34 「伯爵、僕らもう帰って良いですか? なんか一気に疲れたので」


「ねえねえカッレ。今ウェズリーさんの小説、もう一つ舞台にして下さいって伯爵に頼んでいたのよ? そうなったらカッレも嬉しいわよねえ?」

「ん? いやーそんなホイホイ決められる話じゃないけど、そうなったら今晩はとびっきりの赤ワインを開けるかっ! 勿論嬉しいからな!」

「きゃあっ。伯爵、改めて宜しくお願いします!」

「ほっほ、考えておかねばな」


 いつの間にか喫茶店に来てしまった。そう思ってしまうくらいには三人の間にある雰囲気は明るかった。その雰囲気の邪魔をしないように、けれど休憩室の空気を忘れないようにどこか頬を強張らせて話しかける。


「……あの、ジェシカ様とカッレ様ってお知り合いなんですか?」


 それも大分親密な、という言葉は飲みこむ。返事を聞きたいような聞きたくないような変な気分だった。ちらっと主人を見るとガムを飲み込んでしまった時の人のように嫌そうな顔をしていた。


「ああ。改めて自己紹介しますね。私、この髭面編集者の妻です。言いませんでしたっけ?」


 ジェシカは良く晴れた冬の日の空気のようにカラッと、何てことなさそうに言ってくる。「言ってません!」と突っ込みを入れる気分にもなれなくて、にっこりと笑っているジェシカとどこか楽しそうに笑っているカッレの顔をただ交互に眺めていた。


「……知ってました?」


 目の前の光景を呆然と視界に映しながら、隣の青年に小声で質問をする。


「…………いや。男と住んでるんだろうな、とは家見て思ったけど……まさかさあ」


 ウェズリーは先程の表情を浮かべたまま呟きどこか呆れたように息をついた

 だからジェシカはウェズリーの経歴を良く知っていたのか。人に聞いた、と言っていたがあれはカッレだったのだ。そう言えば自分も脱衣場に入った時違和感を覚えた。どこかに男性物の小物でもあったのだろう。


「ウェズに一泡吹かせたいしリタちゃんとジェシカが仲良いみたいだから、いつかホームパーティーで言おうと思ってたんだよ。や~悪いな? まーそういう事なんで、夫婦共々今後も宜しくしてな?」

「しない」


 朗らかに笑って言うカッレに、主人は聞く耳を持つまいとばかりに即座に返していた。その表情はカッレと違い顰めっ面だった。主人の表情を見て、顎髭を生やした男性が嬉しそうに喉を鳴らして笑った。


「なーに拗ねてんだよウェズ。いやーでもそんなお前が見られるなら黙ってたかいあったなあ!」

「良かったねカッレ!」


 嬉しそうな夫を見て妻が嬉しそうに笑い、その光景を見て伯爵が日向ぼっこでもしてるかのように目を細めていた。もう二度と見られないくらい珍妙な光景だと思う。


「ああ。そうそうジェシカ、頼まれていたサイン書いて来て貰ったぞ。本当お前サイン集めたがるよな? この前もゲールさんに頼み込んで貰って来たんだぞ」

「だって~好きなんだもの。有り難う」


 二人の会話が続く休憩室、主人がハイディの方を見て唸るように低い声を上げる。


「伯爵、僕らもう帰って良いですか? なんか一気に疲れたので」


 主人の言葉にハイディは「そうだった」とでも言うようにこちらに向き直り、顎を引いて頷いた。


「ああ、すまなかったな。逃亡中のゲールが海岸通りに現れる事は無いだろうから構わんよ。本当にすまなかった、助かった。……小説の事、覚えておこう」


 返事のつもりなのだろう。ふんっ、と鼻を鳴らし、主人は何時もよりもずっと緩んだ表情をしているカッレに「じゃあね」と素っ気なく言い、休憩室から出て行く。自分も主人の後に続き部屋を出た。


