第11章 ハッピーエンドはお好きですか?

第51話

 虎月堂の社長室で、雅世は書類に目を通していた。

 人を近くに置くことも億劫で、ここ最近は静かにこの部屋で過ごしていることが多い。

 斜陽しゃように照らされた室内は、暖房を入れているとはいえ、徐々に冷え込みを感じる。痛む腰を押さえながら、雅世は席を立った。近くのソファにかけられていたストールを手に取り、ゆっくりとした動作で羽織る。

 すると、棚の上に置かれた一つの伏せられた写真立てが視界に入り、目をすがめた。

 雅世は棚に近寄ると、写真立てをそっと手に取った。


(二十年前……か)


 写真立ての中には、満面の笑顔を浮かべた八歳の頃の葛葉の写真がおさめられていた。

 雅世は写真立てを戻し、代わりに隣に置かれていたアルバムを取ると、ソファに腰かけた。

 随分と室内が薄暗くなってきた。サイドテーブルに置かれた間接照明をつけ、ゆっくりとアルバムを開いた。

 一番初めのページには、まだ赤ん坊の葛葉を抱いた雅世の写真があった。

 生まれてすぐに母は亡くなり、葛葉が母と共に写っている写真はない。父は葛葉がお腹にいる頃から、義務は果たしたとばかりに、実家に寄り付いたことすらない。おかげで、写真など存在すらしない。

 だから、葛葉は自分が育てるのだ。父親の二の舞にはすまいと、必死の思いでやってきた。

 けれども、結果的に、葛葉は父と同様、雅世の元を去った。


(思えば、あの時からやったか……)


 ゆっくりとアルバムのページをめくる。

 十八年前、蔵王と藍乃がいなくなった日を境に、葛葉の目から光が消えた。写真の中の表情もどこか茫洋ぼうようとして、活気というものが失せてしまっている。

 そのことに、雅世も気付いていた。それでも、虎月家の娘として、あるべき形を葛葉に求めた。

 葛葉なりに、その現実を必死に受け入れようとしていたのはわかった。それでも、心が受け付けていないことも知っていた。

 幼い身で様々なことに耐えねばならないその姿に、何度抱きしめてやりたいと思ったか。

 だけど、一度抱きしめてしまえば、雅世自身が情に流されてしまいそうで、出来なかった。

 何より、自分が強制しておきながら、どのつらを下げて抱きしめればよいのかがわからなかった。仕事に忙殺ぼうさつされているふりをして、葛葉から目をそむけた。

 気が付けば溝は深くなり、いつしか葛葉は雅世の目の前からいなくなってしまっていた。

 葛葉の写真は、十年前からもうない。

 最後に真正面から見た葛葉の姿は、ぎらぎらとした目で雅世を睨みつけて飛び出していった、あの時の記憶で終わっている。

 代わりに残っているのは、大量の雑誌の切り抜きと、葛葉が最後に言い捨てた言葉だけだ。


(うちも大概、未練がましいな)


 ぱたりとアルバムを閉じ、棚に戻した。もそりとストールを肩にかけなおし、疲れた目を揉みしだく。執務机に移り、書類に再び目を落とそうとしたところで、ふと戸口に気配を感じ、そちらを見た。


