カムイトーの霧晴れるとき

Mystérieux Boy

前編

 出会いはまったくの偶然だった。六畳一間の畳の上で仰向けに寝転び、あてもなくネットの海を彷徨っていたとき、周囲を断崖に阻まれた、孤独なコバルトブルーの湖を見つけたのは。

 名前は知っていたし、写真は前にもどこかで見たことがある気がする。しかし、このときは不思議と吸い込まれそうになった。北海道にあるカルデラ湖、摩周湖——別名カムイトー。流れ出す川も流れ込む川もなく、山の上にぽつりとある巨大な水溜り。その美しさだけでなく、孤独でどこか憂いを秘めた姿にも心惹かれた。

 大都会で平凡な日常を送っているのに孤独で満たされない、今の自分と重なったからかもしれない。

 盆休みにはここへ行こう——億劫な俺からすれば、珍しい決断だった。


 釧路空港を降りて、バスで釧路駅へ向かう。ICカードというものには対応していないらしく、十数年ぶりに触れる紙の切符で、釧路駅から古めかしいディーゼル車両に乗り込んだ。八月だというのに肌寒い。上着を持ってきて良かった。

 閑散とした一両編成の車窓からは、どこまでも果てしない、緑の草原が広がっていた。生まれ育った埼玉でも、今住んでいる東京でもこんな風景は拝めない。この先に本当に人里があるのかと、不安にすらなる。


 だけど俺の関心はあくまで摩周湖にあった。

 摩周駅の、ヨーロッパの邸宅のような小さな駅舎から外へ出ると、草木と硫黄の混じった香りがした。駅の一角には無料の足湯があるらしい。特に急いでもいない俺は、腰を下ろして足をつけてみた。


 大学ではいつも一人だった。別に嫌われているわけでも虐められているわけでもない。ただ何となく輪に入れなかった。

 中流大学を出て、中規模の販売代理店に就職した。社交的でもない俺に営業の仕事は正直向いていないと思っているが、内定をもらえたのがそこだけだったのだ。

 満員電車と雑踏にまみれ、家と会社を往復するだけの毎日。家に帰る頃には疲れ果て、休日はその疲れを労うのに精一杯。たまの飲み会は上司に説教されにいくだけのようなものだ。

 こんな日々があと何十年続くのかと考えると、ふと、どこかに消えてしまいたくなる瞬間がある。摩周湖の写真を見たのは、そんな瞬間と重なっていた。


 とうとう、バスに乗ってその摩周湖へ辿り着いた。日常から離れ絶景を拝めば、鬱々とした気持ちを少しは晴らしてくれると期待して、展望台へ上がった俺は拍子抜けした。——展望台からは何も見えなかったのだ。


 日本一の透明度を誇る湖面があるはずの断崖絶壁は、雲海に覆われていた。ふもとの駅は晴れていたのに、山上は曇り空だ。これが噂に聞く摩周湖の霧か。

 肩を落としながら、それでもせっかく来たのだからと付属の土産屋に入ってみる。

 見たことのない紋様が彫られた木造りのアクセサリーが並べられている。鮭を咥えた木彫りの熊、その奥にはさらに大きな、巨木のようなフクロウの彫物があり、驚愕の値段が付けられていた。誰が買うんだ……そもそも普通の家にこんなの置くスペースねえよ。などと考えていると、突然横から声がした。


「がっかりしたっしょ。湖が霧なもんだから」


 奥から出てきたお婆さんが、穏やかに話しかけている。頭には刺繍の入った紺色のハチマキのようなものを巻いている。土産屋で売っているのとそっくりだ。


「あー、はい、まあ。残念です。明日とかは晴れるといいんすけど」

「どうだがね。いつも霧だから。運が良かったらそのうち晴れる日もあるよ」


 運が良かったら、か。俺は明日の夜には東京へ帰らなくてはならない。晴れの湖を見られる確率はだいぶ低いらしい。俺は適当に愛想笑いをした。


「どこから来なさったの?」

「東京からです」

「イランカラプテ。また遠いところから。まあせっかく来たんだから、うまいもんでも食べていきなさい」

「どれがお勧めですか?」


 色々と勧められたが、ひとまず揚げいもを食べてみることにした。カリッとした甘みのある衣の中に、ホクホクのジャガイモが入っている。衣と芋の相性が絶妙で、確かにうまい。

 外のベンチに座って涼しい風を感じながら、夢中で芋を貪った。

 こっちの夏は静かだ。蝉の声も聞こえない。観光客はいないわけではないが、ごった返しているということもない。普段は、一人でいると孤独と不安が押し寄せてくる。だけどここにいると、一人でも自然と落ち着くように感じる。


 一息ついて、なんだかこのままバスに乗って宿に行くのももったいない気がして、俺は展望台の周辺をブラブラ歩いた。湖の周りに散策路があるらしい。散策路の入り口には『熊出没注意』と書かれていて躊躇したが、ここまで来たんだ、少しくらいと勇気を出して足を踏み入れる。

 散策路は湖の断崖の上を半周し、最終的には湖の傍にそびえる摩周岳カムイヌプリへ到達するようだ。


 しばらく歩いたが、奥に見える摩周岳は一向に近付かない。歩いてみると思っている以上に巨大だ。そして、湖面はあいかわらず霧に覆われたままだ。かれこれ一時間、後ろから追ってくる人も、前からすれ違う人もいない。まるでこの大自然が自分だけのものになったかのようだ。


