第35話

 ロビーのラウンジのテーブル席で、葛葉と蔵王は改めて陽人と向かい合っていた。


「鳳条さん。さっきはごめんなさい……」


 葛葉は蔵王と共に深々と頭を下げた。

 何でも陽人は、レストランでの食事を終了する旨を店側に伝え、支払いも済ませてきてくれたらしい。


「いえ、別にこちらはかまわへんのです。鞄も置いたままでしたんで、もしなんかあったんやったらと思って、追いかけて来ただけですし」

「鳳条さんにもレストランのスタッフさんたちにもご迷惑をおかけしてしまって、本当に失礼しました」

「いえいえ。それで、火急の用というのはもう終わらはったんですか?」

「それは……」


 葛葉と蔵王が揃って言葉を飲み込むと、陽人はふっと相好を崩した。


「冗談です。皆まで言うてもらわんでも結構です。こちらもこれ以上、野暮なこと言うつもりはありません。全部うまいこと済ましてきましたんで、気にせんといてください」


 にこりと笑う陽人に、蔵王は苦笑して、軽く頭を下げた。


「ところで、先程はゆっくりとご挨拶も出来ませんでしたけど、確かお名前は蔵王さんでよろしかったですか?」

「はい。こちらこそご挨拶もまともにできておらず。郁島蔵王です」

「随分と前に会うたきりですけど、葛葉さんよりは少し大きかったせいか、なんとなく面影は残ったはりますね」

「覚えていただいていましたか。鳳条さんは随分と落ち着きが増されましたね」


 それに陽人は少しだけ目を丸くして、ふっと相好を崩した。


「相応に年も取りましたし、ちょっと丸なりました。……と、そんな私の話はさておきまして。今回の縁談のことで、お話せんとあかんことがありまして。そのために、今日は東京まで来たという感じなんですが」


 陽人は手にした紅茶のカップをテーブルに置き、葛葉へと向き直った。


「ここまで進めておいてもろて申し訳ないんですけど、この縁談……お断りさしてもろてもよろしいでしょうか?」


 きっぱり告げられた言葉に、葛葉は「えっ?」と声を漏らした。

 何かの聞き間違えだろうかと、思わず身を乗り出した。


「い、今……何て?」

「せやから、縁談をお断りさせていただきたいなと。こんなことを今日の今日でお伝えするんもどうかとは思たんですけど、私はそもそも結婚するつもりがないんです」


 苦笑する陽人に、葛葉と蔵王はますます目を丸くした。


「実はこれまでも何度かお見合いさせてもろてきたんですけど、全部断らせてもろてきたんです」


 家柄も学歴も申し分ない上に、常に相手を気遣う穏やかさを併せ持つ、何を取っても申し分のない人物なのだ。縁談はいくらでもあるだろう。

 それにもかかわらずここまで独身でいた理由は、他でもない、当の本人にやる気がないからだとは思ってもいなかった。


「失礼ですが、結婚するおつもりがないのに、どうして縁談を受け続けておられるんですか?」


 葛葉がおずおずと遠慮がちに問うと、陽人は「ああ」と一つ頷いた。


「母が勝手にあっちやこっちやで話を付けてくるもんですから。一方的に断るんは相手の方に申し訳ないいうのもあって、最低でも一度はお会いさせていただいてはいるんです。ただまあ……」


 そこで陽人は少し言葉を切り、二人に身を寄せてきた。


「以前うちのお教室にも来てくれてはった葛葉さんと蔵王さんやから、わかってもらえると思て言いますけど、正直な話……うちに嫁がはったら、えらい苦労しはる思うんです。小うるさい姑もいますんで」


 どこか遠い目をして疲れたような陽人の口調に、葛葉は思わず吹き出した。

 大変だと思っていたのは、葛葉だけではなかったらしい。心なしか、隣に腰かける蔵王も、明後日の方向を見ている。

 どこの家も、色んな事情があるらしい。


「本人同士お互いに何らかのメリットがある結婚やったら、また違うんかもしれません。せやけど、葛葉さんは東京で思う通りのお仕事をしたはる。その生活を捨ててうちに来てくれなんてことは、私はよう言いません」


 家と個人の事情を切り分けることができる陽人に、葛葉は心から腰を折った。


「お気遣いいただきありがとうございます。私の方こそ申し訳ないんですが、本当はお見合いというものに乗り気ではないままここに来ていました」

「ずっと浮かない顔をなさってたんで、きっとそうやろなと思てました。それを、先程のお二人を見て、確信しました」

「それについては、その……お恥ずかしいです」


 気恥ずかしくなってわずかに瞳を伏せると、陽人がふわりと微笑みかけてくれた。


「そんなことありません。素敵なことや思います。これも何かの縁ですから、今後とも多岐にわたり、友人としてよいお付き合いをさせていただければと思います」


 なんて穏やかで、優しい笑顔を見せる人なんだろう。


「こちらこそ、宜しくお願いします」


(いつか陽人さんが、心から苦難を分かち合える人に出会えるといいわね)


 笑みを返しながら、素直に、そう願わずにはいられなかった。

 そのまま席を立ち、一礼して去っていく陽人を見送ってから、葛葉は横に立つ蔵王をちらりと見上げた。

 すると、蔵王もまたこちらを見て微笑んだ。


「それじゃ、僕たちも帰ろうか」

「そうね。なんか気が抜けたらお腹が空いちゃったわ。さっき陽人さんからいただいた京都土産もあるし。受け取った時は色々複雑な気分だったから、まだ中身は確認してないけどね」


 肩をすくめてちらりと見上げる。すると、蔵王もくすりと笑いを漏らした。


「そうだね。うちの家に来てくれたら、関東屋の味噌を使った野菜スティックと進々堂しんしんどう謹製きんせい原了郭はらりょうかくの黒七味ラスクならすぐ用意できるよ。寄っていく?」

「もちろん! クリームチーズも添えてね」

「了解。ワインはフランスのブルゴーニュ産シャルドネを用意させていただきます。お姫様」


 冗談めかしながら恭しく差し出された手を取って、蔵王の家へと向かう。

 その道程は、いつも通りのようでいて、これまでの道とどこか違う。

 それは胸が弾むだけではない、少しの落ち着かなさを抱えた不思議な感覚だった。

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