第18話 変化

 プラゴからブラナを経由してブラツァの町へ、鉄道で五時間あまりの旅路である。


「ブラツァで降りられるのは幸運です」

 ゾラは楽しそうだった。

「ブラツァがどんなところなのかを知ることができます」

「そうね」


 ユリエは俯いて髪の毛をいじっていた。なるべく顔は隠したかったのだ。プラゴの知り合いにも、ブラツァの知り合いにも、見つかりたくない。目撃情報を残したら、国家保安部が駆けつけてくるから。


 やがて列車はブラツァで停まった。

 四角い城に見下ろされた、川辺のこの町を見て、ゾラは楽しそうにはしゃいでは、小躍りをしていた。


「ここがユリエの育った町! 美しいですね」

「ええ」


 二人は慎重に辺りを窺って、東ジェルマ人らしき団体を見つけ、彼らに紛れた。共に歩いて国境付近まで行く。


 ブラツァの町は、主要都市にしては珍しく、他の二ヶ国との国境線を持っている。ウスタリヒとマージャである。ウスタリヒとの間には厳しい警戒網が敷かれているから、通るのは危険だ。やはり目的地は、同じ東側諸国に属するマージャ。

 ダヌベ川沿いの南の方に、マージャとの国境がある。人々はひたすらに下流の方へと足を進めた。十時間ほどぶっ通しで歩き続けて、こっそりと越境できる場所を模索する。人気ひとけのない野原の中に、目ぼしい場所を見つけたら、闇に紛れて移動できるよう、夜になるまで待つ。


 東ジェルマ人の人々は、簡素な格好をしており、緊張の面持ちで、口数も少なかった。時々ジェルマ語で何やらやりとりをしている。


 ユリエは彼らとは少し離れたところで、非常食のビスケットを食べた。


 そして日が暮れた。いざ、越境の時。

 東ジェルマ人たちが動き出す。


「行こう」


 ユリエはゾラを促した。

 ……そして、越境はすぐに終わった。草むらをかき分けて進めば、それでおしまい。

 偶然なのか何なのか、国境警備隊の人は見当たらなかった。


「私たち、マージャに不法侵入しちゃったのね。こんなにもあっけなく」

 ユリエは複雑な思いで呟いた。

「亡命ですよ。仕方のないことです」

 ゾラは何も気にいていない様子だった。


 ユリエたちは近くの町まで、夜通しで歩いた。

 それから、銀行で通貨を換算してもらうと、こぞって鉄道に乗って、ショプロという街まで向かうことにした。

 ショプロは、マージャが「ピクニック」と称して会を開き、その間に幾人もの東ジェルマ人が国境を越えて亡命を成し遂げたという、素晴らしい土地なのだ。あそこに行けばまだ通してくれるかも知れないと、東ジェルマ人は思っているようだった。

 ユリエの目的はひとまずの住処として難民キャンプに参加して身を隠したいということなので、実は国境が未だに開いていないという事実はどうでも良かった。


 案の定、東ジェルマからの難民達は、ショプロの前で難民キャンプを作ってたむろしていた。ウスタリヒに行くことはできないが、東ジェルマに帰るのはもっと嫌だ。だから彼らはここで、国境解放の機を窺って、居座っているのだ。


 ユリエたちはその中に紛れた。

 夏の終りのことだった。


 難民キャンプは居心地がいいとはとても言えなかったが、ユリエもゾラもそんなことは気にしなかった。ユリエはたまに日雇い労働に出て、食費を稼いできた。アレシュから巻き上げたお金はいざという時にとっておくのだ。

 そんな生活が、十日ほど続いた。


 十日後、マージャは、ウスタリヒとの国境を、全面的に開放することを宣言した。

『鋼のカーテン』に、大きな風穴があいた。

 国境付近にたむろしていた東ジェルマ人たちは、今が好機とばかりに一斉に国境を越え、嬉々として西側諸国であるウスタリヒに辿り着き、バスで西ジェルマへと運ばれていった。

 ユリエは、どうしようか少し悩んでいた。


「君は? ウスタリヒに来ないのか」


 ウスタリヒの兵士がこっそり聞いてきた。ジェルマ語だから意味を取り切れないが、言わんとしていることは分かる。

 ユリエは何とかして、身振り手振りを交えて、自分の状況を説明した。


 祖国のチェスコスロヴィオに返れば、不当に逮捕され命の危険に晒されることになる。だから亡命してきた。急な事なのでパスポートは持っていない。どこか安全なところは知らないだろうか。