「誰が入ってええ言うた」

「随分と嫌われてしまいましたね」


 戸口に立つ長身の男性が、飄々ひょうひょうと言った。幼い頃から少しばかり優秀だと目をかけて、最近まで傍に置いていた蔵王だ。

 雅世は蔵王を鼻白むようにねめつけた。


「当たり前や。あんたのこと信用して送り出したのに、何の成果も出さんと。それどころか手ぇ噛まれるとは思わんかったわ」

「そうですか? 本当に信用していたなら、見張りなんてつけなかったでしょうに」


 たっぷりの嫌味を押し付けても、いつも倍返しで返ってくる。

 本当に嫌な男に育ったものだと思いながらも、返す言葉がなかった。

 何しろ、蔵王に真実を告げずに送り出したのは自分なのだ。自分がそうした理由も薄々わかっていて、ばれた結果がこのざまだ。

 長年女手ひとつで虎月堂を取り仕切ってきた自分が、今、こんな若造に問い詰められる羽目になっている。

 苦々しい思いでそっぽを向いた。


「何だかんだ言いながら、あなたはどこかで、結局はこういうことになるのではないかと想定していたのではないですか?」

「……政略結婚が時代錯誤やなんてことぐらいわかってる。せやけど、他に手がなかったんや」

「本当ですか? もしそうなら、随分と耄碌もうろくされましたね」


 笑われたような気がして、雅世は思わず振り返った。


「やかましい! 年寄り扱いするんちゃうわ」

「いえいえ。そんなつもりはありませんよ。ただ、ちょっと心配になりまして。ああ、そうそう、二条若狭屋にじょうわかさやでお土産を買って来たんですけど」


 蔵王が手にしていた紙袋を差し出すと、雅世は目を細めた。


「『不老泉ふろうせん』? なんやの。これも嫌味のつもりか?」

「とんでもない。可愛くて美味しい葛湯くずゆです。寒くなってきましたから、温まって、身も心も若くい続けて欲しいという、部下からの気持ちですよ」


 にこりと笑いながら棚の上に紙袋を置く蔵王に、雅世は顔をしかめた。。


「とにかく、あんたにあれやこれや言われんでも、ちゃんと次の手は打ってある」


 ふんと鼻息を荒くすると、蔵王は目を細めた。


「次の手……ね。龍木との合併計画のことですか?」


 雅世は目を見開いて蔵王を見た。

 すると、蔵王は肩をすくめた。


「なんであんたがそれを? って、顔に書いてありますよ。情報というのは煙の如く、まことしやかに流れ出るものです。知られたのが僕でよかったですね」


 にこりと微笑む蔵王を睨みつける。


「一社員がえらそうな口聞くやないの」

「またまた。減らず口を叩いてほしくて、僕を傍に置いてらっしゃったくせに」

「……ほんまに小さい頃からむかつくクソガキやな」


 悪びれもなく笑顔を振りまく蔵王を思わず小突きたくなる。

 けれども、それは紛れもない真実だったので、その拳を下ろさざるを得なかった。


(うちにずけずけ物を言う人間なんて、もう自分の周りにはおらへんようになってしもた)


 だから、蔵王を手元に置いている。この男はそれすらも分かったうえで、傍にいる。

 まるで失ったものの穴埋めをするかのように、するりと滑り込んできた。


「ほんまに、抜け目のない奴やわ」


 ぐぬぬと歯噛みしていると、蔵王はくすりと笑った。


「お褒めに預かり光栄です。でも、それと同時に、今回僕を傍から遠ざけた理由も、同じなんじゃないですか? あなたの近くで苦言を呈することができる人間は限られている。つまり、あなたは僕から苦言を呈されるとわかっていたからこそ距離を置いた」

「調子に乗らんときや」


 雅世はぴしゃりと言葉を切った。

 すると、蔵王はすっと目を細めて雅世を見つめてきた。


「来ましたよ。龍木から僕のところに、引き抜きの誘いがね」


 その言葉に、雅世は思わず目を見開いた。


「なんやて? まだ、契約はかわしてへんで!」


 反射的に立ち上がった雅世を、蔵王はじっと見た。そして、ふっと顔をほころばせた。


「なるほど。ならば安心しました。さっきのは嘘です。まだ引き抜きの話なんてきてませんよ」

「なっ……嘘!?」


 雅世は唖然として口を大きく開けた。


「あんた、うち相手にふざけた真似を……」


 口をパクパクとさせていると、蔵王はぺこりと頭を下げた。


「それはすみません。でも、あながち嘘とも言えませんから。事実、引き抜き計画はすぐそこに落ちています。それを知りながらこの話に乗ったとすれば、雅世様の目も曇ってしまわれたと思わざるを得ないのですが……正気ですか?」


 一切の笑みを消した蔵王を前に、雅世は苦虫を噛み潰したような顔をして、すとんと椅子に腰かけた。

 なにからどう話していいかもわからず、深くて重いため息を落とす。

 この調子では、計画はすべて蔵王に知れ渡っているのだろう。

 雅世は瞑目めいもくし、ゆっくりと口を開いた。


「悪手や言うことぐらいわかってる。合併計画に裏があるゆうことも、事前に調べてる。せやけど、万が一そうなったとしても、何の手も打たんままに虎月堂が潰れて、職員全員が路頭に迷うよりはましや」

「リスクを承知で受けるつもりだったと?」


 雅世は答えなかった。

 無言を肯定ととらえたのだろう。蔵王もまた小さくため息をついた。


「随分と弱気になられましたね」


 憐れまれるような視線を受け止めたくなくて、目をそむけた。


「否が応でも年は取る。葛葉は出て行ったし、跡継ぎ予定やった正樹も、他の方向を向いとる。虎月堂の幕引きとして、せめてうちが職員にしてやれること言うたらこれぐらいや」


 蔵王は何も言わなかった。

 それでも、その場を去ることはなく、背後に視線を感じる。

 しばらくそのまま、沈黙が流れる。

 けれども、やがて耐えかねて、くるりと後ろを向いて机を叩いた。


「なんや? 言いたいことがあるんやったら言い!」


 ぎろりと蔵王を睨みつける。

 けれども、蔵王はぴくりとも動かず、静かに雅世の視線を受け止めていた。


「本当は、ずっと前からわかってらっしゃったんじゃないかと思っていたんですが……僕の勘違いだったのかと思いまして」

「なんのことや?」


 雅世は目をすがめた。


「最善の手はすぐそこにある。でも、その手を取ることは、過去の自分の悪手を認めることになる。だから、その手を取ることも出来ず、手をこまねいていらっしゃるのだと思っていたのですが」

「相変わらず、奥歯に物が挟まったような言い方する奴やな。はっきり言い」

「では、遠慮なく。ただ、僕ではなく、その方からおっしゃっていただこうと思います」


 蔵王が背後の扉を開くと、そこには一人の女性が立っていた。


「……葛葉」


 雅世は目を見張ったまま、そこに立つ孫娘――葛葉を凝視した。

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