第4話 愛実との運命的な出会い

 俺と愛実の出会いは、あまりにも運命的で残酷なものだった。


 当時六歳だった俺は、買い物をする母親のもとから離れて一人でスーパーの外に出た。


 たしか、眠いから車に戻ってよ、と思っていたはずだ。


「あ、くるくるかーだ」


 ちょうど目の前の道路を通ったくるくるかー、正式名称ミキサー車の後を追いかける。信号で停止したミキサー車のそばで、俺はコンクリートを入れた容器がくるくると回る様を眺めていた。


「くーる、くーる、くるくるくるま!」


 だから俺は気がつけなかった。


 そんな俺のもとに、猛スピードの軽トラが突っ込んできていることに。


 後で聞いた話によると、その軽トラの運転手は、心臓発作ですでに亡くなっていたらしい。


「おい坊主!」


 誰かの叫び声でふっと横を向く。周囲の喧騒が聞こえなくなって、俺に向かって突き進んでくる白のボディがスローで見え始めると。


 ああ、死ぬんだ。


 とだけ思った。


 あの時抱いた虚無感は今でも忘れない。


 俺は命を諦めていた。


「……っ!」


 目を閉じて衝撃に備えると、なにかに思いきり押されて足が地面から離れた。


 あれ?


 車と……ぶつかった?


 それにしては衝撃がなさすぎるし、飛んだ方向もおかしい。


 恐るおそる目を開けると、一人のおじさんが、さっきまで俺がいた場所に手を伸ばした状態で立っていた。


「え……」


 まだ、世界はスローモーション。


 おじさんは、にっと頬を綻ばせた。


「よかった」


 おじさんの体に軽トラが衝突する。


 その瞬間、映像が一気に加速した。


 歩道に転倒した俺は、膝を強く地面に打ちつけた。血が流れている感触があったのに、普段だったら泣きべそをかいているはずなのに、この時だけは全く痛みを感じていなかった。


 幼い俺は、車と衝突したおじさんの体が空中をくるくると舞って、歩道の視覚障害者用誘導ブロックの上に落ちていく様をじっと見つめていたのだ。


「おじ、さん?」


 声をかけても、おじさんは動かない。


 右足がありえない角度に曲がっており、頭からは大量の血が流れていた。


 ああ。


 なるほど。


 おじさんは、死んだんだな。


 そこまでしっかりと記憶してから、俺は意識を失った。



  *****



 その不幸な事故から三週間後。


 無事に退院した俺は、両親とともに俺を助けてくれたおじさんの家族が住む家に向かった。


 おじさんの家はすごい豪邸で、俺が住む家とは大違いだなぁと驚いたことを覚えている。


「この度は、本当に申しわけありませんでした」


 頭を下げる両親の間に立っていた俺は、彼らに倣って一緒に頭を下げた。


 申しわけありません。


 その言葉が謝罪の時に言う言葉だということを当時の俺は知っていた。そっか。僕は悪いことをしたのか。


「あれは事故ですから。顔を上げてください。智仁くんが無事でよかったと、主人も天国で喜んでいるはずです」


 俺たちに顔を上げるよう促したのはおじさんの奥さんだ。彼女の指示に従って顔を上げると、その女性の足にしがみついていた女の子が、ものすごく悲しそうな目をして俺を見ているのに気がついた。


「ねぇ、ママ」


 今にも泣きだしそうな女の子が、お母さんの服の裾を引っ張りながら口を開く。


「ん? どうしたの? 愛実?」


「お父さんはどうして帰ってこないの? おかしいよこんなの。だってこの子は生きているのに」


 なんで? ねぇ? お母さん。


 女の子が声を上げて泣き始めると同時に、場の空気が凍りついた。


「愛実。お父さんはね。えっと、お父さんは……」


 愛実の母親は、そこで言葉を止めてしまった。眉尻を下げながら、娘と俺たちを交互に見やっている。娘にこの現状を説明する方法が思いつかないのか、泣きじゃくる娘の頭をなでることしかできていない。