 ここで俺は魔が刺した。湖面を見たい。断崖から下に降りれば、透明なコバルトブルーの湖水を拝める。湖面へ降りるのが禁止されているのは知っているが、今なら周りに誰もいない。

 目の前にはちょうど、比較的傾斜の緩やかな部分があり、誰かが通るのか笹が道のように分けられている。

 いつにない好奇心で、崖の下を目指した。湖面から崖の高さは二百メートルくらい。緩やかに見えた傾斜も、あっという間に険しくなった。木を掴んで体を支えながら、慎重に足を下ろす。一歩足を滑らせればアウトだ。


 ようやく湖面が見えた時にはもう汗だくだった。ろくに運動しない体だ。明日筋肉痛は間違いない。

 自分が来た崖の上は霧で見えない。

 湖岸に立つ。波もなく、静かに水が讃えられていた。透明な青い水を手で掬ってみると、心臓がびっくりするほど冷たい。

 微かに聞こえる水音と、静寂。冷んやりとした霧が顔にまとわりつく。あまりの静けさに時間の経過が分からず、時の流れが狂う。

 

 一瞬、目の前の霧が開けた。道を開けるように、霧が両側へ引いていく。その先には、小さな島が浮かんでいた。摩周湖の真ん中に浮かぶ中島カムイシュ——。

 不思議な懐かしさを覚えていると、突如背後からガサガサと草を分ける音が聞こえた。まったく心の準備ができていなかったので、心臓が飛び上がる。

 まさか、まさか……熊?!

 頭がパニックになる。


 しかし、笹藪の間から出てきたのは、見覚えのある婆さんだった。


「あんた、こんなところで何してるのさ」

 こんなところで人に会うのもそれはそれで怖い。湖面に降りたことを咎められるかとドキドキする。

「こんなとこにいたら危ないべ。熊さんの餌になるよ」

「お婆さんこそ危ないですよ」

「ちょっと孫を探しててね」

「孫?」

「一緒にいたんだけど、この辺ではぐれてちゃって」

「そりゃ心配じゃないですか。一緒に探しますよ」

「悪いね」


 こんな人気のない森ではぐれたなんて一大事だ。


「お孫さんの名前は? 何歳ですか?」

「チクペニという子だよ。七つになるかねえ」


 変わった名前だな。アイヌの名前かな。そんなことを思いながら、お婆さんと手分けして探し始めた。


「おーい! チクペニー! いたら返事してくれー!」


 しかし森は広い。いくら探せど子供の姿も気配も見えず、途方に暮れた。日が傾きかけてきて、いよいよこれは厳しいのではないかと思い始めた俺は、一度婆さんのところへ戻った。


「お婆さん、そろそろ暗くなりそうだしこれ俺たちだけじゃ無理ですよ」

「そうかい。おかしいねえ。ずっと探してるんだけど、本当にどこ行っちゃったのか……」

「ずっとって、どれくらい?」

「毎日毎日探して、もうどれくらい経ったかも分からなくなっちまった」

「ええ?! そんなに? 警察とか、行ったんですか?」


 いなくなったのはてっきり今日のできごとだと思っていた。


「わたしは今日のところは家に帰るよ。暗くなるから、あんたも宿に帰りなさい」

「ああ、そうっすね」


 お婆さんは行方不明の孫を探し続けているんだ。可哀想に。俺にも何かしてあげられることがあればいいのだけれど、ひとまず今日のところは宿へ行こう。


 再び湖岸の崖を登る。降りるよりも登りの方がきつい。木の幹を掴んで腕の力で上がっていくのは、なまった体には本当に辛い。こんなところを移動する婆さんがすごいのか、俺が弱いのか。俺よりも山に慣れているから、足腰が丈夫なんだろうか。


「お婆さん、よくこんなところ降りられましたね」


 横を見る。しかしそこには誰もいなかった。


「あれ? お婆さーん?」


 一瞬前まで、確かに隣にいた。まさか落ちてしまったのかと思い見下ろすが、どこにも人影はない。だとすると俺よりも先に登ってしまったということか?


「お婆さーん!」


 返事はない。もしお婆さんまで迷子になったのなら心配だ。俺は慌てて崖を登った。


 元の散策路に合流できたが、やはりお婆さんの姿はどこにもない。焦燥感が増していく。駆け足で元の道を戻り、展望台までやって来た。

 駐車場で落ち葉を掃いていたおじさんが真っ先に目に入り、声をかける。


「すみません! お婆さんを見ませんでしたか? ここの売店で働いてる、ハチマキみたいなのをした人です」

「ああ、見たよ」


 駐車場の管理人らしきおじさんが振り返る。思いのほか背が高く、白く長い髭をたくわえていた。


「さっきまで森の中で孫探しを手伝ってたんだけど、急に婆さんがいなくなって! 心配で」

 おじさんは穏やかな目つきでにこりと笑った。

「お婆さんならもう家に帰ったよ」

「そうですか……ならよかった」


 ほっと安堵する。それにしても、ずいぶん足の速いお婆さんだ。


「あんたも帰るんだろう? 急いだ方がいい。町へ降りる最終バスが出るところだよ」


 おじさんが目の前のバスを指差した。駐車場は夕日に染まり、昼にはたくさん止まっていた車や人の姿もなく、ガラ空きだ。バスを逃せば帰れなくなる。それは困る。


「ヌプさん、バス出しちゃうよー!」

 バスの運転手がおじさんに声をかける。

「ちょっと待って! この子も乗せてあげて!」

 ヌプさんと呼ばれたそのおじさんがバスを止めてくれたので、俺は慌ててバスに飛び乗った。

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