第9話 白雪姫の心配
「なんかさ、お前顔色悪くね?」
翌日の昼休み。教室で弁当箱を開こうとしていた晴人に対し、眉を顰めながらこちらを案じるような表情をした渡の声が掛かる。
そのままコンビニで購入してきたであろうメロンパンの袋を開けると、大きく口を開けて頬張った。
基本的に昼食時はいつも渡と一緒に食べている。普段から女の子絡みのふざけた言動がどうしても目に付きやすいのだが、そんな渡が晴人を気遣うような表情をしてそう指摘するということは相当酷いのだろう。
確かに朝から若干寒気やだるさを感じていたのだが、まさか不調が原因だったのだろうか。
「マジか」
「あぁ、全体的に白いぞ。見るからに体調が悪いって感じ。心当たりねぇの?」
「んなのある訳…………、あ」
「やっぱあるんか」
「先週の金曜日、雨に濡れながら帰ったな」
当時の出来事を振り返りながら、ふりかけの掛かった白飯を箸でつっつく。
母親の作ってくれた弁当箱を取り出している時点でそもそも食欲が無かったのだが、やはりというべきか弁当の中身を見ても食欲は湧かなかった。
体調が悪いのだとしたらこれからもっと悪くなる可能性があるだろう。このまま食欲が無い状態で無理にでも食べるべきか否かと、晴人は口に入れるのを躊躇しながら苦い顔をしてしまう。
「おいおい、あの土砂降りでか? 傘持ってきたって言ってたじゃん」
「白雪姫に渡した。なんか帰るとき玄関で困ってたから」
「ははっ、嘘を吐くならもっと上手く言えよ」
別に傘を忘れてきても恥ずかしいことじゃねーし、と渡はからかうような笑みを浮かべる。どうやら渡は晴人が傘を忘れてきたと思っているようで、高校で有名な冬木由紀那を利用して見栄を張ったと勘違いしているみたいだ。
嘘も何も、困っている冬木由紀那に傘を渡したのは本当のことなので素直に話したのだが、現実味が無いと判断したのだろう。
晴人と渡の友人としての付き合いは高校一年生の入学時から続く。ある程度の晴人の人柄を見抜いている渡にとって、人間関係に無頓着で人付き合いを極力避けてきた晴人の口から全く接点の無い(と思っている)白雪姫という言葉が飛び出たこと、そして彼女に傘を貸したこと自体が信じられないようだ。
この調子ならば、休日に飲食店で冬木由紀那と遭遇したと言っても一蹴されるだけだろう。これ以上言葉にするのは無意味だろうな、と体調不良から若干億劫さを感じていた晴人は小さく溜息をつく。
「……ま、別にどうでもいいか」
「ともかく、それって風邪の兆候じゃねーの? 早退するか?」
「いや、まだ午後の授業残ってるじゃねえか……」
「晴人ってそう言うとこ無駄に真面目だよな」
「無駄言うな」
「しゃあねぇな……ほれ」
晴人の目の前に差し出されたのはゼリー状の栄養補助食品。渡が昼食で食べる為にコンビニで複数の菓子パンと一緒に購入してきたものだ。
きっと食欲がない様子を見抜かれていたのだろう。確かにこういった軽食の類いであるゼリーであればするりと無理なく喉を通る。
「……飲んでいいのか?」
「良いからこうして差し出してんだろうが。それでせめて放課後まで乗り切れ。あと今日は写真撮らないでさっさと家に帰って寝ろ」
「すまん……」
普段よりも幾許か真面目なトーンで話す渡に対し、晴人は申し訳なさを感じつつゼリーを受け取る。
本来であればこのように体調が悪い場合は早退するべきなのだろうが、晴人は部活動に属していない帰宅部だ。それにあと残りの授業が二科目だけなのにこのまま帰るのは少しだけ気が引けた。
蓋を外して中身のゼリーを吸い出すと、爽やかなマスカット味が口の中に広がった。食欲が無いときでもこうして手軽に食事としてエネルギー補給出来るのは本当にありがたい。
「なぁ晴人、さっきから言おうかどうか悩んでたんだけどさ……」
「ん、どうした?」
「その弁当の出汁巻き卵、食べても良いか?」
「……どうぞ」
体調が悪いなか言い辛かったのだろうか。どこか神妙に訊ねる渡に、晴人は苦笑いを浮かべつつ弁当と箸を差し出すのだった。
あぁ―――今日だけは会いたくないな、と一人の少女を脳裏に思い出しながら。
そして時が過ぎ放課後。早々に帰宅する為にいつも通学で利用する道を歩いていたのだが、晴人の健康状態は限界にまで達していた。
咳や喉の痛みといった症状は表れていないのだが、朝にも増して寒気や倦怠感が酷い。それに加えて昼休みには感じなかった気持ち悪さもあり、身体の熱感といった火照りが全身を駆け巡っている状態だ。
