32 「そう言えばさー」

 いざ口に出して怖いと言うと、背筋に寒い物が走った。時間になれば奥に向かって床が動くのが焼却炉だ。


「そうだね、もうゲール達は上に居ないだろうし。…………僕さ、本当はこんな事したくないんだよ? 背に腹は代えられないだけ。分かってくれるかな?」

「物によりますが、はい」


 ここまで念押ししてくる主人は珍しい。身構えるように顎を引いて頷いた。


「……君さ、自分がどこ出身か覚えてる?」

「忘れられるわけがありません。ムソヒです」

「……ムソヒ、と言えば?」


 やけに回りくどく聞いて来るな、と思った。この人がこんなに回りくどく聞いてくるなんて、よっぽど嫌な事に違いない。ムソヒにそんなに主人が嫌がる物があるか――と思いを巡らせ、己のポケットに入っている物の存在を思い出した。あっと声を上げる。


「ヴェルニコですか! ジェシカ様から頂いたっ!」


 煤よりもずっと臭いあれをここで開けたら、確実に悪臭がダストシュートで繋がっている劇場に漏れる。王立劇場で異臭騒ぎが起きたら、その日は焼却炉を停止して原因究明に乗り出すに違いない。その時に自分達も助かるだろう。主人と不安の間で板挟みになっていた気持ちが一気に晴れていく。言われてみればとても簡単な策だ。どうして思いつかなかったのだろう。


「そ、本当に嫌なんだけどさ。君なら大丈夫だっただろうし、出来れば池に落ちたかったよ。さっきちゃんと君のスカートに缶詰が入っている事を確認した。落下してる時に落ちてなくて良かった……」

「あ、あれわざとだったんですか? それと申し訳ありません……」

「良いよ、突然だったしね」


 立ち上がる際一番に主人にスカートをまさぐられた事も思い出し、何とも言えない気分になった。複雑な気持ちを押し殺すように黙り、スカートのポケットに手を入れる。冷たい缶詰を取り出し床の上に置き直した。


「缶詰は蓋を削れば缶切りを使わないでも開けられるから、床に擦り続ければ開く。嫌だけど、本当に嫌だけど、ちょっと貸して」


 缶を取った主人は少し決意を固めるような間を置いた後、ガガガッと床に物を擦り付けるような音を響かせた。暫くして缶に穴が開いたらしく、ぷしゅっ! という気の抜けた音と同時に液体が周囲に飛び散った気配がした。このガスが抜ける音が開幕の報せである事を自分は良く知っている。


「くっさ!」


 すぐにウェズリーが悲鳴に似た叫び声を上げながら、缶詰を擦り続けていた。パタン、蓋が床に落ちた音がするなり、主人は缶詰をその場にすぐに置き少し離れた場所に退避したようだった。 


「本当、臭いですね! ですがヴェルニコは本来ここまで臭くありませんでした! 缶詰が誕生しヴェルニコは缶で保存されるようになって、缶の中で一層発酵が進むようになりガスが溜まりに溜まってこんな臭いになったんです! 実際悪いのは缶詰です、ええ! ちゃんとした手順で作られた本場のヴェルニコはもう少しマトモなんです!」


 自分も臭さを誤魔化すように――少しでも劇場に居る人達に気付いて貰えるように、意味が無いかもしれないが怒鳴る程に大きな声を出して返事をする。


「……なんでこういう時って女性のが強いんだろうねえ……」


 死ぬ間際に病人が笑ったみたいな声がし、以降ウェズリーはぷっつりと喋らなくなった。少し心配になったがヴェルニコの臭いで死んだ人間を知らないので放っておく。きっと喋るよりもシャツに顔を押し付ける事の方が忙しいのだ。


「お願い、気付いて……っ!」


 自分も臭かったが故郷で多少は慣れている臭いであるので、我慢して焼却炉の中を見続ける。少しすると、劇場の人達がダストシュート先からの異臭に気付いたようだった。何事だとばかりに微かな光があちこちから差し込んで来る。その事に気が付いた時、パッと表情が明るくなったのが自分でも分かった。


「助けてーーーっ!」


 あらん限りに声を絞って叫んだ。が、あちこちでダストシュートが開く気配がするのに一向に人が焼却炉に降りてくる気配は無かった。ウェズリーと話していた正確な時間は分からないが、もういつ焼却炉が燃え出してもおかしくない。そうなると奥にあるボイラーのスイッチが入り、床が動き出す。


「ひゃっ!」


 ガゴッ! と聞き慣れぬ音が焼却炉内に大きく響いたのは、その時だった。大気すらも震えるような大きな音に、緊張が一気に高まった。目を開けているのもおっかなくて、ギュっとキツく目を瞑った。


「そう言えばさー」


 ふと、ウェズリーのやる気のない声が聞こえてきた。


「墓参りの帰り、伯爵が僕等をサポートしてくれる、って言ってたの覚えてる? だから僕、ホールを出る前に伯爵に耳打ちしたんだ。この後何かあったら何としても助けて下さい、って」


 それはとても心強い言葉だ。しかし先程の音が耳にこびり付いて、返事をする気になれない。床が動き出せば、ボイラーが燃えれば、どこに居ようと関係無い。

 祈るしか出来なかった、その時。


「もしかしてリタさんが居るの!?」


 闇を切り裂くような一条の光と共に、ジェシカの切羽詰まった声が焼却炉の中に響き渡った。顔を上げ声がした反対側の通路を見ると、あまりの眩しさに目を細める。逆光になって顔は見えないが、そこには癖の強い髪をしたパンツスタイルの女性と、数人の男性が立っていた。


「……良かった」


 眩しくて目を開けられない中、ぽつ、と呟きが零れる。助かった。気付いて貰えた。そう思った瞬間、自分の頬を涙が伝うのが分かった。




 ジェシカと劇場スタッフらしき人が数人駆け付けて来る前、焼却炉の中に響いた大きな音は、ハイディの権限で急遽ボイラーの電源を落とした際の音だったようだ。救援の際ジェシカにそう言われた。


「ゲネプロの最中に異臭騒ぎになって、この臭いはヴェルニコじゃないかってすぐに結論が出たんだけど、あんな臭い物放置出来るわけ無いじゃないっ! それにこの劇場でヴェルニコを持ってるような人、姿の見当たらないリタさんしかまず居ないもの! ところでスタッフルームに行く前に二人ともシャワーを浴びて着替えてきてくれる!? 臭いっ!」


 困惑と安堵の表情を浮かべるジェシカは、そうも言ってくれた。劇場スタッフが持ってきてくれた水を張った鍋にヴェルニコを落とした後、リタとウェズリーは従業員用の休憩室近くのシャワー室でシャワーを浴び着替えた。劇場だけあってシャワー室は当然のようにあるし、替えのスーツとメイド服は直ぐに用意された。シャワーを浴びる前主人は臭気を堪えている医者に頭を診られていたが、本人が言うように問題はないようだった。


 ハイディの部下であるらしい集団がゲールの捜索に当たり、無人になった焼却炉は十五分遅れで改めて燃やされる事になった。ヴェルニコの臭いもこれで大分解消される。着替え終わったリタは、テキパキと周囲に指示を飛ばすジェシカの背中を見つめていた。

 シャワー室から出てきた自分がじーっと見ていた事に、ジェシカは気が付いたようだった。ジェシカは泣き止んだばかりの子供のように眉を下げて笑う。


「ごめんね、実は私、ゲール・アップルソン氏がリタさんに危害を加えるかもしれない、って事に気付いてたの」

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