむつかしい。


あたしはいちど、ざっくりと第一を思い起こす。何回か通しで弾いたことはある曲だし、思い出せないことはない。けど、やっぱりピントはどうしてもぶれがちだ。


ただ、そこに安姫のピアノが載ってくるのなら。


「ったく、うちのお姫様のわがままには、大概慣れたつもりでいたんだけど」


椅子から立つと、自由だった方の手で、くしゃ、と安姫の髪をなで回す。


「やるからには、全力だからね? あんたが手ぇ抜いたと思ったら、すぐにおしまいにするから」

「私が? まさか!」


ようやく、手が離れた。

ちょっとさみし……いや、なんでもない。


乱れた髪を手ぐしで直し、ピアノと正面切って向き合い。傍らのバッグからは、第一の楽譜を取り出して。


「もう覚えてるんじゃないの?」

「そりゃね? けど、隣に必要な人がいるでしょ?」

「あんたね、なめるのも大概に――」


言いながら、安姫の後ろに回り。

がっしと、その両肩をつかむ。


「なんて言えりゃ、カッコいいんだけどね。甘えさせてもらうわ」


ふふ、と小さく笑うと、安姫は鍵盤に手をかけた。

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