第2話 黒き森の山羊 その六



 どんな恐ろしい邪神が隠れているのだろうか。

 シアエガのときのように、いきなり太い触手が襲ってくるのだろうか。

 そう考えつつ、身がまえる。


 だが、扉がひらかれるにつれて、なかからは明かりがこぼれた。かぐわしい花の香りがする。それも天然の花ではなく、何かしらのお香か香水のような人工的な甘い香りだ。


 一瞬、春風が吹きつけた。

 あたたかく、さわやかな心地よい風。


 それがやんだとき、周囲には誰もいなくなっていた。アスモデウスも、アスモデウスにつきしたがう天使たちも。


「なんだ? みんな、どこへ行ったんだ?」


 すると、室内に人が立っていた。周囲がいやにまぶしいので見えづらいものの、背の高い白っぽい髪だということはわかった。


「アスモデウス?」


 龍郎は近づいていった。

 なんだかわからないが、クラクラするほど甘ったるい香気がただよう。酒に酩酊したみたいに足元がフラフラする。


「アスモデウスなのか?」


 ようやく、人影の間近まで来た。とつぜん霧が晴れたような感覚だった。気がつけば、目の前に女がいた。

 ひじょうに美しい女だ。

 天使のなかの誰かだろうか?

 純白の肌。髪も乳白色。その髪を長く伸ばし、複雑に結いあげている。最後に残った髪を肩の片側にこぼしていた。瞳は黒く、唇はほんのりと桃色だ。肉感的な口唇は艶めかしく、見つめていると、ふわふわと吸いよせられそうになる。


(なん……だ? この女)


 天使たちのまとうローブによく似た白いドレスをまとっている。肌が透けてみえるほど薄い絹のドレスだ。髪を編む飾り紐や帯がわりの紐だけが真紅で、目に焼きつく。


 とにかく、世界一の美女と言っても過言ではない。こんなに美しい女をほかに見たことがない。ただ一人、青蘭をのぞいては。もしも青蘭が女だったら、こんな感じかと思う。造作もどこか似ていた。


 とは言え、青蘭でないことはわかった。魂の形が違う。アスモデウスを見て、やはり青蘭だと感じる、あのつきあげるような愛しさがない。


 女は華奢な腕をこっちにむかって伸ばしてくる。


「いらっしゃい。星の戦士」と、彼女はささやいた。


 星の戦士とは龍郎のことらしい。だから、自分が呼ばれていることは理解したのだが、なんとなく、体が動かない。足が床に張りつけになっているかのようだ。本能が女をさけている。


「どうしたの? いらっしゃいな。男はみんな、わたしが欲しい。そうでしょ?」


 甘い微笑を見せて、女は歩みよってきた。歩くたびにドレスのスリットから白い足がのぞく。たいていの男なら、一も二もなく抱きついているところだ。

 だが、龍郎は危険な香りをかぎとった。


「……来るな」

「なぜ? ためらうことはないのよ?」

「おまえ……は、何者だ?」


 女は妖しく微笑む。薄気味悪いほどに艶麗な笑みだ。


「わたしは豊穣の女神。すべての者の母ですよ。いらっしゃい。わたしとこうして言葉をかわすことのできるのは選ばれし者のみです。あなたにわたしの加護を授けましょう」


 女が龍郎の手をとった。それだけで、ゾッとするような色情が、つながれた手から、かけあがってくる。同時にめまいを誘うあの香りが猛烈に強まった。抵抗できない。このまま、どうなってもいいかなと一瞬、思う。


 だが、さみしそうな青蘭のおもてが脳裏をよぎった。泣きそうな青蘭。それに、ヤキモチを妬いた、さっきのアスモデウスのおもてが。


「離せッ!」


 龍郎は女の手をふりはらう。

 女はいくらか驚いていた。自分の誘惑に逆らえる者がいるとは思っていなかったのだろう。


「まあ、愚かなことを。あなたは天使に生まれなおしたくはないの? 今のあなたは人間。無力な存在よ。わたしが生みなおせば、天使になれるわ」

「天使に?」

「そうよ。以前の強いあなたに戻りたいでしょう?」

「おれが、天使に……」


 それは望まないわけではない。自分がミカエルの魂だったという事実はほんの少し意外だったものの、そう言われればそんなものかと、すぐに受け入れた。なんとなく、自分がふつうの人間とは感覚が異なることは自覚していたからだ。


 だが、肉体的には人でしかない。たしかに邪神とも悪魔とも戦える。その力はある。が、やはり人の体では超えられない壁が存在する。

 翔ぶこともできないし、脆弱ぜいじゃくでもある。それ以上に何より、天使に転生してしまった青蘭と恋ができない。キス一つするのですら、アスモデウスにしゃがみこんでもらわないとできない。おそらく、アスモデウスだって、人間の体の龍郎相手では、心臓を重ねたいとは思わないだろう。


 もしも、天使になれるのなら……。


(そう願わないわけはないさ)


 それなのに、龍郎の本能はまだためらっていた。

 相手が女神であることは真実だろう。ふれただけで欲情させる、全身のビリビリする何かを持っている。とてつもなく膨大な力を持つ神——


(こいつだ。この遺跡に巣食う邪神)


 倒したはずの邪神が復活するのも、この女のせいに違いない。

 見ためは優美だが、きっとこれは仮初かりそめの姿だ。どうせ、本性は触手だらけのおぞましいものだ。


「けっこうだ。おまえの力なんて借りない」


 女神は深々と吐息をついた。邪神だとわかってさえ、失望させて心が痛む。

 この女神は危険だ。淫欲の悪魔。それもきわめて強力な。その力に抗うことは、健康な男にはそうとうに難しい。


 が、龍郎は謝罪したくなる気持ちを抑えた。ギュッとにぎりしめるこぶしに力が入りすぎ、手のひらに爪がくいこむ。血の流れる生ぬるい感覚があった。その苦痛が、むしろ意識を明瞭にたもつための最後の頼みの綱だ。


 すると、女神は再度、嘆息した。そして告げる。


「合格ゥー」

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