元カノが今更、しかも子連れで俺の元にやってきたんだが、まさか俺の子供なわけないよね? でもお父さんって呼ばれてるんですけど!

田中ケケ

第一章 とくとーせき

第1話 元カノが子連れでやってきた!?

 ドアアイに目をくっつけて息を殺しながら外をのぞく。無意識に頬をつねっていたのは、これが嘘だと信じたかったからだ。


「……なん、で」


 セーラー服をぴっちりと体に貼りつけた元カノ、山吹愛実やまぶきつぐみが玄関の外に立っている。


 彼女の後ろでは、今もなお太い雨粒が、墨汁で塗りつぶしたような空から次々に落ちてきていた。


「俺んとこに」


 愛実の黒髪ショートボブは濡れてしんなりとしている。大きな目にちょっとだけ丸っこ鼻、小さな口等、顔のつくりは半年前となにも変わらない。彼女は『可愛い』と漢字で表すより、『かわいい』と平仮名で表す方が適しているような素朴な女の子だが、濡れているせいで今はやけに色っぽく見える。


「今更、意味わからん」


 でも、どうして愛実は引きこもりになってしまった俺なんかのもとにやってきたのだろう。しかもこの雨の中を傘もささずに。


「……ふざけろ」


 愛美がスカートの裾をたくしあげてぎゅっと絞ると、ぼたぼたと水が滴った。


 露わになった肌色の太ももは、俺の男の部分を的確に刺激してくる。


 いや、今はそんなことどうでもいい。


 だって。


「子供が……」


 愛美は、愛実と同じ髪型をした、五歳くらいの女の子を隣に連れていた。


  *****


 俺が山吹愛美と初めて会ったのは六歳の時。


 父親を失ったことで泣きじゃくる愛実に、


「愛実ちゃんのお父さんの分まで、僕が愛実ちゃんを守るよ」


 と宣言してから、多くの時間をともに過ごした。愛実の父親のようにたくさんの人を救う医者になろうと語り合い、一緒に勉強してきた。


 そして、高校の合格発表の日。


 俺と愛実は手をつないで高校の前まで行き、人混みの後ろで背伸びをしながら受験番号を探した。


「あった! 写真撮らなきゃ!」


 先に自分の番号を見つけた愛美が、俺の手を離して人混みの中に消えていく。


「265、266、268……。26、8…………」


 俺の番号はなかった。


 喜ぶ愛実が受験番号を撮影しようとスマホを掲げた姿を、途端に見ていられなくなった。


「265、266、268」


 何度確認したって同じだ。


 番号順に並んでいるとわかっていたけど、一応最後の番号、346まで見た。


「……落ちた、か」


 心の準備はしていた。だからショックじゃないと自分に言い聞かせつつ、まだ彼女のぬくもりが残っている右手を握りしめて胸に押し当てる。


「俺だけ、か」


 押し当てた部分から体が冷たくなっていく。


 今にも泣き叫んでしまいそうで、俺は愛実になにも言わずにその場を立ち去った。


 あの日以来、俺は愛実とまともに会話をしていない。


 会ってもいない。


 あの日離れてしまった互いの手が、またつながることはなかった。


 まあ、要するに俺の劣等感が別れた原因だ。


 ――話を戻そう。


 あれから半年。九月も中旬に差し掛かり、暑さも徐々に和らいできた。別々の高校に入学してからずっと音沙汰なしだったのに、いきなりどうして愛実が、しかも子連れでやってくるのか。


「あいつの子供……なわけないよな」


 年齢的に考えてあり得ない。


 ということは、親戚の子か?


 でもそんな子を、こんな大雨の日に傘もささないで連れまわすだろうか? たしかにこの雨は三十分ほど前に急に降り出したが、雨宿りする場所なんて他にいっぱいあるはずだ。どうして愛実は、わざわざ半年も話していない元カレの家を雨宿りの場所に選んだのだろう。


 うん。


 これは、かかわらない方がいいな。


 無視しよう。


 愛実とかかわってしまったばかりに、俺は嫌なことばかり経験してきた。


 もう、そんなのはごめんだ。


「今更、遅いんだよ」


 そう吐き捨てるようにつぶやいて、ドアアイから目を離そうとした瞬間だった。


「へっくち」


 愛実が連れていた子供がくしゃみをした。続けて体をぶるぶる震わせる。髪についていた水滴があたりに飛び散った。


「おい、大丈夫か?」


 あれ……?


 なんで俺ドア開けてんの?


 さっき無視しようって自分で決めたよね?


 握っていたドアノブの冷たさが、俺の体内に宿った謎の熱を冷ましてくれる。なんだこりゃ。夢遊病患者か多重人格者かよ。その子がくしゃみをした瞬間猛烈な庇護欲に襲われて、ドアを開けずにはいられなくなったのだ。


智仁ともひと……ひさ、しぶりだね」


 困ったように眉尻を下げる愛実が、俺を遠慮がちに見た。


「あ、ああ。久しぶり」


 とりあえず言葉を返す。


 恋人だったころは永遠に喋り続けられるんじゃないかってくらいスムーズに会話できていたのに、今は初対面の人と話している時よりもぎこちなくなってしまう。


「あのね、実は私たち」


「へっくち」


 愛実の言葉を遮るようにしてまた女の子がくしゃみをした。


「おかーさん。ゆちあ、寒い」


 愛実を見上げたその子の鼻から、鼻水がつーと垂れていく。


「ちょっと智仁ごめん。この子、風邪ひきそうだから」


 愛実の顔は真剣そのものだ。俺を押しのけて家の中に入り、濡れているローファーをかこ、ぱこ、と脱ぎ捨てる。すぐにしゃがんで女の子のはいているキャラクターものの靴のマジックテープをバリバリと剥がす。


「シャワー借りるね」


 愛実は子供の手を引いてずかずかと廊下を進み、脱衣所の中に消えていく。


 俺は廊下に残った四つの水の足跡を眺めつつ、こぶしをぐっと握り締めた。


「いや、おかーさんって……なんだよ」


 震えている言葉たちが、誰にも届くことなく空気に溶けていく。かこ、ぱこ。バリバリ。かこ、ぱこ。バリバリ。その音とともに、灰色のなにかが胸の中をぐるぐると渦巻き始める。


「おかーさんってなんだよ」


 さっきと同じ言葉を、もう一度だけつぶやいた。

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