第32話 色に思い出

「なあ、美侑。今日は何してたんだ?」


 美侑が横たわっている病室で、丸椅子に腰かけている僕はそう問いかける。


「V、チュー、バー、見て、た」


 美侑は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


 少し前から石硬症の影響で、発音するのにも難色を示しているのだ。


「あぁ。厨川がおすすめしてたあれか」


 僕は美侑に布教のためと言って熱弁していた厨川を思い浮かべる。


 そうか……厨川か。


 同時に、募金活動の日の言い争いが脳裏をよぎる。


 あの時は頭に血がのぼって、厨川とネコにひどいことを言ってしまった。


 謝れるなら早く謝りたいが、生憎まだ会えていない。


 そう僕が自責の念に駆られていると、美侑がゆっくりと訊いてくる。


「何、か、あった、の?」


「いや、大したことは――」


 反射的に美侑の疑問を否定しようとしてしまったが、すんでのところで踏み留まる。


 賢い美侑のことだ。


 ここで僕が変に隠し事をすると、余計に彼女に負担をかけてしまう。


 ふう、と短く息を吐き、僕は再度口を開いた。


「――厨川とけんかした」


「……どう、して?」


 なんと言おうか迷った。


 美侑をめぐってけんかしたなんて言ったらそれこそ彼女の重荷になってしまうだろう。


 美侑に嘘をつきたくない僕は、逡巡した後、けんかが起きた原因ではなくどちらが悪者なのかを語った。


「……僕が、厨川にひどいことを言ったんだ」


 ため息が漏れる。


 本当はため息なんて吐いている暇があるなら、もっと楽しい話をするべきだ。


 それなのに僕ときたら気落ちした態度を何も隠せていない。


 嘘を吐くのが下手くそな己の性格を恨む。


 性懲りもなく俯いている僕に対して、美侑は真っ白い天井に視線を固定させられたまま、


「謝っ、た、の?」


「まだ。けれど明日には謝ろうと思ってる」


「そ、う。なら、よか、った」


 うっすらと声音が柔らかくなった。


「これ、から、は、……友、達、を、大、切、に、ね?」


 その言葉はまるで旅立つ人間を送り出すかのようで。いや、むしろ旅立つ人間が置いていく者にかける言葉のようで。


 美侑が慰めてくれたのに、僕は異なるベクトルから底知れぬ恐怖を感じ取ってしまった。


「これからは……って、美侑……」


 死期なんて悟ってんじゃねえよ。


 簡単に叱咤できればどれだけ楽だっただろう。


 あまりの衝撃に言葉を失っていても、美侑は続けた。


「ねえ、思い出、話、しよ、う?」


「……わかった」


 本当はものすごく嫌だった。


 なんだか鮮明な走馬灯を作る手助けをしているようで気乗りはしないが、かといってそれよりもやるべきことがあるのかと問われればノーと即断する。


 逆に、この機会を逃して鮮明な走馬灯を用意できないことに対しても、僕は慄いている。


 そんな板挟みの状態で、僕と美侑は思い出話に花を咲かせた。


 ――僕と美侑が出会った時。


 ――初めての帰り道。橙色の空。弁当の味。匂い。


 ――石硬症にぶつかった時の暗澹たる恐怖。


 ――勉強会で始めて美侑の内側に触れられた時。夏祭り。花火。


 ――高台での告白。たくさんデートしたこと。


 ――緊張しっぱなしだったクリスマスイブ。


 ――石硬症で美侑が車椅子生活になってからの苦労、努力。挫折。


 語り尽くしても語り尽くせない。


 何度でも同じ話を繰り返したい。


 そうすればきっと美侑とふたりでいられる時間が増えるんじゃないか。


 けれど、時は永遠ではないことを美侑の方から教えてきた。


「もう、いっ、かい、だ、け、シュウ、と、花火、み、た、かっ、た、なぁ」


 やはり美侑は勘がいい。この場合は運が悪い方で。


 花火、というのは思い出に存在するモノではなく、現在進行形で打ち上がっているモノ。


「今朝、病室、の、前、の、廊下、で、花火、大会、が、ある、って。病室、から、も、見え、る、って」


「美侑……」


 美侑の願いはぜひ叶えてやりたい。


 けれど、もう不可能なのだ。


 美侑はもはや首すら満足に動かすことができない。


 確かに病室の窓から花火は見える。遠い場所だが、僕の瞳にはっきりと映っている。


「もう、私、は、み、ちゃ、ダメ、だ、もん、ね?」


「そんなわけない! そんなわけない、けど……」


 まったく僕は頼りない人間だ。


 好きな人に花火ひとつ見せてやれないのか。


 渦巻く自己嫌悪。無力感。そして怨嗟。


 どうして神様は美侑から何もかもを奪おうとするのだろうか。


 それが腹立たしくて仕方がない。


 何もできない自分が腹立たしくて仕方がないのだ。


 なあ、神様。


 美侑と花火を眺める権利を僕から奪わないでくれよ。


 今だけでいい。


 今この瞬間だけでもいいからさ。


 返してくれよ、美侑と僕に。


 小さく咲いている花火を虚脱感の中見ていると、バサリ、と僕が持ってきた紙袋が倒れた。