 兵士は親切だった。ユリエ達に、「ウスタリヒの移民センターに行くと良い」と伝えた。

 あそこなら、最低限生活は何とかなる。働き口も紹介してくれる。まだ情勢が不安定なマージャにいるよりはましだろう。亡命してきたということであれば、パスポートの件も問われないと思われる。


「あ……じゃあ、そうします。ありがとうございます」


 こうしてユリエとゾラは、ウスタリヒの首都ヴィエナにある移民センターまで移動することとなった。


「……これが……西側の、町!?」


 ユリエは目を回してしまった。プラゴなど比ではない。経済的にうんと発達しているのが一目で分かる。夜でもきらきらに光る電飾、人々の賑わい、そして行き交う車の高級そうなこと。


 ユリエたちを乗せたバスはセンターにまっすぐ向かった。とりあえず二人はそこに落ち着いた。この先どうなるのかは、ひとまず考えないことにした。今は目の前の生活で手いっぱいだ。困ったことが合ったら、その時はその時。


「ユリエは表情が明るくなりました」

 センターに入る前、ゾラがそう指摘した。

「そうかしら」

「ユリエが元気そうだと、私も嬉しいです」

「ありがとう、ゾラ」


 センターでの生活は悪くなかった。食べ物は初めて食べたみたいに美味しいし、ケーキだって食べられるし、談話室ではテレビが見られたし、色んな言語の新聞も取り入れていた。

 ウスタリヒには言論統制が無いから、色んなニュースを見ることが出来た。ユリエたちがここに来てから一か月後にはマージャも民主化を達成したことや、その更に一か月後には祖国チェスコスロヴィオも鋼のカーテンの撤去に乗り出したことも、ユリエはちゃんと把握していた。


「チェスコスロヴィオは改革に乗り出したように思われます」

「そうね……。でもまだ迂闊に帰れないわよ。国家保安部はまだ解体されていないのだから」


 そんな会話をしてから六日後のこと、今度はベルリーノの壁が崩れた。


 このニュースは世界中に衝撃を与えた。


 冷戦、そして鋼のカーテンの象徴たる、「ベルリーノの壁」。東ジェルマ内にあるそれは、首都ベルリーノを東西に二分していた。東ベルリーノは、東ジェルマ民主共和国の領地。西ベルリーノは、西ジェルマ連邦共和国の飛び地として、東ジェルマ内にぽつんと陸の孤島の如くに存在していた。そんなベルリーノの町を東西に分けていた壁が崩壊し、東ベルリーノ市民が西ベルリーノにどんどん流れ込んでいるというのだ。


 そして、この事件に明らかに触発された人々が、各国に現れ始めた。


 ――チェスコスロヴィオにおいてその最初の動きは、スロヴィオ共和国の首都、ブラツァで起こった。

 学生たちが、民主化を求める大規模なデモを決行したのだ。

 そして、なんと、この示威行動は、実際に当局を動かした。――彼らは、ブラツァの刑務所にいる政治犯を、一部釈放したのだ。


 そのニュースを見た時、危うくユリエは新聞を取り落とすところだった。


(もしかしたら、フェドルも釈放されているかも!?)


 もしフェドルがあの時連れて行かれたのがブラツァの刑務所で、そして今もまだ生きているとしたら……!


(どうにかしてあちらと連絡をつけなくては)


 ユリエは国際電話を借りるために、センターの職員に頼み込んだ。

 国際電話はもちろん恐ろしいほどの金額を要するが、今ユリエの手元にはアレシュから強奪した札束がある。正確には、強奪した金をウスタリヒの通貨に換金したものが。これを、今使わずして、何とする。


 ユリエは無事に国際電話の使用を許可された。深呼吸をして、ブラツァの工場に電話を掛ける。


「こんにちは。お久しぶりです。私はユリエ・シュタストニヤと申します。もしかして、そちらに、フェドル・ホルプという者が帰ってきていやしないかと、確認のためにお電話差し上げたのですが……」

「いますよ」


 電話口の相手が言った。


「お電話代わりましょうか」

「是非お願いします!!」


 ユリエは胸を押さえた。心臓がドクンドクンと脈打っていてうるさかった。


「ユリエ、具合が悪いのですか」

「大丈夫よ、ゾラ。これは緊張しているの。もう会えないかと思った、私を育ててくれた恩人と、再び話ができるんですもの。あああ、夢じゃないかしら」

「なるほど」


 しばらくののち、電話口から、「もしもし」という懐かしい声が聞こえてきた。

 それだけでユリエは何だか泣き出しそうな気持ちになった。

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