第37話

「なんだかんだで、自分の中に、実家に対して申し訳ないっていう気持ちがあって。だから、浮ついた感情みたいなものは、無意識のうちに頭のどこかに封印しちゃってたんだと思う」


 ぽつりと呟くと、杏那はちびちびと杯を傾けながら、視線だけを葛葉によこしてきた。


「古い時代には、それなりの家に生まれた者には、相応の役割が求められてきた。それが、それなりの生活をしてきたことの代償だった。でも、もう今の時代となっては、人生の選択を自由に選ぶことは、決しておかしいものではないと思うがな。むしろ、人として当然の権利だろう」

「それはもちろん、そうなんだけど……」


 葛葉がぴたりと箸を止めると、杏那は首を傾げた。


「なんだ。まだ何かあるのか?」

「んー。なんて言うか、これでいいのかな? っていう気持ちが、頭のどこかにずっと燻ってるのよね」

「というと?」

「多くの従業員に支えられて生きて来たからこそ、今の私が在る。だから、私の体は私だけのものじゃない……ということを、私の心が否定し切れていないのよね。小さい頃からそういう教育を受けてきたからっていうのもあるかもだけど、従業員の人達に本当に良くしてもらえていたことは確かだから」


 雅世が葛葉を結婚させたい理由。それが、杏那の言うところの、『葛葉に求められている役割』だった。自分にはそれを果たす義務があるはずだった。それでも、葛葉は蔵王と生きる道を選んだ。それを後悔したり、覆すつもりはない。

 けれど、その負い目が、葛葉の中に重い影を落としていた。。

 虎月堂が経営不振になっているということは事実だ。先祖代々続いた歴史ある茶舗も、時代の移り変わりによって消えてしまうのだろうか。京都銘菓として名を馳せてきた抹茶菓子も、いつかは人々から忘れ去られていくのだろうか。

 それが、葛葉の結婚が実現できなかったことで、現実味を帯びてしまうのではないか。

 そんなことが頭をよぎり、暗澹たる気持ちになってくる。


「……もう、虎月と縁を切った私には、関係のないことのはずなんだけどね」


 そう。関係のないことだ。

 なのに、どうしてこうも、やるせない虚無感が襲ってくるのだろうか。

 虎月堂も、その味も、蔵王が大切に思っているからだろうか? 

 それとも――


「まあ、そう深く考えるな。背負い込みすぎるのは葛葉の悪い癖だぞ」


 思惑するあまりど壺にはまりかけた葛葉の額を、杏那がぴしりとつついた。

 つつかれた額を撫でながら、葛葉は唇を尖らせる。


「それ、彼にも言われた。私ってそんなに背負い込んでる?」


「さすが、よくわかってる彼氏じゃないか」と杏那はからからと笑う。

 それに憮然とした顔をしていると、ふと杏那は真面目な顔になって向き直った。


「ただ、そうだな。よそ者が口をはさむのもどうかと思うが、あえて言わせてもらうなら、本当に道は一つしかないのか? というところだな」

「どういうこと?」


 すると、杏那はひょいと軽く肩をすくめた。


「いやなに。見えていなかったところに実は道があったなんてことも、往々にしてあることだとは思ってな」

「見えていなかったところに? ……まあ、確かに、そういうこともある時はある、けど」


 実際、先日も一人でやろうとしていたプロジェクトを、同僚たちにサポートしてもらうことで完遂できた。

 それまでは、一人でやり切ることばかりにとらわれてしまっていて、周りが見えなくなっていた。けれど本当は、抜け道――頼るべき人々がいたのだ。

 ただ、現在の虎月家のレールは、すべて雅世が敷いていると言っても過言ではない。葛葉の見合いが無くなった今、経営不振を乗り切るために、雅世は何らかの方策を立てているのだろうか。


(抜け目ないおばあさまのことだから、縁談に頼るだけじゃなくて、きっと何か他にも手は打っているはず……だとは思うんだけど)


 今となっては部外者である葛葉が、あれこれと口を出すことではないだろう。

 思わず、はあ、と大きなため息が漏れた。


「あまり視野を狭めすぎんようにな。眉間に恐ろしいほどの皺が寄ってるぞ」


 苦笑しながら眉間を指す杏那に「ご忠告ありがとう」と言いながら、皺を伸ばす。


「結局のところ、なるようにしかならないのかもしれないわね」

「そうだな。果報は寝て待てともいう。ひと時ばかり、時の流れに身を任せてみてはどうだ」


 ふと口端を上げて笑う杏那に、葛葉も「うん。そうね」と苦笑した。


「あー。なんか色々考えてたら、ますますお腹すいてきちゃった!」


 大きく伸びをすると、杏那も同意するように頷いた。


「たまにはしっかりと気晴らししないとな」

「もちろん。大将。ジャンジャン日本酒持ってきて! 今日は飲むわよー!」


 葛葉の呼びかけに、大将の「あいよ!」という明るい声が響く。

 宵闇が深くなる中、鈴音では明るい笑い声が長い間響いていた。

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