幸いと言うべきか吐き気はない。渡に貰ったゼリーとその後購買の自販機で購入したスポーツ飲料を胃に流し込んだのが功を奏したのか、なんとか徒歩で帰宅出来るだけの体力を得ていたのは僥倖だった。
(とはいえ、そろそろ本当にきついな……)
近くの電柱に手をついて足を休める。吐き出す息には熱がこもっており、呼吸は荒く、何度平静を保とうと意識しても全身を支配する気持ち悪さが邪魔をした。
渡の言う通り、恐らくこれは風邪の症状なのだろう。現在の状況では冷静な思考など到底出来そうにもないが、今思い返すと明確な風邪の症状が現れていなかっただけでそれらしき兆候はあったのだ。
(土曜日の朝か……。もっと早くに気付くべきだったな)
あのときは起床したばかりであったし、朝の空気は冷たかった。てっきりそれが原因で肌寒さと身体が重苦しいのだと考えていたのだが、きっとそれらは風邪の症状だったのだろう。
それが今になってぶり返してきたといったところか。
「なんてはた迷惑な……」
思わず顔を歪めながら独り言ちる。
雨に濡れた後の体調のアフターケアが不十分だった自分も悪いが、時間差でここまで悪化するのはどこか納得がいかない。
それでもこのままこの場に止まっていても埒が明かないのは事実。これ以上症状が悪化する前に、なんとか一歩でも足を前に動かして帰宅への道のりを着実に進めようとした次の瞬間。
晴人の背後から声が掛けられた。
「あら、こんな場所で出逢うなんて奇遇ね」
「……また、話し掛けてきたのか」
緩慢な動作で振り向くと、そこには濡れ羽色の綺麗な長髪を靡かせた白雪姫が立っていた。彼女に返事をするのに以前と違い自然にぶっきらぼうな声が出てしまうが、絶賛体調が悪いのでそこまで気遣う余裕が無い。
相変わらず無表情で端正な顔をしている、と内心で妙な感慨深さを覚えたのは秘密だ。
「今日は、アンタと話している余裕はないんだ。……悪いがほっといてくれ」
「……もしかして具合が悪い―――風邪かしら」
すぐさま観察するようにスッと目を細める冬木由紀那。
高校でも評判なほど聡明な彼女のことだ、晴人が現在具合が悪く、風邪の症状を患っているということはたった一目見ただけで見抜いたのだろう。
そして恐らく、
「私が、風宮くんから傘を借りたから……?」
「それは違う。俺が折り畳み傘で帰ったのは知ってるだろ」
「でも今にも倒れそうなほど苦しそうよ。こうなってる原因はあの日以外にあるのかしら?」
「それは……」
晴人に対する心配と後悔が見え隠れするその瞳に思わず言い淀む。
不調を訴えていた身体のサインに気付かず休日に出掛けた。肌寒い中、開花した桜を写真の修める為に早く登校した。
びしょ濡れで帰宅した日、湯船にゆっくりと浸からずにシャワーだけ浴びたのも原因の一つだろう。
だが彼女が訊ねているのはそういった後々の理由づけではない。
風邪を引くほど晴人の体調が悪くなってしまった根本的な不調の原因だ。
だからこそ冬木由紀那は晴人に傘を借りたから?と訊ねたのだろう。
きっと自分がいなければ晴人は大きい紳士傘を差して帰ることが出来た上、風邪を引くことが無かっただろうという可能性に思い至ったから。
(……だから会いたくなかったんだ)
結局のところ、晴人があの日傘を冬木由紀那に渡したのは自己満足。見返りなんて全く期待していなかったし、例え折り畳み傘を差して強風で雨が煽られずぶ濡れになろうが、それが原因で風邪を引こうが、全部ひっくるめて晴人の自己責任だったのだ。
それらのリスクを承知で彼女に傘を渡したのは晴人自身だし、風邪を引く覚悟を選んだのも自分だ。
決してこんな体調が悪そうな姿を見せて、目の前の彼女に後悔や罪悪感を抱かせる為ではない。
出来ることならば安心する要素を含んだ余裕を持った返事をするのが好ましいのだろう。
だが次第に募る倦怠感と気持ち悪さから、これ以上の思考や会話は面倒だと感じてしまった。
「はぁ……もう、いいだろ。雨に濡れて遅れて風邪を引いた、ただそれだけだ。アンタが気に病む必要は全くない」
「でも……」
「もし、もしそれで気に病んでいるんだとしたら、頼むから今日は、放っておいてくれないか?」
「………………」
そうして俯く彼女を見ると新鮮だと思うと同時に、体調が悪いのも相まってか胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
