第4話 晩御飯
「佐伯、お望みのモノは全部買っておいたから。とりあえず詰められるモノは冷蔵庫に詰めておくよ?」
「どうしてこうなった……」
僕の家のキッチンにて。エコバッグの中身をすいすいと冷蔵庫に詰めていく燈田の姿を眺めながら、顎に手を当てる。
「どうしてって、帰り道で決めたでしょう? 何を今更」
「や、それはそうなんだけどな。決めたからといって、それが後に冷静になってみれば再び疑問となってわだかまることぐらいあるだろ」
「さあ? 私は一度決めたことは曲げない主義だし」
――佐伯は家で安静にしておいて。
学校からの帰り道。電車の中で燈田に言われたこと。いくら軽傷の捻挫と言えど、処置もせず歩き回るのは得策ではない。それなら買い物は燈田に任せて、僕は自宅で大人しく待っておいた方がいいというのが、彼女の見解だった。
もはやお家芸のように僕はそれを拒んだのだが、少しでも助けてもらった恩を返させてくれと懇願されたら、断れなかった。少しでも、と話したあたり、彼女は明日以降も何かしらの手段で僕に関わってくるのかもしれない。
まあ、確かに燈田からすれば九死に一生を得たようなものだ。階段から落ちてしまえば、しかもあの時、頭から落下していた。僕が助けに入っていなかったら捻挫なんて目じゃないぐらいの大怪我は免れなかっただろうし、下手すれば死んでいた可能性だってある。
そう思えば、燈田が家に上がり込んでまで恩を返そうとする気概も理解できないでもない。
燈田の心情をくみ取り、僕は彼女の提案を呑んだ。校門前でも話していたように、燈田の応急処置は完璧だった。氷で冷やして、テーピングで圧迫、固定。おかげで精神的にはずいぶんと楽になった。骨折かもしれないと嘆いていたあの時がバカらしくなるぐらいに。
「ねえ、佐伯」
燈田が冷蔵庫の前で小首を傾げていた。
「いつも料理してるって話してくれてたけど、その割には野菜が少なくない?」
「野菜、値段が高いからな。あとぶっちゃけ切るのが面倒くさい。だから燈田にもすでにカットされた野菜買っといてって頼んでおいただろ?」
カットされた野菜とはキャベツやらニンジンやらがあらかじめ切られていて、しかも洗わずにそのまま炒め物に使える優れモノだ。ハンバーグだったりカレーだったり、そういうメジャーな料理はたまに振る舞うが、毎日やってたらそれこそ時間がかかる。結局、炒めて、ちょいと味付けして完了した方が時短にもなるし、節約にもなるのだ。母親からは、安ければ何でもいいとお墨付きまでもらっている。
もちろん、代わり映えしない食卓に辟易しないかと聞かれれば、お世辞にも首肯はできない。けれど、僕には時間がないのだ。部活動を諦めたとて、ほとんどを家事に費やし、学生の本分である勉強にいくら時間を確保できるかが勝負。
予習、復習は欠かせないようにしたいが、満足に完遂できる日は少ない。タイムリーな話だがテストで赤点を取ってしまう始末。これでは料理どうこうと言っている暇はないのだ。
他人に冷蔵庫の中身を査定されるのは、居心地の良い所業ではなく、かといって今は燈田に助けてもらっている身。いちゃもんをつける権利なんか僕にはなく、ただ頬杖をついて、彼女から視線を逸らすだけ。
エコバッグから出したカット野菜を矯めつ眇めつしていた燈田が、ふと、「あっ」と声をあげた。彼女の頭上にピコンと電球が光ったみたいだった。
「じゃあちょっとアレンジしてみてもいい?」
「アレンジって。てか、なんで燈田が晩飯作るみたいな言い草、」
セリフを中断。もうどうにでもなれ。どうせ反駁しても『ルール』に言いくるめられるのがオチだ。
かくいう燈田も、僕のリアクションを待たずに、そそくさと調理準備に取り掛かっている。どうやら彼女も僕への扱いに慣れ始めたようだ。
「適当に料理してるとはいえ、エプロンぐらいはあるよね?」
「あるぞ。ちょっとタンスから取ってくる」
「いつも使ってないんだね」
はぁ、と燈田が息づく。
別にいいだろ? 健康被害とか出てないんだから。
若干やさぐれながら紺色のエプロンを手渡すと、燈田はやはり慣れた手つきで身に纏う。続いてヘアゴムを口で咥え、黒髪を尻尾のようにまとめる。そのままヘアゴムで髪をくくり、ポニーテールに仕上げる。チラッと顔をのぞかせたうなじが髪の黒と対比され、新雪のように白く、蠱惑的に映った。
よくよく考えてみれば、同級生の女子が自宅のキッチンで制服エプロンへと変貌しているのだ。その姿を目の当たりにしているのは僕ひとりだけであり、客観的に評価しても、これは特別で非日常的な光景である。
可愛い女の子がいて嬉しいというよりは、みすぼらしい自分と否が応でも比較してしまい、虚しさと緊張だけが同居している状態。
眼前の出来事が他人事のように思え、だんまりを決め込んでいると、燈田は無表情で、
「強火でしか炒めない人。計量カップどこ?」
「おいそれ僕のことか? 計量カップならそこの戸棚にあるが」
指摘された通り、燈田はしゃがんで、足元の戸棚から計量カップを手に取る。
「炒め物ばかり作る男って強火しか知らなさそうだもの」
「ごく稀にしか料理しない夫への愚痴みたいなこと言うな。頑張ってんだよ、少なくとも僕は」
「ま、頑張ってるのはわかるよ。特売狙ってる男子高校生が頑張ってないわけないもの」
「なんか恥ずかしいな、そういうとこ見られたの」
「そう? 私はすごく立派なことだと思うけれど」
ごくごく普通に。あっさりと。
燈田は打算なしで励ましの言葉を紡いだのだろう。変わらず彼女は無表情だったし、おそらくただ事実を言っただけで、他意なんて一ミリも介在していない。
彼女の言葉を借りて言えば、これも『ルール』なのだろう。
高校生なのに家族の分のご飯を毎日作り、その上、特売まで利用して家計への配慮も怠っていない。必死に生きている側面に気づいたのだから、褒めるのは当然だ、という風に。
普通は気づいても、褒めるまでに葛藤やら遠慮やらが邪魔をするはずなのだが、燈田はそんな不純物を排除している。どこまでもルールというか、明確な基準を価値判断と行動の中心に置いているようだ。
芯が強く誠実な生き方に、カッコよさを感じるが、同じくらい生きづらさも抱いてしまう。なにせ、僕は『ルール』に縛られない『自由』に憧れているのだから。
そういう価値観の差異もあってか、今もキッチンで調理に勤しんでいる燈田とは、目に見えない厚底のガラスに隔てられているように思えた。
「佐伯、ピーラーどこ?」
「ない」
こいつマジか、みたいな目線を寄こした後、やむを得ず包丁でジャガイモの皮を剥いていた。見たところ、滞りなく皮を剥けている。
誰かがキッチンで料理をしている場面を傍から見るのはいつぶりだろうか。誰かの料理を待ちわびるのはいつぶりだろうか。
僕以外からすればどうでもいいような思索に耽っていると、なんだか、燈田がエプロン姿で自宅に居座っていても、悪い気がしなくなっていた。
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