第36話 本当の気持ち

 俺が駅東公園にたどり着くと、そこには数人のやじ馬と、計六人もの警察がいた。


 警察は四人の男を取り囲んで事情聴取? とやらを行っているみたいだ。四人のうちの三人はいかにも不良って感じで、残りの一人はあの愛実と抱き合っていた男だった。


 しかもそいつだけ、顔がぼこぼこ。


「……いない、ここじゃないのか」


 しかし、愛実もゆちあもいなかった。


 ここじゃないとしたら、どこだ?


 膝に手をついて、一度呼吸を整えようとしたその時。


 愛実と抱き合っていた男が、すっとこちらに顔を向けた。


 ――二人はあっちに行ったぞ。


 唇の動きだけで判断したから、読唇術なんか知らないから、それは希望的観測による解釈だったかもしれない。


 俺の敵とも言うべき人間の言葉なので、嘘だと考えるのが自然だったかもしれない。


 でも、俺はその言葉を信じていた。


 だって俺にそれを伝えてくれた彼の顔は、つきものが落ちたみたいに穏やかだったから。


 あの日、願いの灯の前で見た、オリオンレッドの真似をする子供の笑顔によく似ていたから。


 ――バカにしてごめん。


 俺は、また走る。


 公園を駆け抜けて、新しく建てられたタワーマンションの前を通り過ぎる。バス停の前に置かれてあるベンチに、愛実とゆちあが座っているのをようやく見つけた。金髪だから夜でもよく目立つ。


 なんだ、金髪、結構似合ってるじゃん。


 意外な一面って感じ?


「愛実! ゆちあ!」


 走りながら叫ぶと、肺がうまく収縮できなかったのか、ものすごく苦しくなった。


 ずっと走り続けていたことによる疲労が、両足の筋肉に一気に襲いかかる。


「あ! おとーさん!」


 俺の声が届いたらしく、ゆちあがすっと顔を上げ、俺の方を指さした。


「えっ?」


 そのゆちあの声に反応して愛実が顔を上げ――遠目からでも肩がびくりと跳ねたのが確認できた。


「愛実! ゆちあ!」


 走りながらまた叫ぶと、愛実がすっと立ち上がった。ゆちあの手を握りしめ、抵抗するゆちあを強引に引っ張って逃げようとする。


「え? おかーさん? ……やだっ!」


 ゆちあの悲しげな声がここまで届く。


「ゆちあお願い! ここにいちゃダメなの!」


 愛実のそんな叫び声も耳に届いた。


「やだ! なんで! おとーさんだよ」


「いいからおかーさんと一緒に来て!」


「やだやだ!」


 ゆちあは首を横に振り続ける。


「おとーさん!」


 そして、俺に向けて必死に右手を伸ばす。歯を食いしばって、眉間にしわを寄せて、全身全霊で愛実に抵抗していた。


「ゆちあっ、愛美っ」


 伸ばされたゆちあの小さな手のひら向けて、俺も手を伸ばす。


 もう俺は、逃げないって決めたから!


