第32話

 シャワーを浴び、髪を乾かし、布団に入り、寝る直前だったと思う。寝巻をどうやって着替えたのか、何も覚えてない。ここまでの足取りも覚えていなかった。裕佳ちゃんから電話が来た。聴いたこともないような涙声で、喉を詰まらせるように、途切れ途切れで言葉を何とかつむいでいた。あのときみたいに、かなえの目が見えなくなった日の朝のように、大切なものを失ってしまった悲痛な叫び声に、それは聞こえた。

 僕たちはいま、隣の区の総合病院にやってきていた。かなえが緊急搬送され手術を受けていた。一刻を争う事態に、家族には待っていてくださいと、詳しい状況の説明を省いた言葉が言い渡されるだけだった。

「お兄さん、落ち着いて」裕佳ちゃんが僕に声を掛けた。二人掛けの椅子にお母さんと二人で腰を下ろし、お互いに手を繋いでいた。強く握りしめ合い、ずっと離さない覚悟を二人にみた。

「こうしていないと、落ち着かなくて」折に閉じ込められたような落ち着きのないライオンのような、はたから見るとそうなのかもしれない。けれどこの状況に落ち着けという方が無理だった。やり場のない怒りが突然わきおこり、知らず知らずのうちに壁を殴りつけていたり、かと思えば涙を流していたり、その様子を魂が抜けたように客観的に見つめている自分がどこかにいた。自分のことのようで、自分のことでない。どうしてこうもかなえだけに不幸が巡って来るのか、この怨みを誰に晴らせばいいのか、積もりに積もった衝動が爆発寸前となっていた。

「広斗、かなえの為に、自分を鎮めておくれよ」お母さんが静かに僕を諫(いさ)めてきた。焦点を床に定めたまま、僕になど視線は合わすつもりもない。

 みんな必死だった。自分とかなえのことだけで精いっぱいだった。最初に連絡を受けたのは裕佳ちゃんだった。洋子さんから電話が入り、救急車の中から病院へ向かっていると、涙ながらに教えてくれたそうだ。裕佳ちゃんも何とか母親と連絡をつけ僕にも電話をくれた。三人で落ち合うには時間の余裕もなかったが裕佳ちゃんは馴染みのタクシーを頼んでくれて直ぐに三人で向かうことができた。洋子さんは集中治療室の前で泣いていた。お母さんが優しく声を掛け、「ありがとう。あとは私たちがあの子の傍についていてあげるから」と洋子さんを乗ってきたタクシーで送った。洋子さんもきっと、傍にいたかったはずだ。

 かなえの身に起こったこと、それはかなえでなくとも、誰の身に起きてもおかしくない交通事故だった。スーパーの駐車場から出てきた車にはねられ、頭を強く打ったらしい。普段であれば出庫時に警報機が鳴り周囲の人に注意を促すはずが、警報機は故障していた。くわえて駐車場は地下となっており中から出てくる際に急こう配の坂を上がるためアクセルと強く踏まなければ車は進まない。出入口には歩道が通っていて坂の途中で一時停止を余儀なくされる。構造的な問題を放置していた店側には強い憤りを感じる一方で、運転手にも僕は怒りを覚える。自分の未熟な運転技術で人を傷つけた代償は、どう償っていくつもりなのか、客観的に自分を見つめていないからこそ、おごり高ぶった運転をしていたのではないかと、追求したくなる。不幸中の幸いにも、ルヴィは無傷で済んだらしい。救急車が来るまでかなえの傍を片時も離れず、身体を寄り添い待っていた。この悲惨な事故の責任の追及をしても、いまは仕方がない。かなえが無事に帰ってくることだけを僕は願った。

 時計が正午を回った。かなえが病院に運ばれて一時間半が経過し、集中治療室の扉が開いた。僕たち三人は固唾をのんで扉から出てくる医師に視線を集中させた。

「古川かなえさんのご家族の方ですか」と淡々と訊ねる医師の声に、僕は、僕たちは覚悟を、意を決しなければならなかった。喉の奥からとび出そうとする嗚咽を、辛うじて止めるのが精いっぱいだった。お母さんは唇を小刻みに震わせ、裕佳ちゃんは髪をふり乱し現実から逃れようとしていた。夢はついえた、もう追いかける意味もなくなってしまった。心のどこかで、ランナーが走るのをやめたような気がした。ゴールの見えないマラソンに疲れ、絶望し、諦めた、悲しげな背中が見えた。

「中へどうぞ」と言われたのかはっきり覚えていない、いつの間にか僕たちはかなえが横たわるベッドの前までやってきていた。静かに眠るその姿に、ただ本当に寝ているだけじゃないかと思うほど、穏やかな表情だった。

 かなえの身体に覆いかぶさるようにお母さんと裕佳ちゃんが駆け寄った。頭を抱きかかえ、身体を抱きしめ魂の分離を食い止める行為にも見えた。僕もベッドの横に立ち、かなえの手を握った。少し冷たかった、『末端冷え性だから、仕方ないでしょ』と言われたことがあった。『温まるまで手を握っててあげる』と言ったことがひどく懐かしい。そんな些細なやり取りももうできない、笑いあうことも泣きあうことも声を聞くことも願わなくなってしまった。ありがとうも、ごめんなさいも、なに一つとして伝えることができない。

「僕も、抱きしめていいですか」

「お兄ちゃん、お姉ちゃんを、忘れないであげてね」泣きじゃくりながら裕佳ちゃんはいった。お母さん抱きしめられ、その泣き声は永遠に続くよう悲しみに満ちていた。

「こんなことになって、ごめんね。苦しいときに、そばにいてあげられなくて、本当にごめん」かなえの身体を強く抱きしめた。まだほんの少し温もりが残っていた。微弱な体温が急速に失われていく、実感はないのにそんな気がした。かなえの魂が抜けていくのを、肌を通して伝わるような、そんな絶望感を味わっていた。

 二月二十二日、午後十二時七分、かなえは永眠した。

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