第6話 読書


 フェドルについてブラツァの町にやってきたユリエの前には、課題が山積していた。

 まずは、居住空間の確保である。


「階段を上がって右手に、使っていない部屋があるから、君にやろう。そこで荷解きをしたまえ。終わったら下りてくるように」


 フェドルはそれだけ言うと、煙草を咥えて新聞を読み始めた。

 突然知らない家に放り込まれて、一切のことを自力でやれというのは、子どものユリエには酷な話だった。しかし、ユリエは助けを求めることはしなかった。せっかく自分を引き取ってくれた人に、迷惑をかけたくなかったのだ。フェドルが自力でやれと言ったからにはきちんとやり遂げねばならない、とユリエは思った。もう両親はいない。甘えは許されない。

 本当はフェドルには、例によって圧倒的に気遣いが足りないというだけだった。それに加えて、子どもとどう接するべきか分からず、下手に口出しするのは良くないと考えていた。要するに悪気はなかったのだが、そんなことはユリエは知る由もなかった。


 ユリエはぎこちない足取りで指定された部屋に入った。フェドルは几帳面な性格らしく、部屋は使っていないと言うのに綺麗に掃除がしてあった。

 ユリエは荷物を下ろした。冬服などは追って業者が運んでくれるから良いとして、問題は母の持ち物である三冊の魔術書だった。それなりの重量があったので背負って運ぶのは一苦労だったのだが、こればかりは他人に預けるわけにはいかない。最悪の場合、反社会主義的な書物だと思われて処分されてしまう。


 ユリエはその小さな手足で、できる限り早く荷物を片付けた。当面の間着るための衣服を、箪笥の空いている場所に詰め込む。魔術書やお気に入りの本は本棚に。空になったカバンは部屋の隅に。

 それから急いで、フェドルの居る地上階まで駆け降りた。フェドルは相変わらず新聞を読んでいたが、机の上にはパンとソーセージと茹でジャガイモと二人分の皿が用意されていた。


「あの……」

「む、終わったか」

「は、はい」

「飯にするぞ」


 ユリエは皿が置いてある席についた。椅子は大きくて、座ると足が浮いた。ユリエは緊張気味に背筋をピンと伸ばして、食事に手をつけた。ソーセージとジャガイモはすっかり冷えてしまっていた。二人とも一言も発さないまま、食事は終了した。


「……」

「皿は台所に運んでおきなさい」

「はっ、はい」


 ユリエは慌てて、トンと床に降りると、皿を重ねて持っていった。


「運びました」

「そうか」

「……」

「……」


 ユリエはどうすればいいか分からなくて、目を泳がせた。先程まで押し込めていた寂しさが、急に胸に迫る心地がした。だがフェドルの前で泣いてはいけない気がしたので、ぐっとこらえた。


「……おやすみなさい」


 小声で言って、そそくさと部屋に引き上げた。馴染みのない真っ白な布団に潜り込んで、一人で泣いた。


 ***


 友達を作るのもまた一苦労だった。

 外で遊んでくるようにとフェドルに言われたユリエは、躊躇いがちに道路に出て行った。少し歩くと、路地裏で同じ年頃の子どもたちが遊んでいるところに、偶然出くわした。

 子どもたちは鬼ごっこをやめて、不審そうにユリエのことをじろじろ見た。


「誰?」

 一人が聞いた。

「あっ、あの……」

 引っ込み思案なユリエはしどろもどろになった。

「ええと……。ユリエ・シュタストニヤです。フェドル・ホルプさんのお家に、住むことになって……」

「チェスコ訛りだ!」

 急に指摘されて、ユリエはビクッとした。

「な、何……?」

「変な喋り方だ!」

「え、へ、変って……」

「うわ、お前、チェスコから来たのかよ」

「しかもあのケチな工場主のホルプのところだぜ」

「胡散臭えな」

「気取ってる」

「弱そうだし。こいつと遊ぶのはやめとこう」

「そうだな」

「俺たちは忙しいんだ。こっち来るなよ」


 ユリエは密かに傷ついたが、そのことをこの子どもたちに悟られたくはなかった。


「ごめんなさい」


 呟くように言って、くるりときびすを返し、路地裏を出た。もうこのまま帰ろうかと思ったが、しかし、フェドルには外で遊ぶように言われている。帰ったら邪魔かもしれない。そこでユリエはぶらぶらと当てもなく町を歩くことにした。


 ブラツァの町にも、ダヌベ川という大きな川が流れていた。その川と町を見下ろすようにして、小高い丘の上に四角い城が建っていた。綺麗な教会や古そうな城門もあった。それから、博物館も。

