第5話

「あれ、久慈さん?」公園に先客がいたことにわたしは驚いたが、その先客がさっき図書館で本を借りていった彼だったことに、なおさら驚いた。


「げ」びっくりしたのか久慈さんは読みかけの小説に指を挟んだまま固まっていた。手に持った小説はまぎれもなく、さっき貸し出した本だった。


「げ、ってなんですか。げ、って」


「あ、いや。借金取りでも来たのかなって。こんな場所で名前を呼ばれることなんてめったにある事じゃないですか。だから遠路はるばる借金取りがやってきたのかなって」


「借金してるんですか」


「借金はしてないです」久慈さんはハッキリと答える。確かに借金という負い目があるようにも見えなかった。


「じゃあなんでそんなこと言ったんですか。借金取りだなんて」わたしは不満を漏らした。


「怒ってます?」風が吹くと彼の持った本のページがひらひらと揺れた。木陰からこぼれる日差しが彼の髪に反射する。きらきらと、時折かがやく髪がやけに眩しい。確か一昨日の晩のコンビニのときには眼鏡を掛けていなかった。わたしと同じ仕事中は眼鏡をはずすタイプの人なのかもしれない。


「怒っていませんけど、げ、って言われたのが気に喰わなくて」わたしは頬を膨らませる。これはいささか分かりやすい抗議だ、と後悔をした。


「びっくりしたんですよ。いま読んでた小説の主人公は追われる身となって、とある島に着いたんです。それと重なって、まさかこんなところで自分の名前が呼ばれるなんて思ってもみませんでしたから。だから、悪気があったわけじゃないんです」と久慈さんは弁明した。


「そういえばそんな内容でしたよね。その本」


「できればそれ以上は言わないでくださいね」と彼は目でわたしをけん制した。


わたしは口に手を押さえて、「ふぁい」とくぐもった返事をした。久慈さんは春のような暖かさで顔をほころばせた。


 久慈さんと目が合うと急に何を話せばいいのか分からなくなった。そもそもどうして声を掛けたのかも思い出せなかった。わたしはいつものように、お昼休憩になったら公園のベンチで読書をしようとしていただけ。公園に着くといつものベンチに先客が座っていた。桜の季節だし花見をしている人もいるだろうとは考えていた。けれど花見もせずに本を読んでいる人がいたものだから、声を掛けずにはいられなかった。野性的な勘だ。この人はきっと本が大好きだ、と。


 近づくにつれ、その人が図書館にやってきた久慈さんだとわかった。わたしも読書の最中なら声を掛けてほしくないのに、どういうつもりだったのか二分前の自分に聞いてみたい。




「休憩ですか」久慈さんが落ち着き払ったようすで話しかけてきた。貸出レシートを栞がわりに本のページのあいだに差し込んでいた。


「はい。天気のいい日は、いつもここでごはんを食べてます」澄んだ空を見上げてわたしは答えた。


「ここで?」


わたしは自信をもって頷いた。現に彼もこうして外で読書を楽しんでいるのだから同類のはずだ。きっと理解してくれる。


「そこに僕がいたので、声を掛けてくれたんですね」


「偶然ってあるものなんですね。お邪魔じゃなければ隣に座ってもいいですか?」


「え」不審そうに見上げてくる久慈さんは、ちょっと怯えているようにも見えた。


「そうですよねぇ、親しいわけでもないのにいきなりだと戸惑いますよね」


「いやそういうわけじゃなくて」と久慈さんが必死に頭を振った。そして、どうぞと自分の荷物を端によけてくれた。


 どうしてだかわたしはこの人と会話をしたくなっていた。さかのぼれば以前からわたし達はお互いを知っていたのかもしれない。それぞれの職場でいち利用客として、親睦を深めていたのなら赤の他人とは言い切れない。


「次の日が休みで夜遅くまで本を読んでるとお腹すいたりするじゃないですか」なにか喋らなければと、わたしは咄嗟に深夜のコンビニに買い物に行った言い訳を口にする。


「だからポテトチップと午後の紅茶を?」


「恥ずかしいですけど、そうです。なんか、すっごく恥ずかしいですね。あんまり人に知られたくない一面をみられるのって」


「僕だって同じです。どうして吠えるクジラが僕だって気付いたんですか」


「さっきも伝えた通りその本を読みたいって思ったのはクジラさんの意見書が投函されていたからです。わたしこう見えても小説が好きで」とおどけてみせると、久慈さんは真剣な顔で頷いてみせた。その眼差しにわたしの心臓が低い低音を響かせた。趣味という言葉で片付けてしまうには無理があるような、真剣な表情だった。「この本は面白そうだなって事じゃなくて、この作家さんはどんな物語を描くんだろうって、いつも表紙をめくるんです」


「僕とは違った読書をしてる」と久慈さんは苦い顔つきに変わった。「自分は楽しむっていうよりも勉強に近いです。あわよくばいいところを盗んで自分のモノにしたいって意味も込めて」


「勉強? 自分のモノにしたい?」それは人生の教訓とでもいうのか、わたしは頭を傾げた。


「僕は小説家になりたいんです」彼は俯いた。


 医者になりたい、警察官になりたい、弁護士になりたいという人たちは誰しも俯くことなんてありえない、俯くような人には他人を救えるはずがないんだから。


「俯くな! 胸張って小説家を目指したら良いじゃないですか」とわたしは発破をかけた。「そんな自信なさそうにしてる人の書いた小説なんて誰も読んでくれないと思います」


「う、うん。いやまさかそんなふうに言ってもらえるなんて夢にも思わなかった。ふつう笑われるから、小説家を目指してるなんて言ったら」


「映画もドラマもアニメだって、小説が元となってる作品は数多くあるじゃないですか。それでいて小説家を見下すような人はきっと極度の文字アレルギーです」


「それは言いすぎだよ。たぶん文房具メーカーで働く人たちかもよ、鉛筆も原稿用紙もつかわずに小説を書くものだから」


「そんなこと言ったら怒られますよ」わたしは吹き出しそうになった。洋子さんの旦那さんはまさしく文房具メーカーで働いている。


「それを先に行ってよ」わたしが洋子さんの説明をすると久慈さんはバツの悪そうな表情を浮かべた。


「でも、小説家を目指してるなんて夢があって良いですね」わたしは本気でそう思った。資格や技術でつかみ取る夢とは違い、第三者の評価があってこその夢には価値があるように思えるからだ。


