第34話 あの日から負けていた

 俺はベッドで仰向けになって、天井の黒染みを見ていた。その黒染みは、気がつけば天井中に広がって、ゆっくりとこちらに向けて下りてきて、俺を暗闇の中へ誘おうと――


「智仁! ゆちあちゃんが!」


 鋭い声が鼓膜を無遠慮に叩く。


 うるさいなぁ。


 ゆっくりと顔だけを動かすと、切羽詰まった顔をした莉子が扉を開けたところだった。


「おかーさんがピンチだって! 愛美になにかあったらしくて、ゆちあちゃんがさっき飛び出して!」


「そう、か」


 驚くほど冷静だと自分でも思った。


 ゆちあも、愛美も、どうでもいい。


 愛美は俺を捨てて別の男を選んだ。


 愛美が連れてきただけの、どこの誰だかわからない子供を、探しにいく必要なんか俺にはない。


「じゃあ、俺はまた独りになるんだな」


 視界が滲み始める。


 この乾いた笑いは……ああ、俺か。ははは。


 今の俺には、こんな惨めな笑い声がお似合いだな。


「なんで、そうなの」


 莉子の苛立ちにまみれた声が近づいてくる。


 苛立つ、なんて無駄な感情、無駄だからさっさと捨てた方がいいぞ。


「智仁は、ゆちあちゃんのおとーさんなんでしょ!」


 胸元を掴まれ、上半身を持ち上げられる。


 こんなにも鋭い瞳をした莉子を見たのは初めてだ。


「ゆちあちゃんは智仁のことも愛美のことも大好きなんだよ! 二人一緒にいてほしいんだよ! 智仁だって愛美のことが好きなんじゃないの!」


「うるせぇ黙れよ!」


 声とともに莉子を突き飛ばす。転倒した彼女を見下ろしながら、俺は路上に唾でも吐き捨てるように告げた。


「お前が教えてくれたんだろ。愛美のお父さんが、もうかかわるなって言ってるって」


「なんであんなの気にするのよ!」


「気にするさ! 俺なんかが、すべてを持ってる愛美を邪魔したくないんだ!」


「全部嘘に決まってるじゃない!」


 莉子が世界中に響き渡りそうなほど大きな声で叫んだ。


 その声は、いつまでも部屋の中で反響し続けた。


 …………え。


 うそ?


 なに、が?


「あんなの、なんで信じるのよ!」


 冷水を頭にぶっかけられたような気分だった。


 う、そ?


 莉子の瞳には怒りと、後悔があふれんばかりにつまっている。


 少なくとも、俺にはそう見えていた。


「だってしょうがないじゃない」


 莉子が、俺の胸に頭突きをする。


「お父さんに助けられるなんて卑怯だよ。そんな運命みたいなつながり、ずるすぎる。ただの幼馴染みなんかが勝てるわけない! 智仁と愛美は運命レベルでつながってるんだって、そう思っちゃうじゃん」


 莉子に両肩を掴まれ、爪が肉にめり込む。


「そんなつながりに、私は絶対敵わないって思った。だからあれくらいの嘘、許されると思って。死者と会話なんかできないの!」


 俺の胸の中で感情を吐き出している莉子は、苦しそうに嗚咽し始めた。


「あなたたちが別々の高校行くことになって、仲違いして、チャンスだと思った。そのことで智仁は傷ついているのに、嬉しくなった自分が許せなかった。愛実のお父さんを恨んじゃう自分が許せなかった」


 莉子の口から吐き出されている感情は、切実で、痛くて、脆い。


 だからこそ、俺の胸の中に直接入り込んできて暴れる。


 血流とともに体中を巡りながら暴れ狂う。


「私だって苦しいのに、なのに今度はゆちあって名前の子が現れるだもん! そんなの信じられなかった。信じたくなかった。絶対無理じゃん。神様まで味方してる二人に、嘘くらいつかなきゃやってられなかった」


 莉子は俺の肩から手を放して、床に這いつくばって泣きわめく。


「莉子、ちょっと落ち着いて」


 今の莉子は、自ら舌を噛み切って死にそうなほど憔悴している。


 俺にはそう見えていたから、俺は彼女に向けて手を伸ばし――


「触らないで!」


 その手を思い切り払われた。


「あなたが今、そばに寄り添うのは、私じゃない」


 俺を睨む莉子の目には、拒絶の意志が込められていた。


「私は智仁が傷つくとわかってて、死者と話せるなんて嘘をついた。ゆちあちゃんまで傷つけるような嘘をついて、家族が壊れていくのを見て、もうどうしたらいいかわからなくて」


