第28話 愛実の母親
愛実の家は、高級住宅街にある緑の屋根が特徴の大きな家だ。駐車場も三台分のスペースがあるが、あの事件以降、車は一台しか止まっていない。住む人が少なくなれば車の数も減る。俺の家と同じだ。
しっかし、何度見ても……でかいよなぁ。
愛実の父親は医者だったため、これくらいの家を持っていても不思議ではない。
結婚も遅く、貯金もかなりあったと聞いたことがある。
「ほんとに、生まれた時から不平等すぎるよ」
俺は門の前に立ち、インターフォンのボタンを押した。
家の前で待つ予定だから、愛実の母親に了解を取らなければいけない。
愛美が家にいたらいたで問題ないし。
「愛実のお母さんだって心配してるよなぁ」
自分の旦那が死ぬきっかけとなった俺に対しても、愛実の母親は娘に接するのと同じ優しさで接してくれた。
そんな優しい人を、強い人を、きっと今の愛実は悲しませている。
それも俺は許せなかった。
「はい。どちらさまですか?」
女性の声がインタホーンから聞こえてきた。
俺の知っている落ち着いた声で安心する。
「えっと、その、藤堂智仁ですが」
「え? 智仁くん? ちょっと待ってて、今行くから」
言葉が途切れた後、すぐに玄関から愛実の母親が顔を出した。
「いらっしゃい智仁くん。久しぶりねぇ」
「はい。お久しぶりです」
愛実の母親と最後に会ったのがいつかは覚えていないけど、白髪や顔のしわが増えていることはわかった。記憶の中の姿より、ずいぶんと老けて見えた。
「会うのはいつ振りかしらねぇ。さぁ。上がって上がって」
「お邪魔します」
愛実の母親に促されるまま家の中に入る。
本当は玄関前で事情を説明する予定だったのだが、ご好意をむげにはできない。ってか愛実の家に入るの、何年振りだろう。
愛実の母親の後に続いて廊下を歩いていくと、こぢんまりとした和室に案内された。
「ここよ。
愛実の母親の視線の先には仏壇があって、そこには白衣を着た愛実の父親の写真が飾られている。
その写真の前には、ぼたもちが供えられていた。
「あの、えっと……」
愛実の母親の顔色をうかがう。
ここに連れてこられた意味がわからない。
愛実のお父さんの視線がすごく痛い。
「晴久さんも、智仁くんの立派に成長した姿を見たがってると思うから」
ああ、そういうことか。
ようやく意図を理解し、部屋の中に足を踏み入れる。
い草の香りが鼻の奥に刺さって咳き込みそうになった。
畳を張り替えて間もないのだろうか。
「失礼します」
仏壇の前に置かれた高級そうな座布団に座る。
もちろん正座で。
愛実の父親は、落ちぶれてしまった俺なんて見たくもないだろうが、これは愛実の母親の善意だ。
ほんと、いつだって悪意より善意の方が人を苦しめるよ。
俺は線香を立てて手を合わせた後、ごめんなさいこんなので、と心の中で謝った。
「あの」
それから俺は振り返らずに言った。
「今日は娘さんにお話があるんです」
しばらくの間、線香の先端が灰になっていく様子を眺め続ける。
……ん?
愛実の母親に対して言ったつもりだったのに、反応が返ってこない。
独り言の音量じゃなかったはずだ。
仏壇に話しかけたのだと勘違いされたか?