「そんなふうに言って貰えるだけで、なんか頑張れる気がします」


「小説はもう書いてたりするんですか」


「もう何作も書いてる。いろんな新人賞に応募したけど二次選考通過が良いとこだった」久慈さんは鼻を掻きながらはにかんだ。


 あんまり詳しくないけど選考を通過することは凄いことじゃないかとわたしは素直に感心した。「そこはもっと誇ってもいいと思いますよ」


「一次選考通過は三作、うち一作が二次も通った、それだけのことだから」


「それだけのことって。自分を過小評価する人なんですね、久慈さんって」


「真っ当な評価だと思ってるんだけどなぁ。小説を書いているときは自信と不安が戦っていて書き終わってみるとどっちが勝っているとも思えない妙な気持ちになるんだ。だからさ、その作品を読んだ人にしかその価値が分からない、と僕は考えているんだ。選考通過が妥当な評価だと、読んだ人が判断してくれたんだから僕はそれを受け入れて次頑張るしかないんだ」決意がみなぎるような鋭さでも、これ以上は無理だと悲観するような眼差しでもなく、ただただ公園で遊ぶ子供たちの姿を楽しそうに追いかけている彼の瞳が、眩しかった。


「その小説はどこで読めますか」久慈さんの不思議な雰囲気に、半ば切り込むような形で訊ねた。「わたしも読んでみたいです」


「いや、あの、そんな読ませられるほどの作品モノでもないし」


「じゃあ何のために書いているんですか? ここはわたしに騙されたと思って、読ませてください」とわたしは食い下がる。


 しばらく久慈さんは目を泳がせ観念したのか、とあるサイトのQRコードをわたしに示した。ここに行けば読めるんだ、と。


「ネットで公開してるんじゃないですか。どうして早くそれを教えてくれなかったんですか。読ませるほどのものじゃないって言っておきながら不特定多数の人の目に触れるような場所に掲載してるし、なんだかめちゃくちゃです」わたしは世界中のありとあらゆる非難がここにあると言わんばかりに、久慈さんに食ってかかった。


「赤の他人だから気にせず読んでもらえるんです」と複雑そうな笑みを浮かべた。「僕の中で君はもう赤の他人には見えなくなって、お互いの休日と平日を知った仲っていうか職場もその職場で働いてる姿も知っているし、僕が吠えるクジラだってことも知ってる。こんなに僕の予備知識を持ってる人に読まれるのはやっぱり恥ずかしいよ」


「大作家になったら近所の人もコンビニ店員も銀行員すら、久慈さんの作品を読むかもしれないんだから。恥ずかしさは今のうちに捨てておきましょうね」わたしはスマホでQRコードを読み込みサイトに接続した。


 どうやら掲載されているサイトはネットで小説を掲載するサイトとしては最大手らしく、読者数は四十万人いると教えてくれた。これだけ人がいたらたくさん読まれたでしょ、と水を向けたが、「好みのジャンルしか読まれない場所なんだよ、そこは」と久慈さんは淡々と話した。


 サイトの飛んだ先は作者プロフィールのページで作品のタイトルが幾つか並んでいた。わたし上から順にタイトルを声に出して読み上げた。


「君は、なんて意地悪なんだ」声を震わせながら久慈さんがわたしを睨んだ。怒りよりも羞恥によって声を震わせた彼に、わたしはとても好感が持てた。


「良いタイトルだと思いますよ。カラスの砂遊び。小さな町のホヌ。君に贈るなら、ペチュニアの花言葉が良い。どんなお話だろうって気になります」指先で一つの作品をタップする。画面が切り替わり小説が映し出される。画面を撫でる、スクロールする文字をわたしは目で追った。やっぱりというべきか、意見書に書いてあったままの温かな文章でどこかユニークな感性もあった。「でも、これだけはさきに教えておかないといけませんね」


「え、なにか変なところでもあった?」不安そうな表情で久慈さんはわたしを見ていた。


「図書館の小説を選書してるの、わたしですからね」


「はぁ」


「きっと久慈さんは洋子さんと、さっき行列の出来ていたカウンターの受付の女性が洋子さんって言うんですけど、その人と勘違いしてましたよね。わたしのことは君って呼んでるし、貴女には見てもらえてないみたいだったから」


「鋭いなぁ」と久慈さんは自分の頭を掻いた。「前に一度話しかけたことがあったんだ。この本ここにしか置いてないんで助かりましたって。そしたらすごく喜んでたから」


「確かにそれは洋子さんが選んだと言えるかも知れないです。選書のときにナンバーワンよりもオンリーワンを目指そうよって洋子さんに言われてほかの図書館が選びそうにないその本を選んだんです」


「だからかぁ、あんなに喜んでたのは。とんだ早とちりだった」


「そうですよ」やっと謎が解け、晴れやかな気持ちになった。自分が選書をしているのに意見書には別人像が書かれていたことに実のところモヤモヤしていた。


 スッキリとしたところで、小説に目を戻す。読んでいて少し息苦しくなる。画面に映る文字が3Dのように浮かび上がったような、錯覚がおこった。

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