 その中から、クリスマスの時、美侑に貰った詩集がチラッと顔を覗かせていた。


 転瞬、僕は天啓を受けたように感謝の気持ちが胸の内に溢れ出す。


「……神様」


 僕はあわてて紙袋から詩集を取り出し、あの『空白』のページを開く。


 美侑が『小説家になったらシュウの言葉で埋めてほしい』と願ったあのページを。


 小説家になっていないのにごめん。


 ただの佐伯修一の言葉でごめん。


 でも、今この瞬間の言葉をどうしても美侑に伝えるべきだと思ったんだ。


 将来なんてありもしない希望に縋るぐらいなら、確かに美侑が生きている今を大切にしたい。


 ペンを取り、僕は何度も小さな花火を確認しながら、一心不乱に書きなぐる。


 運命に抗うように。戦う意志を見せつけるように。


 真っ白だったページが僕の思いでいっぱいになってから、その詩集を美侑に見せた。


「美侑。一緒に花火を見よう」


 我ながら僕は頭がおかしい。


 こんなので花火を見せた気になっている僕はどこまでも無力だ。


 けれど、もう僕にはこれぐらいしかやれることがない。


 今できることをしないと、絶対後悔する。


 ――美侑に届け。


 そう祈った。届いてほしい僕の言葉はこうだ。




『赤、黄、緑、オレンジ。いろんな色が夜空を彩る。まるで何もかもが嫌になって真っ黒になった景色に、幸せな思い出が息を吹き返すように。あやふやでキラキラした花火は美侑みたいに綺麗だ』




 僕はちゃんと伝わっているのか不安で、怖くて、美侑の顔を見られなかった。


 僕の顔の前に詩集で壁を作った。


 美侑からも僕の表情を窺うことはできないはず。


 なのに。




「ねえ、泣き、顔、見せ、て、よ」




 美侑はそう断言してきた。


 僕はまだ顔を隠したまま、抵抗する。


「……泣いてないよ、僕は」


「う、そ」


「嘘じゃないよ」


「だっ、て、それ、に、書いて、る、よ?」


 ――僕の詩に書いている。


 美侑の言葉を聞いた僕は、つい涙を彼女の手の甲に落としてしまった。


 よかった……。


 ちゃんと美侑に伝わったんだ。


 僕が見たのと同じ花火を美侑も見ることができたんだ。


 それがものすごく嬉しくて、満たされて。


「だか、ら、ね。シュウ、の、顔、も、見た、い」


 そこまで言われてようやく僕は決心がついた。


 おそるおそる詩集を下ろす。


 ひどい顔になっているかもしれない。というか絶対になっている。


 もはや隠す気もなく鼻をすすっているのだ。


 泣いていないと言い訳する方が、無理がある。


 潤んだ視界で美侑を見ると、美侑も泣いていた。


 両目から寂しげに涙が光っていた。


「やっと、見せ、て、くれ、た」


「うう……あぁ……」


 胸が苦しくて、泣くように呻いた。


 無理だとわかっているからと、言わないように決めていた言葉が暴走する。


「美侑! 行くなよ! どこにも行くな! ずっと、僕のそばに……あぁ……」


 考えなしに、ただ動かない美侑に抱きつく。


 さながらわがままを貫こうとしか考えていない子どものよう。


 そんな僕をどこまでも優しい瞳で受け入れてくれた。


「どこ、にも、行か、ない、よ。ずっと、ずっと、ね」


 石硬症の影響で表情すら乏しいが、美侑が僕の頭を撫でてくれたように感じた。


『永遠に』なんてことは寿命のある人間には到底叶わない願いだ。


 けれど、『ずっと』と言質を取れたということは、すなわちその一瞬で彼女との永遠の時間を手に入れたと言っても過言ではないのではないか。


 だって、もし僕らが不老不死なら『ずっと』そばにいてくれることを約束してくれたのだから。


 もう彼女の一言一言が僕の涙を誘ってくる。


 いつまでも涙が止まらない僕に、美侑が言う。




「ねえ、笑っ、て。最後、に、思い出す、のは、シュウ、の、笑顔、が、いい」




 最後なんて……。


 そう頼まれた僕は、息を荒げながらも乱暴に涙を拭い、思いっきり笑った。


 すると、美侑はボソッと、


「へん、な、顔」


「ほっとけ」


 クスッと、今度は心からの笑みが零れた。


 からかいやがって、と彼女を眺めていると、何やら彼女はとある表情を浮かべようと躍起になっていた。


「美侑?」


 触れていなくても、彼女が力んでいるのがわかる。踏ん張っているのがわかる。


 動かせない顔の筋肉に鞭打っているのだ。


 そのぐらい一生懸命に彼女は目をほんのわずかだけ細め、口角をあげた。




「あ、り、が、と、う」




 ダメだ。


 泣いてはいけない。


 もう美侑に見せていいのは笑顔だけなんだ。


 それでも我慢できそうになかったから、僕は美侑を抱きしめることで、自分の顔を隠した。


 彼女の温もりを感じる。生きている。


 生きている。生きている。







 ――翌日の夜。この病室で僕の慟哭が響くことになるとは知らずに。

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