「待ってくれよ!」


 ようやく俺の手が、ゆちあの小さな手に触れた。


 すぐにがっちりと握りしめる。


「おとーさん!」


 ゆちあもぎゅっと握り返してくれた。その必死な顔を今度はおかーさんに向けて、声を張り上げる。


「おかーさん逃げないでっ!」


「……ゆちあ」


 ゆちあの想いが伝わったのか、愛実は体の動きを止めた。


「はぁ、はぁ……よかった」 


 ひとまず安堵し、両膝に手をついて呼吸を整え……ている暇はない。


 体中が酸素不足を訴えているが、休憩している暇など俺にはないのだ。


「おとーさん、あのね」


 不安そうなゆちあが俺を見上げていることに気づき、なんとか笑顔を浮かべた。


「ん? どうした?」


「さっきはごめんなさい。ゆちあ、おとーさんにひどいこと言った」


 ゆちあはぺこりと頭を下げた。


「本当はね、ゆちあ、おとーさんのこと大好きだから、離れたくない。一緒にいたい」


 きちんと謝れるなんて、やはりゆちあは優しい子だ。


 俺だって、ゆちあにひどいことを言ったのに。


 先に謝られるなんて、大人として、おとーさんとして、本当に情けない。


「おとーさんも、ごめんな」


 俺はゆちあの頭をわしゃわしゃとなでてやる。


「ゆちあを不安にさせた。ゆちあの大切なおかーさんにひどいこと言った」


「いいよ。ゆちあ許してあげる。だってこうして来てくれたもん!」


 ね、おかーさん! とゆちあが愛実の顔を見上げる。


 愛実はまだ表情に悲壮を滲ませていた。


「どう、して? なんで来たの?」


 責めるような声で言われ、胸が痛む。


 愛実にそんな顔をさせていることが、心底腹立たしかった。


「どうしてって、そんなの」


「私がそばにいるとあなたを傷つける」


 肩を小刻みに上下させながら、ゆっくりと後ずさっていく愛実。


「そういうのは、私だけ救われようとするのは、もう嫌なの」


 彼女は激しく首を振りながら、喉から声を絞り出している。


「だから私は――」


 突然愛実の言葉が止まった。


 目をぱちくりと見開いて、顔だけで後ろを振り返る。


「ゆち、あ」


 愛実の後ろに回り込んだゆちあが、愛実の足に後ろから抱きついて、その足を動かせないようにロックしていた。


「ダメだよ。おかーさん」


 その行動を見るだけで、ゆちあの思いはすぐに伝わった。


 俺と同じだった。


 ゆちあ、ありがとう。


 そう心の中でつぶやき、俺は一歩踏み出す。


「え? ……え? ちょっとゆちあ」


 愛実は顔をせわしなく動かし、前にいる俺と後ろにいるゆちあを交互に見る。


「智仁も……、だって私は」


 動揺する愛実にもう一歩だけ近づくと、俺は愛実の体をそっと抱き寄せた。


 愛実がどこにもいけないように前から愛実をロックする。


「今まで、悪かった」


 愛実の体が、びくりと波打つのが直に伝わってきた。


 彼女の体はまだ震えている。


 だからこそ、言葉の限りを尽くして、その震えを取り去ろうと決意した。


「俺は今まで自分のことしか考えてなかった。全部自分の都合のいいように解釈してたんだ」


 愛実が俺から離れようとして、俺の胸を両の手のひらで押している。


 そんなことをされたって、死んでも離すもんか。


 愛実の後ろでは、しっかりとゆちあが足をロックし続けてくれている。


「全部言いわけだったんだ。ずっと、今まで、事実に向き合うのが怖かった」


 俺は大きく息を吸った。


 小さく頷き、俺の心を支配し続けていた本心を、なんのフィルターも通さず言葉にする。


「ただただ好きだったんだよ。ずっと。愛実のことが」


 もっと緊張すると思っていた。


 喉元で言葉が詰まるかと思っていた。


「俺は愛実のことが、大好きだったんだ」


 愛実の体の震えが止まるまで、俺は本当の気持ちを伝え続ける。


「俺が愛実のことを一生守るから」


 胸に感じていた圧力がふっと消える。


 愛実の腕が俺の背中に巻きついていくのがわかった。


「俺に愛実のすべてを背負わせてくれ」


 どく、どく、という愛実の心臓の鼓動をしっかり感じ取れる。


 そのリズムが、俺の心臓の鼓動と重なっていく。


 すごく心地よい。


 いつまでも味わっていたいと思える大切な感覚だ。


「俺はずっと過去に生きてきた。命を救われたから、すごい人間になるのが義務だって思って。でも俺じゃすごい人間になれなくて、自暴自棄になって、色んなことから逃げだした。愛実を傷つけ続けた」


 本当に情けないと思う。


 過去に戻れるならやり直したい。


 そんなことはできないのだから、きちんと過去と向き合わなければいけない。


「俺、ようやくわかったんだ。俺は愛実とゆちあと一緒に人生を歩みたいんだって。未来を生きたいんだって。二人のことをこの手で守れるような、すごい人になりたいんだって」


 そこでひとつ、息を吐く。


 俺の心からの願いを一かけらの取りこぼしもなく伝えるために、顔を愛実の耳元に近づけた。


「遅くなってごめん。俺とつき合って下さい」


 胸のあたりが異様に熱くなる。


 俺は己のすべてをかけて、ずっと伝えられていなかった言葉をきちんと伝えた。


「……遅いよ」


 愛実の耳が赤くなる。


「私は、子どもの時からずっとつき合ってると思ってたよ」


「いやでも、なぁなぁで、ちゃんと言葉にしてなかったから」


「ほんとどれだけ待たせるの? バカ」


 愛実の柔らかな声が、俺の鼓膜を優しく揺らす。


 ゆっくりと顔を上げた愛実は、白い歯をのぞかせながら、大粒の涙を流していた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 頬をほんのりと赤く染めた愛実の笑顔を、俺は網膜に焼きつける。


 この笑顔以上の、最高の笑顔を引き出したい。


 もっと幸せになりたい。


 もっと大切にしたい。


 俺の全てがそう訴えかけていた。


「俺、愛実が離れたがっても、ぜってぇ離さねぇから」


「私も、離れてあげない。ようやく捕まえたんだから」


 それから俺たちは、額をくっつけ合って、鼻先をくっつけ合って、そして――。

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