第20話 花火と名前と痛みと

「この辺にしようか」


 そう言って、僕らは殿中公園の土手の方に移動する。人が多すぎて、空いているスペースを探すのにも一苦労。屋台を回っている途中で、座って休憩もしたが、花火の打ち上げが近づくにつれどんどん仰々しくなり、レジャーシートを引けるような場所がない。


 土手の少し高いところから、立って花火を鑑賞することに決めたのだ。


 とはいえ人の頭に夜空が遮られるなんてこともなく、見上げるには絶好の位置取り。


 まだ打ち上げまで時間があるので、僕らは他愛もない会話を繰り広げ、笑みも零れていたが、ある話題を境に僕らの表情が少しだけ強張る。


「もうすぐ八月だね」


「あぁ」


 八月を迎えるということは、僕らにとっては関係終了の鐘が鳴るのと同義。当初は燈田が僕に恩を返すために弁当、併せて晩御飯のおかずを提供する契約であった。


 けれどいつの間にか燈田が僕の家で話し込むようになりそれを僕は悠々自適に楽しんでいた。


 すでに僕にとって、燈田のいない生活は遠い過去の遺物。


 両親のこともあって、恋愛を毛嫌いしていた僕をこうもあっさり変えてしまう、この全身を這い回る痛みのパワーには敵わないと知った。


 父親みたいにならないように。『誠実』に。


 そんな思いが塩となり、痛みを深めているのかもしれない。




 ――七月が終わっても、ずっと一緒にいたい。




 言葉にするのは簡単でも、口に出してしまうとちぐはぐになりそうで。


 怖い。大切な言葉を手放すのが。




「燈田、僕は……」




 喉奥で蓋がされたかのように、続きの言葉が紡げない。


 呼びかけたのだから、当然燈田はこちらを振り向く。至近距離で視線が繋がる。


 周りの音も聞こえなくなり、もはや沈黙が目に見えるほど。その沈黙がやたら心地よくて、全身の感覚が消える。


 確かに僕は想いをまだ口にしていない。


 けれど燈田も僕と同じ気持ちであることを沈黙が教えてくれる。


 十秒は見つめ合っただろうか。


 やけに視界の右上が眩しいな。そう思い、光の方へ目を向けた。




 気がついたら、もう花火が上がっていた。




 何十発、ないしは何百発と連続の、花火の隙間で夜が焼けている。


 燈田も気を取り直して、夜空を見上げる。


「わぁ! 綺麗だね」


 楽しそうに手を合わせて、声を弾ませた。


「綺麗だな……」


 弱々しくただ呟くだけの僕。心も頭も全部ぐちゃぐちゃだ。


 しばらくまた沈黙の愉悦に浸ろうとしたその時――




 ――ぴと、と燈田の小指が僕の左手の小指に触れた。




 えっ!?


 脊髄反射で僕は小指の方を見下ろす。


 すると、逃げるように燈田の指が、手が離れていく。


 僕はそれを逃がさなかった。食らいつくみたいに、燈田の手を捕まえた。


 とてもやわらかくて、小さい手だった。少しでも力むと壊れそうだから、甘噛みするように握った。


 対する燈田はちゃんと僕の顔を見てくれない。耳を真っ赤にしながら半歩分だけ身体を寄せて、今度は燈田から指を絡ませてきた。


 互いの熱がよく伝わり、燈田も僕と同じ甘美な痛みを抱えているのだと思うと、もっと痛くなった。




 あぁ、この瞬間か……。




 とある感情がついに産声を上げた。




 僕は、とっくに。




 恋に沈んでいた。




 眠りから覚めると、そこは恋の中だった。身体の外も内も痛みに満たされていた。




 綺麗な花火に目を眩ませながら、痛みを噛みしめる。


「ねえ、佐伯」


 金鈴を撫でるような声が僕の耳朶に響く。


「佐伯の下の名前って修一だよね?」


「あぁ。そうだけど」


「……じゃあ今日からシュウって呼んでもいい?」


「……おう、わ、わかった……」


 どこまでも陳腐な感想だが、世界で、いや宇宙でいちばん可愛かった。


 頭がどうにかなっている僕は右手で自身の口元を覆い隠しながら、


「じゃあ僕も今日から美侑って呼んでもいいか?」


「……ん」


 花火が終わるまで、地面に伸びている僕と美侑の影は点滅しながらもひとつに繋がっていた。


 痛みよ、消えないでくれと切に願う。


 名前に魅せられ、花火で焼け焦げた七月の空。

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