第四章  ごめんなさいと、伝えられたら

第23話 本当の願い【愛美視点】

 その日は、愛実にとって人生で一番楽しい日となった。


 智仁とゆちあと遊園地に行き、帰りに願いの灯を見るという家族デートができたからだ。


 愛実は、大切な思い出を心の奥底に丁寧にしまい込みながら、玄関に立つ智仁に向けて手をふった。智仁に背負われているゆちあは、はしゃぎ疲れたのだろう、すやすやと眠っている。


「じゃあまた明日ね」


「ああ、また」


 二人に背を向けた瞬間から、もう智仁とゆちあに会いたくなってしまう。ダメだな私、帰って勉強しないと……と愛実は目を閉じで、人差し指と中指でまぶたの上から眼球を押しこんだ。


 こうやって愛実はいつも気持ちを切り替えている。


 藤堂家のガレージに止めておいた自転車に跨り、思い切りペダルを漕いだ。


 風を切って、住宅街をグングン進む。


 夜風がすごく心地よい。


 このT字路を左に曲がると深緑の欄干が特徴の橋があって、それを渡れば高級住宅街エリアに入る。


 橋の前にたどり着くと、この時間にしては珍しく人を発見した。


 黒のワンピースを着た女の人が橋の中央で、水面をじいっと見下ろしている。


 なにしているんだろう。


 愛実は橋の手前でブレーキーかけた。


 街灯に照らされたその女は真っ赤なハイヒールを履いており、長い髪の毛が風で揺れている姿は不気味で儚げで美しい。高級な絵画でも見ているかのようだ。


「あーした天気になーれ」


 その女はいきなり体を反転させ、右足のハイヒールを車道へ蹴飛ばした。


「こんなんで天気なんかわかるわけねーだろ!」


 そう叫びながら、左の靴も同様に脱ぎ捨てる。


 あ、この人もしかしなくてもやばい人だ。


 かかわらない方がいいかもしれない。


 愛実が警戒心を強めた、次の瞬間。


「そうよ! そうそうそう! 結局そうなのよ!」


 突然、女が頭を抱えながら絶叫した。悪霊に取り憑かれたかのように頭を掻きむしり、欄干から身を乗り出そうとする。


「あ……ダメっ!」


 気がつけば、愛実は自転車を飛び降りていた。その女の人に向かって走る。がしゃん。後ろで自転車が倒れる音がしたのと、愛実が女の人に飛びついて、一緒に歩道に倒れ込んだのはほぼ同時だった。


「なにやってるんですか!」


 愛実は叫んでいた。


 下敷きにしている女の瞳は小刻みに震えている。


「死んじゃ、ダメです。こんなの、誰も望んでません」


 見ず知らずの女の上で、言葉の限りを尽くして必死で説得する。


「生きましょうよ。死んじゃダメです」


「……死んじゃ、ダメ?」


 女の両手が愛実の頬に伸び、顔を手で挟まれる。


「私は、死んじゃダメなの?」


 女の目から涙がこぼれた。


「そうです。生きてください」


「私は、死んじゃダメなのね」


 女が愛実の下から這いずり出る。


 車道に転がっていたハイヒールを履いて、倒れている愛実の自転車を立ててからその場を去った。


「……よかっ、た」


 一気に体の力が抜けていく。


 立ち上がれない。


 欄干に背中を預けて座る。


「私も、人を救ったんだ」


 たった今、彼女の自殺を止めた。


 誰かを死から救った。


「お父さん、私、やったよぉ」


 拳を空に突き上げる。


 雲の切れ間から満月が見えた。


 お父さんの笑顔が、その輝きの中に浮かんでいる気がする。


「……いつっ」


 急に右肘が痛み始める。


 見てみると五百円玉くらいの大きさのすり傷ができていた。


「言いわけ、自転車で転んだでいっか」


 これは名誉の負傷だ。


 人を救うってこんなに気持ちいいんだ。


 愛実は心の中で歓喜した。


「人を救ったから……もう、いいよね。お父さん」


 ポケットから手帳型スマホケースを取り出す。定期の裏側に忍ばせてある折りたたまれた紙を広げると、今でもあの日のことを鮮明に思い出せる。


 この短冊は、自分を縛りつけるためのお守りでもあり呪いでもあるのだ。


 お父さんとお母さんの意思を継ぐんだという覚悟を失わないため、愛実はこの短冊を持ち続けてきた。


 その短冊には、こう書かれていた。


【大きくなったらお父さんみたいな医者になりたい】


 愛実はこれを願いの灯には入れていない。


 入れる直前で、別の紙にすり替えた。


 みんなに見せびらかしたのは、お母さんに『私は医者になりたいと願ったよ』という意識を植えつけさせるため。


 と、恥ずかしかったから。


「お父さん、私ね。別の夢があるんだ」


 実は、愛実は本気で医者になりたいと思ったことなどなかった。


 お父さんが死んで憔悴しきっていたお母さんに、


「あなたがお父さんの遺志を受け継ぐのよ」


 と言われたから、お母さんのために医者になろうとしただけだ。


「もう私、人を救ったよ。医者にならなくても、人は救えるんだよ」


 そんな当たり前の事実が、愛実に勇気を与えていた。


「私のせいで誰かが傷つくのは嫌だよ。笑顔が見たいよ」


 愛実は、自分に勉強の才能があることを知っている。


 そのせいで智仁も、智仁以外の人も数多く傷つけてきた。


「でも、それも今日でおしまい」


 愛実は【大きくなったらお父さんみたいな医者になりたい】という願いが書かれた紙をびりびりと破り捨てる。


「こんなもの、もういらない」


 医者にならなくても人を救えることを知った。体感した。ゆちあと智仁と一緒に過ごす時間が本当に楽しくて、愛実はようやく決意できたのだ。


 帰ったらすぐにお母さんに伝えないといけない。


 お父さんの意思を、お母さんの望みを、私はもう叶えないと。


「許してくれるよね、きっと」


 夜空を見上げると、流れ星がひゅんと瞬いた。愛実は慌てて、あの日願いの灯に入れた本当に叶えたかったことを願う。


「これで……私は」


 愛実の胸には暖かい未来へ希望があふれていた。


 しかし、この時の愛実はまだ知らないのだ。


 智仁とゆちあと会えなくなる運命が待っていることを。

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