「あの……」
振り返ってみると、愛実の母親の姿はどこにもなかった。
「……え」
部屋の中を見渡すが、やはり誰もいない。
いったい愛実の母親はどこにいったのか。
探しにいくべきか迷っていると、愛実の母親がお盆を持って戻ってきた。
立ち上がろうとしていた俺を見て、愛実の母親が、「あ……」と声を漏らす。
「ごめんなさい。待たせちゃったわね」
「いえ。大丈夫です」
俺は立てた足を元に戻した。
「これ、すごくおいしいから食べてほしくて、持ってきたの」
目を細めている愛実の母親が、羊羹とお茶の入った湯のみを俺の前に置いた。湯のみからはまだ湯気が立ち上っている。
「ありがとうございます。いただきます」
この場合、遠慮して食べない方が失礼だろう。
俺はお茶をずずっと啜ってから羊羹を口に運ぶ。
「とてもおいしいです」
先にお茶を飲んだからか、羊羹がすごく甘く感じた。
「やっぱり。よかったわぁ」
愛実の母親はお盆を胸に抱き寄せる。
そういえば、こういう仕草を愛実もゆちあも見せていたっけ。
癖って遺伝するんだな。
ゆちあは血がつながってないから違うか。
「はい。本当においしいです。これ」
羊羹をもう一口食べる。
なにかを口に入れていれば喋らなくてすむから。
「そういえば、智仁くん」
しかし、俺がごくんと羊羹を飲み込んだタイミングで愛実の母親に話しかけられてしまった。今から新たな羊羹を口に入れるのは不自然だ。
「あなたは今、なにをしているの?」
愛実の母親は少しだけ首を傾ける。
その目には全く生気が宿っていなくて、少し怖い。
「え、今、ですか?」
じと、と首筋から冷たい汗が背中に流れ落ちていく。
「えっと、まあそれなりに……頑張っています」
「そう。偉いわねぇ。愛実とは大違いで」
愛実の母親は、口元に手を添えてから娘を非難する。その声に混じっていた大量の棘が俺の体に全て突き刺さった。
「そんなこと、ないですよ」
愛実の母親にそう反論した後で、俺はなんでこんなことをしているんだろうと思った。
愛実を怒鳴りに来たのに、なんで愛実を庇っているんだろう、と。
「愛実さんはいつも頑張っています。お父さんと同じ医者という夢に向かって、俺なんかよりずっとずっと頑張ってるじゃないですか」
「え?」
愛実の母親の表情が固まった。
「そんな、お世辞はよしてよ。だって愛実は『もう医者は目指さない』って言ってきたのよ」
「……は?」
りんごを丸呑みできるくらい、俺は口をあんぐりとあけていると思う。
医者を目指さない?
なんで?
これまでとてつもない努力を重ねてきた愛実が?
俺とは違って才能がある愛実が?
それを持っていなくて、諦めたやつがいるのに?
なんでやめちまうんだよ!
「それにあの子、ここ一か月くらいかしら、帰ってくるのがすごく遅いのよ。うちでご飯も食べないし。いきなり外泊もするようになって、塾も無断で何回か休んだって連絡も来たの。挙句の果てには学校にも行かず、髪もあんな変な色に染めて」
睨むように目を細めた愛実の母親に見つめられ、俺は蛇と対峙したカエル状態になってしまった。
「それは……」
だけど、愛実の母親の誤解を解いておかなくては、とも思っていた。
愛実が無実の罪で疑われるのは納得できない。
どうして医者を目指さないなんて結論になったのかはわからないし、不良娘になった理由もこっちが知りたいくらいだが、ここ一か月の間帰りが遅くなったり、塾を無断で休んだりしていることに対する誤解だけは解いておきたかった。
俺は愛実の母親の目をまっすぐ見据える。
「実は、愛実さんはここ一か月ほど、俺の家に来ているんです」
そう言った後で、ゆちあの存在を伝えなければこれ以上の弁明ができないことに気がついた。
待ってやばいやばい。
どうやってゆちあのことを秘密にして、愛美が俺の家に来ている整合性を取ろう?
よりをもどしてつき合っている……は、ダメだ。
それを言うと、外泊の理由はどんなことを言ったって、不純異性行為にしか結びつかない。
「それ、本当なの?」
信じられないといった様子で目を見開く愛実の母親。
「はい。本当です」
俺は深く頷く。
ってかそもそもこの人になら、ゆちあのことを打ち明けてもいいのではないか?
普通に協力してくれるのではないか?
……そうだよ。
こんなにも優しい人が、俺たちに協力してくれないわけがない。
娘に協力しないわけがない。
「あの、信じられないかもしれませんが、俺たちのもとには今――」
「やっぱりあなただったのね。私の娘をたぶらかして、変にさせたのは」
その言葉を聞いた瞬間、背中が凍りついた。
愛実の母親の表情から一切の感情が消えたのだ。
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