すぐに風邪だと察して心配して気遣ってくれる気持ちは大変嬉しいのだが、白雪姫は人見知りだ。もしこんな人の目がある場所で他の生徒に一緒にいるところを見られたら彼女に申し訳が無い。
なにより、知り合って間もないのに迷惑だけは掛けたくない。
晴人の言葉に白雪姫は俯いたまま何も言わない。昨日から何かと声を掛けてくれた彼女に対し、放っておいてくれという言葉は少々きつかっただろうかと心が揺れ動くものの、無言ということは肯定したと受け取って良いのだろう。
安堵から思わず口から息が洩れた。
そのまま身体の向きを変えて帰宅するべく晴人は再び行動を開始する。……が、その遅々とした歩みはまたもや背後の少女の平淡な声により遮られる。
「―――放っておけないわ」
「は……?」
「だから放っておけないと、そう言ったのよ。私、風宮くんのお家まで付き添うわ」
「な、なにを言って……?」
次第に朦朧としてきた頭では内容を噛み砕く事が出来なくて困惑する。振り向いた際に足の力がふと抜けてふらりと体勢を崩すも、いつの間にか側にいた彼女が両腕で晴人の片腕を支えてくれたので事なきを得た。
突然のことに理解が追い付かないまま、ふわりと甘い匂いが鼻孔を擽る。
「私がいくら人見知りでも、風邪を引いた風宮くんをこのまま放っておくなんて薄情な真似は出来ないわ」
「俺がそう頼んだんだから薄情じゃない……。というか、もう離しても……」
「ダメよ。またさっきみたいにふらつくかもしれないわ。しっかり支えてあげないと」
女の子らしい柔らかい感触と温もりと共に、右腕にぎゅっと力が込められる。
傍から見れば完全に恋人同士のそれに見えてしまうのだろうが、彼女はあくまで体調が優れない晴人の為に善意で腕を支えてくれているのだ。それを離して貰う為とはいえ指摘するのは野暮というものだろう。
彼女のどこか覚悟の籠った瞳と声音に目を瞬かせるも、ふと力無く笑みが零れた。
「そういえばお家にご家族はいるのかしら?」
「あぁ。もう母さんが帰って来てる頃……、あ」
「?」
「……今日、会社の部署で飲み会があるから、遅くなるって言ってたな」
晴人の母親である咲良はレディース衣料品や装飾品を取り扱う大手アパレル業界に勤めている。企画・管理部門のリーダーとしてバリバリと働いており、一人息子である晴人の為に家庭と仕事を両立させている自慢の母親だ。
そんな咲良だが、家庭を優先してしまいこれまで会社の飲み会に最後までいたことが無い。
今日もその話をした後に「心配だから早く帰ってくるわね」と惜しむ様子も無く当然のように話すので、晴人がすぐさま「もう高校生だし俺は大丈夫だから、たまには最後まで楽しんできなよ」と若干呆れながら伝えたほどだ。
もし晴人が風邪を引いたという連絡をすれば、仕事が途中でも急いで帰って来てくれるだろう。だが年に何度あるか分からない久しぶりの飲み会なのだ。
恩返しというには流石に大げさだが、心配を掛けたくないし普段色々我慢させている分楽しんできて欲しいというのが晴人の率直な気持ちだ。
「風宮くんのパパは?」
「いない」
「……ならママに早く帰って来て貰うことは?」
「いや、心配掛けたくないし……。それに、今日ぐらいは羽を伸ばして欲しいから……」
「……そう」
我儘なのは分かっている。晴人が一人暮らしをしているならばともかく、母親がいるのならば頼れば良いだけの話なのだから。
そこでふと晴人は表情を歪めた。家族である母親ではなく、まったく関係のない他人である冬木由紀那を頼ってしまっていることに気付いたから。
「すまん、やっぱりここで―――」
「なら、私が風宮くんのお世話をするわ」
「え?」
彼女は淡々とした表情で、しかしそうはっきりと口にした。
「風宮くんが風邪を引いた責任は私にあるもの。一人だと心寂しいでしょうし、一緒にいてあげる。いいわね」
「いや、大丈……」
「因みに風宮くんにはイエスかはいの選択肢しかないわ。さぁ行きましょう」
何故彼女が、どうしてここまで、本当にこのまま家に招き入れても良いのか、という疑問や葛藤がずっと頭中を駆け巡るが、もうどうにでもなれ、と諦めの境地に至った晴人はやがてそのまま思考を放棄した。
転倒しないようにと両腕で支えられた状態で、晴人はやや強引な冬木由紀那と共に帰路に着く。
しかし白雪姫の足取りは、どこまでも病人である晴人の歩みに寄り添った思い遣りに満ちたものだった。
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