 莉子は目からあふれ出る涙を拭いもしない。


「でもゆちあちゃんの思いを聞いたらさ、もう無理だよ。こんなあり得ないこと、真実だって、私は最初から二人の間に入り込む余地なんかなかったんだって!」


 莉子に胸を殴られる。


 その力は、ゆちあと同じでとても弱々しかったからこそ、ものすごく痛かった。


「私は、信じなきゃいけないんだって思わされた」


 莉子の心の内を聞いたのはこれが初めてだ。


 莉子は一人でずっとずっと苦しんでいたんだと、鮮明に伝わってきた。


「だから智仁は行くんだよ。愛実とゆちあちゃんの元に、行かなきゃいけないんだよ!」


「でも愛美は、俺じゃない男を」


「そんなの知るか! だって……」


 莉子はそこで言葉を止める。


 震えていた瞳に覚悟の炎が宿るのを俺は見た。


「願いの灯に、愛美は医者になりたいなんて願いを入れてないから!」


「え?」


 ここにきてまた嘘か?


 だって愛美はあの時、みんなにその願いが書かれた短冊を見せたのだ。


 俺だってそれはこの目で見ている。


「私、愛美がお母さんに見せた短冊を、入れる直前でもう一つの紙にすり替えたのを見たの」


 ……は?


 俺は、必死で過去の記憶を思い返していた。たしかに莉子の言う通り、愛実がみんなに見せびらかしていた短冊を願いの灯の中に投げ入れたかどうかまで見ていたわけではなかった。


「それで、実際に投げ入れた紙には、なんて?」


 恐るおそる聞く。


 体がその答えを拒絶しているようにも、必死で求めているようにも感じる。


「愛実が入れた、本当の願いはね」


 莉子は小さく息を吐いてから、涙を流しながら、なぜかくしゃっと笑った。


「【ともひととけっこんしたい。こどものなまえは結智愛ゆちあがいいです】って」


 俺は、小刻みに揺れる息を吐き出すことしかできなくなった。心臓の音が、脈打つたびにその大きさを増していく。


 これは嘘だろ。


 さすがに。


 いやでも、これは莉子にとってなんの特にもならないから……。


「結ぶに智仁に愛美で結智愛」


 これが本当なら、もし仮に、本当だとするならば。


 じゃあゆちあは、ゆちあが俺たちの前に現れたのは。


「愛実は、子供の名前だけしっかり漢字で書いてた。結智愛って、子供が書くには難しい漢字だったけど、一生懸命書かれたのがわかる、その日のためにいっぱい練習したのがわかる、綺麗な字だった」


 智仁は思い出す。


 願いの灯は、願いを入れた人のご先祖が願いを叶えてくれるものだと。


「私はその日、それを見てしまったんだ。だから私はその日、私の願いを入れられなかった。ポケットの中に私の思いとともに押し込んだ。二人になんて願ったのって聞かれて、とっさに嘘をついた」


 嘲るように笑った莉子が、服のポケットからくしゃくしゃの短冊を取り出す。


「だから、私は【ともひととすきどうしになりたい】って書いた紙を、今もこうして持ってるんだ!」


 子供特有の丸文字が書かれてある短冊を俺に見せつけてくる。


「入れられるわけないよ。愛実のあんな願い見たらさ。これを入れられなかったあの日から、私はもう負けてたんだ。負けを認めてたんだ」


 莉子はその紙をびりびりに破り捨てる。


 過去を清算するかのように。


 未練を断ち切るかのように。


「だから智仁は行くの! 他の男なんて関係ないの!」


 そして、細かな紙屑になった短冊を踏みつけるようにして立ち上がり、俺の手首を掴んだ。


「智仁だってあの日、【つぐみといつまでもいっしょにいたい】って書いた短冊を願いの灯に投げ入れたんだろ! そうだろ! 藤堂智仁!」


 莉子は俺の手を引っ張り、そのままの勢いで俺を扉に向かって放る。


 莉子のぐちゃぐちゃな思いが体に流れ込んできた。


 頭の中に浮かんでいたのは、愛実の笑った顔だった。


「運命が、神様が! ゆちあちゃんまで現実に呼び寄せて、二人の願いを叶えようとしてるんだ!」


 俺の足がもつれるようにして前に動く。


 俺は、俺の夢は、俺がなりたい俺は。


 昔も今も変わらず、愛実と一緒にいて、愛実のことを守り続ける。


 そんな男だったんじゃないのか。


 医者なんかじゃなくて、勉強ができる男なんかじゃなくて、愛実をずっと守れる男になるんだと誓ったんじゃないのか!


「あんたら二人は、一緒になるのが運命づけられてんだよ! だから行け!」


「……ああ。ありがとう。莉子」


 俺は、その足を立ち止まらせなかった。


 自分で扉を開けて、自分の意思で足を動かして、階段を駆け下りた。


 ゆちあの秘密と、愛美の思い。


 莉子の覚悟。


 俺の本当の気持ち。


 その全てをこの胸で受け入れた今、俺の取るべき行動は、運命レベルで決まっていた。

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