「ジュード文化博物館」

 ユリエは目を丸くしてその看板を見つめた。

 こんなところで、ジュード人の文化に触れることができるとは。ここにはもしかして、ヘブリュイ語が読める人も勤めているのだろうか。

 是非とも教えを乞いたい。

 ユリエが入り口でいつまでもそわそわしていると、受付の人が出てきた。


「どうかしたの、お嬢ちゃん?」

「……あの」


 ユリエはもじもじした。


「こっ……」

「こ?」

「古代ヘブリュイ語を教えて欲しくて……」


 まあ、と受付の女性は驚いた。それはそうだ、六歳の女児がいきなりそんな高尚なことを言い出したら誰だって驚く。

 だがこの女性は、気の利く方だった。

 ちょっと待ってね、と言い置くと、館内にとって返し、一人のおばさんを伴って戻ってきた。


「こんにちは。古代ヘブリュイ語を知りたいんですって?」

 おばさんはユリエに目線を合わせて言った。

「はい……!」

「毎月、第三金曜日の十七時にここにおいで。少しなら教えてあげようね」

「いいんですか」

 おばさんはからから笑った。

「こんな熱心な子も珍しいからね、特別に許してあげるよ。ただしお嬢ちゃん、スロヴィオ語の勉強もちゃんとやるんだよ」

「あ。……はい」

「うんうん。私の名はシュテファナ・クラロヴァ。ジュード文化を研究しているんだよ。受付で私の名を出したら研究室に通すようにと、みんなに言っておくからね」


 かくして運良く、ユリエは古代ヘブリュイ語を学ぶ場を得た。


 ***


 ブラツァの小学校に通うことになったユリエだが、やはり子どもたちに馴染むことはできなかった。

 その代わり、ユリエはたくさんの本を読んだ。学校でも読んだし、帰ってからもフェドル宅にある本を拝借して、一人で読書に勤しんだ。

 フェドルの家には子ども用の本は少なかったから、最初は苦労した。あまりにも難しいので、ある日ユリエは意を決して、フェドルのもとへ行った。


「あの」

「何だ」

「この本の読み方を教えてください……」


 フェドルはじろりと、ユリエの持つ本に目をやった。ユリエの心拍数が僅かに上がった。


「……そんなものが読みたいのか」

「はい。……あっ、いいえ。読めるなら、何でも……」


 フェドルは長々と溜息をついて立ち上がった。


「ついてきなさい」


 そう言ってつかつかと外に出て行ってしまう。ユリエは走ってその後を追った。

 そうして辿り着いたのは、本屋だった。フェドルは児童書の区画までユリエを導いた。


「わあ」

 ユリエは小さく感嘆の声を上げた。

「好きなものを選びなさい」

 フェドルはぶっきらぼうに告げた。

「遠慮せんでも、本くらいなら買う。欲しければ言いなさい」

「ありがとうございます!」


 この時ユリエは、「本だけならねだってもいい」と理解した。よって、これよりのちユリエは、何が欲しいかと尋ねられたら必ず本を頼むようにした。

 お菓子や衣服などは、興味があってもねだらないようにしていた。


 ──ともかくこの時、ユリエは子ども用の本を一冊、慎重に選んで、フェドルに買ってもらった。これはユリエの愛読書になった。


 ユリエはその本を何度も読み返したし、場所を教えてもらって図書館にも足繁く通った。馴染みの薄いスロヴィオ語の文章も、六歳児の柔軟な頭はすぐに吸収することができた。


 この読書習慣と、月に一度のお勉強会によって、ユリエの頭脳はめきめきと賢くなっていった。


 惜しむらくはユリエが大学に行く選択肢を持たなかったことである。だがユリエとて学問を極めたいとは思っていなかった。勉強は全て魔術のためであり、ゴーレム創りさえできるようになれば満足だった。その目的を達成できれば、あとはフェドルに恩返しをしたいとユリエは考えていた。フェドルの工場で立派に働くということが、ユリエの描く将来像であった。

 そういうわけで、ユリエはギムナジウムではなく、職業訓練のできる中等学校に行きたがった。


 基礎教育を終えて中等学校に進学した辺りから、ユリエは本格的に魔術書の解読を進めていった。

 この時もシュテファナ・クラロヴァ博士とのやりとりは続いていたので、かなりの部分を彼女に手伝ってもらうこととなった。


 だが、ユリエが十六の時に、クラロヴァ博士は失踪した。


 国家保安部に連れて行かれてしまったのだ。原因は分からないが、まず間違いなく誰かが無実の罪で彼女を密告したのだろう。


 彼女に非常に懐いていたユリエは、ひどく衝撃を受け、がっかりし、傷つき、心配した。だが、国家保安部が相手ではどうにもならない。彼女が処刑されないことを祈るばかりである。


 ただでさえ控えめなユリエだったが、この頃からめっきり暗い性格になった。学校には相変わらず友達がおらず、周囲からは根暗な変人として扱われていた。嫌がらせを受けることもあった。

 心の隙間を埋めるようにして、ユリエはいよいよ、魔術書の解読にのめり込んだ。三冊の本を注意深く読み解き、内容を把握し、暗記してゆく。

 同時進行で、ゴーレム創りに取り組んでみたが、いくら泥を捏ねても生命は宿らなかった。ユリエは次第に追い詰められていった。

 様子のおかしいユリエを、フェドルは密かに気にしていたが、やはりその事実をユリエが知ることはなかった。


 そして十八歳の年のある日、遂にユリエは、最初のゴーレムを創り出すことに成功する。

 

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