第3話

 あまり眠れないまま仕事に行った。


「おはよう、って、え? どうしたの?」

「おはようございます」


 心配そうに顔を近付ける彩葉に、貴女のせいだなんて言えなくて、何でもないですと呟く。


「体調悪い? 急ぎの仕事ある? ないなら帰った方がいいんじゃない?」


 何も言わないつもりだったのに、その言い方全てが僕の胸をちくりと刺す。ちょうど彩葉が手にしていた赤いペンが僕の目に入った途端に鮮烈な赤を蘇らせた。


「邪魔ですか?」

「え?」

「追い払いたいならそう言ってください」

「何言ってるの?」


 駄目だ。言わなくていい事まで口が勝手に動いていて自分を抑制できない。


「すみません、顔洗ってきます」

「え、ちょっと!?」


 静止の声さえ振り切って部署を出るとトイレを目指す。鏡に映る自分の顔を見て、サイアクだ、とこぼした。

 水道の蛇口をひねり水を出すと両手で掬って顔を叩くように洗う。自分の嫌な部分を洗い流すかのように僕は何度も何度も水で顔を叩いた。


「さっきの言い方は駄目だったよな。猛省しろよ、お前」


 そう鏡の中の自分に言い聞かせる。きっと彩葉にも事情があるはず。それをちゃんと聞けばいい。

 さっきだってただ純粋に心配してくれただけだと分かっているのに、あの女と重ねてしまったから悪かった。

 勝手に決めつけるのはよくないと彩葉と元カレの件で学んだはずなのに、ちっとも進歩してない気がして自己嫌悪に陥りそうだ。

 だけど、その前にやる事がある。さっきの言い方が悪かったのを謝って、彩葉の話しを聞こう。

 きっと何でもないことに違いない。僕がひねくれて考えるからいけないんだ。直さなきゃいけない。彩葉に愛想尽かされる前にきちんと直そうと決意して、僕は鏡の中の自分に強く頷いた。


 トイレを出た所で、心配そうな顔をした彩葉がこちらを見ていた。


「ねえ、大丈夫? 熱とかない? 気分は悪くない?」


 そう聞く彼女の顔の方がよっぽど顔色悪く見えるほどで、心配させている事がよく分かって胸が痛む。


「すみません。体調の方は大丈夫です」

「体調の方? 他の所が大丈夫じゃないの?」


 僕の言い方を耳聡く聞いた彩葉はどういう意味かと突いてくる。


「彩葉に聞きたい事があって……。だからお昼休みか仕事終わりでもいいので僕に時間をください」

「聞きたい事? 仕事終わりは難しいんだよね……。だからお昼にする? 何なら今でも大丈夫だよ?」


 仕事終わりは難しい、という言葉にまた胸がぎゅうと潰されそうになる。だがここで負けてはいけないと、お昼休みの時間を貰う事にした。


「うん、それじゃお昼ね。だけどもし本当に体調悪くなったら無理しないでね? 心配だよ」


 そう心配そうにする彩葉の顔は会社の先輩というより恋人の顔だった。それに僕は少しだけ安堵して午前の仕事を片付けた。





 いつか連れて行った蕎麦屋がいいと彩葉に言われ暖簾をくぐる。


「いらっしゃい。空いてる席にど〜ぞ〜」


 忙しく動き回るおばちゃんに軽く会釈して奥の席に座る。


「何にします?」


 ほとんど用をなしてないようなお品書きを彼女に見せるが、彼女はそれをチラリと見ただけで首を傾げた。


「今日は聞いてくれるの? 勝手に注文しちゃうのかと思った」

「あ、それは……」


 そうだ――と思い出す。前回苛立ちのままに月見そば二つ、と勝手に注文した事を彩葉は根に持っているらしい。


「すみません。あの時は――」

「いいよ、いいよ。別に怒ってる訳じゃないしね」

「あいよ、何にする?」


 その時、お冷を持ったおばちゃんが注文を取りに来た。

 まだ――と言おうとした僕の上から彩葉が、月見そば二つ、と笑顔でおばちゃんに言う。注文を取ったおばちゃんが戻って行くのを見送って僕は彩葉に聞いた。


「良かったんですか、月見そばで?」

「え? ダメだった? 歩くん好きなんだと思ったんだけど……。前の時はさ、ちゃんと味わって食べれなかったから今度はちゃんと味わいたいなって思ってたんだよね」

「彩葉がいいなら僕は……」

「ふふっ、ごめん」

「?」

「ちょっとだけ仕返しのつもりもあったんだ、ごめんね?」


 悪びれているのに優しく微笑んでいるから、僕はその可愛くて愛おしい顔を見ただけで許してしまえる。

 いや、許すなんておこがましい。そもそも僕が悪いのだから。


「じゃあこれでおあいこですね」

「そうだね」


 僕たちの間に優しく温かい空気が広がる。それはきっと彩葉のお蔭。

 僕のギスギスしていた棘がころりと落ちた。だから今聞こう。聞きたい事全てを聞いてしまおう。


「あの、彩葉」

「なに?」


 僕の緊張が彩葉にも移っていくようだった。乾きそうな喉をお冷で潤すと僕は覚悟を決めて口を開く。


「昨日の会社帰り、一緒に帰りたくて追い掛けたんです。彩葉昨日【キッチン みやび】に行きましたよね?」

「え? いや、あのね……」

「もしかして最近仕事終わりに予定があるって言ってたのって、あいつの所に行くためですか?」

「あいつって、雅くん? 待って待ってちょっと違うって言うか、……ああ、でも違わないって言うか……」


 眉を寄せて困り顔をする彩葉は、何かを言う事を躊躇っていた。何かを隠しているのは間違いない。


「僕には言えない事ですか?」


 僕たちは恋人同士とはいえ所詮は他人。秘密にしたい事の一つや二つあるのかもしれない。だけど僕には秘密にしておいて、あのオレンジ頭は全て知っているような気がして悲しくなる。


「言えない。ごめんね」

「そうですか」


 掴めたと思っていた彼女の手はまやかしだったのだろうか?

 僕は誰と手を繋いでいたのだろう。


「僕たちの関係って何なんでしょう?」

「えっと……、恋人?」


 そこははっきり断言して欲しかったのに、疑問系なのがまた僕の胸を苦しくさせる。

 それきり黙り切った僕に、歩くん? と覗き込まれるが真正面から視線を受け止める事は出来なかった。





 子供っぽい僕はそれからどうするべきなのか分からなくなってしまった。

 彩葉から別れ話がないのをいい事にズルズルと『恋人?』と疑問符のついた関係を続けている。


「ねえ月見里さん。松岡さん、どうしちゃったんですか?」


 コソコソと話す結城さんの声。だけど真向かいにいるため全て聞こえている。


「あー、ごめんね?」

「ケンカですか? 早く仲直りした方がいいですよ」

「うん、そうだよね。ありがとう結城さん」


 それを聞いて、何がありがとうだよ、と内心で悪態をつく。

 それにケンカじゃない。

 ケンカなんてしてない。

 僕が子供過ぎて勝手に怒って沈んでいるだけだからケンカにもならない。彩葉は大人の余裕でそれを見下ろしているだけだ。

 悔しくて泣けてくる。

 いや、職場だから涙なんて見せないけど、家に帰れば分からない。こと、彩葉の事になると情緒不安定になる自分が情けなかった。



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