「……こほんっ。出過ぎたお願いでしたか?」

「さあね。まあ嬉しいよ」


 休憩室よりも涼しく感じる通路に出て、主人と短い言葉を交わす。横目で見た主人の表情が次第に頬を綻ばせていくのを見て、リタは今の自分の表情もカッレと同じくらい緩んでいるように感じた。




 ゲールが捕まった、と言う報せを聞いたのは焼却炉を出た一週間後だった。今日はデヴィッドが殺されてから丁度一ヶ月となる。

 リタは真面目そうな警察官から受け取った電話を受話器に戻し、一度ふうと息をついてから正面を向き――タイプライターではなく、珍しくこちらを見ているウェズリーの青い瞳と目が合った。昼の光が差し込む居間、何の電話だったのかと視線で問うウェズリーに一度微笑みかけ口を開いた。


「ゲール様、捕まったそうですよ。逃亡先の国境付近にある農村で出国手続きを進めていたところを、怪しんだ村人に通報されたそうです。あの従僕も一緒だったそうです」


 ゲール、と言う単語を耳にした主人は、面白くなさそうに鼻を鳴らした後、視線をタイプライターへと戻した。


「そう。まっ、確かにゲールは農村では目立つだろうからね。怪しむ人が居ても仕方無い。ゲールは最後の最後で博打に負けたんだねえ」


 そうとだけ言うと、直ぐにタイプライターのキーを叩く音が聞こえてきた。ウェズリーがタイプライターを使用しているのを見るのは二回目だ。初めてこの家に上がった日と、今日。

 その事に時間の経過を感じる。先程の電話もあり、デヴィッドの事件が片付いたのだと感じ、リタは定位置と化した椅子に戻らずその場で深く息を吸った。焼却炉の中で主人は、「爺さんの墓石に良い報告が出来る」と言った。自分からこんな事を言うのだから、主人はデヴィッドの墓参りに行く気があるのだろう。

 自分もデヴィッドの墓石の前に立ちたい。主人がタイプライターの紙を差し替えるタイミングを見て、顔を覗き込むように身を屈めて尋ねる。


「あの、ウェズリー様。お仕事中に申し訳ありません。デヴィッド様の霊園、今から行きませんか?」


 主人は直ぐにこちらに気付いたようでピタリと手を止める。青い瞳が「言うと思った」とばかりに向けられた。口端もどことなく持ち上がっている。


「……君が行きたいなら、着いてってあげてもいいけど」


 相変わらず素直じゃない物言いをする人だ。頷いてくれた事にホッとして目を細める。


「ふふっ、有り難うございます。では行きましょう?」


 緩慢ながらも確かに主人が頷いたのを見た後、リタはユントン霊園に向かう準備を始めた。窓の外、チュンチュンと小鳥が囀る音が耳に心地良く響いた。




 前回と同じく、昼のユントン霊園に人気は無い。秋の木洩れ日が静かに墓石に降り注いでいる。ウェズリーといつものように喋る事なく歩いてここまでやって来た。主人の手には途中の花屋で購入した白い花束が握られている。


「っと……」


 主人はデヴィッドが眠っている区画まで進み、墓石の前まで行って身を屈めた。墓石の上に置かれた花束がそよ風に小さな花弁を揺らしている。それから主人は少しの身動ぎもしなくなったので、後ろに控えている自分も目を伏せ、一ヶ月前から今まで何があったかを心の中で報告する。


 ウェズリーの元で働き直せた事。足を挫いた事。阿片を見た時はパニックになった事。焼却炉に落ちた事。ゲールが捕まった事。ウェズリーは面倒臭いがいい人だと言う事。それらを静かになぞっていく。

 そよ風が頬を撫でた事を機にリタは顔を上げる。シルクハットから金髪を覗かせている青年はまだ前を向いていた。その背中を見ながら「言わなければ」と、ずっと感じていた違和感を言葉にまとめる。

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