「本当に申しわけありません」


 俺の両親がまた頭を下げた。


 それは純粋に謝罪をしたいと思っての行動か、それとも目の前の悲痛な光景から目を背けたかったゆえの行動か。


「なんでお父さん死んじゃったのぉ」


 女の子の涙でかすれた声と、俺の両親が言った『申しわけありません』という声が絡み合って、鎖になって、俺の体をがちゃがちゃと締めつけ始める。


 俺のせいでこの女の子の父親が死に、悲しんでいる。


 俺がしなければいけないことはなんだろう。


 少し考えて、俺は一歩前に出た。


「心配しないで。愛実ちゃん」


 その場に居合わせた大人たちの視線が俺に集まる。


 愛実の涙で濡れた瞳も俺に向けられる。


「愛実ちゃんのお父さんの分まで、僕が愛実ちゃんを守るから」


 俺は愛実の目を見て、俺の決意をしっかりと伝えた。


 また、場の空気が固くなる。


 愛実は口を少しだけ開けたけれど、返事はしてくれなかった。


 頬をぱあっと赤らめて、また思い出したように泣き始めた。


「え? どうして泣くの?」


 どうしていいかわからずに、次の言葉を必死で探していると、


「偉いぞ智仁。よく言った。それでこそ男だ」


 父親に頭をくしゃくしゃとなでられた。


「そうね。あなたを救ったヒーローの分までしっかり生きないとね」


 お母さんはぎゅーっと抱きしめてくれた。


 体がほわほわと熱くなっていく。


 両親のおかげで、俺は俺の行動が正解だったのだと、ようやく確信することができた。


「うん! 僕、絶対に愛実ちゃんを幸せにする」


「ありがとう。智仁くん」


 口に手を添えてそう言った愛実の母親の目から、涙がこぼれ落ちていく。



  *****



 愛実の父親は、テレビで取り上げられたこともある有名な脳外科医だった。


 そんな天才が犠牲になって俺を助けてくれたのだから、少なくとも愛実の父親と同等以上にならなければ、救われた意味がない。


 その使命感だけで、俺は両親のスパルタ教育に耐えていた。


 もちろん、あの日から愛実とのかかわりも増えていった。


 なんと、愛実とは小学校が一緒だったのだ!


 これまで別のクラスだったので接点がなかっただけらしい。


 俺たちは学校の休み時間に、図書室で一緒に勉強するようになった。


「私もお父さんみたいなお医者さんになるんだ。一緒に頑張ろうね」


 彼女の笑顔に、俺はいつも励まされていた。


 中学に進学した俺たちは、男女にはそういう関係性もあるんだと認識したその日から、それが当然であるかのようにつき合うことになった。


 告白して確認し合うことはなかったが、愛実だって俺のことを彼氏だと思っていたはずだ。


「智仁。今日さ、一緒に勉強しない?」


「いいよ。俺もそうしたいと思ってたんだ」


 ただ、俺たちは普通の初々しいカップルと違って、やることと言えば一緒に勉強するだけ。


 二人とも医者という明確な目標があったから、それを叶えるためにひたすら努力を重ねていた。


 才能というものが、俺たちの関係を蝕み始めるまでは。


 小学生の時は、どちらが上の順位かで毎回勝負していたのに、中学生になってから俺はテストの順位で愛実に勝てなくなった。


 勉強だけは、才能なんて関係ない。


 やればやった分だけ上がる。


 両親が言っていた言葉を信じて努力してきたのに、愛実との差は開いていくばかりだった。愛実は志望していた超名門高校に進学できたのに対し、俺はあっさりと落ちてしまった。


「なにやってるの智仁! いったいどれだけあなたにつぎ込んできたか! どうして結果を出せないの!」


 合格発表の日の夜。


 俺はリビングで母さんに罵られ続けていた。


「結果を出せないならあなたは生きていないのと同じなの! ねぇ? わかる? 黙ってないでなにか言いなさい!」


「ごめん、なさい」


 そのどれもが正論だから、謝ることしかできない。


 俺は愛実の父親よりもすごくならないといけないのに、それができなかった。


 せっかく救われたのに、犠牲の上で生きているのに、その他大勢になってしまった。


「あなたはどうしてこんなにできないの! なんでこんなにバカなの! 母さん恥ずかしいわ!」


「もういいじゃないか母さん。それくらいにしたら」


 ソファに座って新聞を読んでいた父さんが口を挟んできた。


 母さんの眉間に、さらにしわが寄る。


「それくらいってなに? この子はこんなんじゃダメなの! 顔向けできないでしょ!」


「そうかもしれないが、そんなに責めることはないだろうと言っているんだ」


 新聞を横に置いて、父さんが立ち上がる。


「あなたは口出ししないで働いていればいいの! この子が医者になるために必要なお金を稼げばそれでいいの!」


「俺はロボットじゃないんだぞ!」


 父さんが母さんの肩を突き飛ばす。


 そこからの喧嘩で飛び交った罵詈雑言を、俺は思い出したくない。


 ねぇ、父さん。


 違うよ。


 そこはさ、『俺も』ロボットじゃないって、言ってほしかったんだ。


 俺たち家族は、父さんも母さんも俺も、普通過ぎたのだ。


 その後、俺が滑り止めの高校に入ってすぐに、母さんは他の男と浮気して家を出て行った。


 父さんは単身赴任で福岡へ行ってしまった。


 俺たち家族は、天才の命の重責に押し潰されたのだ。

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