ふたりでショパン

ヘツポツ斎

第一話 KK IIa No. 1: Polonaise in G minor

安姫あきの家の広さときたら、とにかくただ事ではない。せめてもの救いは、スタート地点の格納庫から目的地のバルコニーまでが、さほど離れてはいないことか。

 

枡実ますみ、マット敷けた?」

「オッケ、今そっちに回るから!」


そう言うとあたしは安姫の隣に立つ。じんわりと汗の浮かぶうなじから、ふわりとシャンプーの香りが立つのをそれとなく感じながら。


「よっし、じゃ……せー、のっ!」


いくらキャスターがついているとはいえ、なにせガチもののグランドピアノだ。成人男性三、四人には届こうかという重さのシロモノを、細腕の女の子ふたりに運搬させる。控えめに言って広永ひろなが先生、つまり安姫のお父さんの頭はお茹だりになっていらっしゃるのではないかしら、と思う。


ピカピカに磨き上げられた廊下を傷つけないため、厚手のショック吸収マットを二枚組で使う。一枚の端まで行ったら、もう一枚をその先に移動して、継ぎ目でピアノのキャスターがフロアを引っかかないように、あたしがピアノの隅っこを頑張って持ち上げ、その間に安姫が頑張って押して、継ぎ目を乗り越えさせる。ピアノに付くキャスターは四つ。つまり四つ分を持ち上げ(いや持ち上がらないけど、少なくともマットの継ぎ目を引きずってフロアを傷つけるようなことはしないで済んでる)、バルコニーに至るまでの道筋を、青息吐息で進む次第だ。


「つ、ついだぁ……」


初夏の日差しがさんさんと降り込む、その片隅に安姫はピアノを配置すると、何はともあれピアノの側面にぶら下げてあったペットボトルをひとつ取り、ぐい、と飲む。


「ん」

「ん」


おおっと広永さんそれは間接キスってやつですよイイんですか、ここにのさばる金谷枡美、しれっとした顔してますがなかなかのケダモノでして、ちょっとでも相手の視線が外れれば下手すれば広永さんが口をつけたところをくんかくんかし始めるかもしれません、けど、いまはそいつもだいぶのどが渇いてたので、一も二もなく口にするのです。内心で役得役得とか思いながら。にげてー広永さんにげてー。


「枡美にここに来てもらったの、久しぶりだよね」

「中学生のとき以来、かな? あの頃から忙しくなり始めたしねー、お互いに」

「ここからは、もっと忙しくなるよ」


そう言うと、半袖Tシャツにジーンズ、お世辞にもらしからぬ服装のまま、けどそのお辞儀には一流のピアニストとしての誇りが十二分にうかがえた。


「だから改めて、ありがとう。聞きに来てくれて。広永安姫、ウィーン出立前のスペシャルリサイタル。本日は金谷かなや枡美様のためだけに、全力で弾かせていただきます」

「録音していい? プレミア付きそー」

「ばか」


くすりと安姫は笑う。けどそれも、ピアノに向き合った途端に真剣そのものになる。


よく知っている、そして、久しく間近では見ることのなかった顔だ。こうして穏やかな気持ちで目の当たりにすると、なんと高貴で、美しい顔なんだろう、と思う。


繊細なタッチ、控えめな音量から導き出されるのは、ショパンの「ポロネーズ第11番ト短調」。


十才になるか、ならないか、みたいな頃のピアノコンクールのことだった。当時ちびっこなりに天才だと信じて疑ってなかったあたしは、安姫の11番を聞いて、ハンマーで横っ面を引っぱたかれるみたいなショックを受けた。同い年で、こんなに弾けるやつがいるなんて! って。


それは安姫にしても同じだったみたいで、お互いの出番が終わったあと、驚きと、あと喜びとを交えて、あたしに近づいてきた。

見栄っ張りだったあたしは「すごい、すごい!」って子犬みたいにじゃれついてくる安姫に対して「あんたも悪くなかったよ」みたいなことを言った。はにかむ安姫を見て、なんだこの可愛い生物は、みたいに思ったっけ。


あの頃から、安姫のピアノは輝いてた。それは今も変わらない。どころか、あの頃とは比べ物もない華やかさでもって、あたしを圧倒してくる。


11番が終わるとそのまま、あたしと安姫の間を折々に結びつけてきたショパンの曲が続く。どれもが記憶にある通りの、けど、より新しく、より輝かしい、安姫の音だった。


曲の合間に、ふざけて茶々を入れる。


「ねぇ、リストやってよリスト。ショパンばっかじゃ飽きてくるんじゃない?」

「なら枡美が弾いてよ。喜んで拝聴させていただきますけど?」

「おー怖、勘弁してよ」


わざとらしく怒ったような顔から、ぐるっといたずらっぽい笑みに転じる。くそう、この小悪魔。


まぁ、もともと今日はショパンのみ、と言う話だったのだ。聞き入れてもらえるとは思っちゃいなかった。


二年後、ポーランドの首都ワルシャワで、ショパン国際コンクールが開催される。言ってみれば、世界一のショパン弾きが誰かを決める、というものだ。既に安姫はコンクールに照準を絞り、準備を進めている。ウィーン入りもその一環で、日本にいるといろいろと雑音も大きいから、一流のコーチのもとでコンクールの準備に専念できるよう安姫が希望し、広永先生のご助力を仰いだ。


実は先生、あたしのためのリサイタル、なる安姫の申し出には、ものすごく渋い顔をなさってた。ただでさえ忙しいのに、そんな中で、いくら十年来の親友のためにとはいえ、わざわざたったひとりのためになんて、と。


先生との間にどんなやり取りがあったのかは、よくわからない。けど「準備は自分たちでやれ、片付けはやってやる。それと、この大事な時期にショパン以外を弾くことは認められない」なるお言葉からは、先生の複雑な気持ちがにじみ出てきているように思う。


とはいえ、ショパンのピアノ曲はゆうに二百曲を越す。そのチョイスも、バリエーションも、その気になれば自由自在だ。


時には陽気に跳ね回り、かと思えばしっとりと、ゆったりと。曲が変われば、安姫のたたずまいもがらりと変わる。どこかの小説で読んだ、さまざまに表情を変える月のようだ、なる比喩が、ふとあたしの頭の片隅によぎる。


言うまでもなく、極上の時間である。安姫の指からもたらされる音の奔流に身を任せ、あたしは、小さく吐息をもらす。


――あぁ。どうして、こんな音を憎いと思ってたんだろう。

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