第25話

 数日後。

忙しかった週末を終えた、土曜日の午後。

 澄み渡る空に、うろこ雲が広がる。空気もほどよく乾燥して心地よい。

 日中に適度な陽気があるこんな日は、外に出かけて散歩に限る。

葛葉は買い物がてら、近くの公園でのんびりとテイクアウトのコーヒーを飲んでいた。


「嫌じゃない……か」


 葛葉は先日のカフェでの一件を思い出して、ぽつんと呟いた。

 そう。確かにあの時、蔵王の言葉に安堵した自分がいた。

 けれども、その安堵の正体が何者なのかがわからず、この週末はどうにも上の空だった。

 おかげで、あの一件があった夜に堪能したはずのすき焼きの味が、今となってはまったく思い出せないという由々しき事態に陥った。

 おもたせを愛する者として、この問題を看過するわけにはいかない。

 これは葛葉史上、最大級に深刻な問題だということで、早急な解決が必要だと結論した。


(小西君からの誘いを、うまく断ることができたことに安心した?)


 もちろんそれはあるだろう。決して憲太が嫌いというわけじゃない。けれども、異性関係において、葛葉が経験値不足過ぎた。

 でも、それだけではない気がする。


(蔵王が助け船を出してくれた時、なんていうか……こう、守られてるというか、包まれてるというか、そんな不思議な気持ちになったのよね)


 それはきっと他の人に変えることは出来ない「安心感」だ。


(あんな、独占欲丸出しみたいな発言されたのにこんな気持ちになるなんて……私ってば、どうしちゃったのかしら)


 蔵王以外の人に同じセリフを言われていたら、不快感を覚えていたかもしれない。

 でも、蔵王に言われた通り、葛葉は確かに「嫌ではなかった」。

 むしろ、くすぐったいような、嬉しいような……そんな気持ちさえ感じてしまっていた。


(……ほんと、どうしたんだろう)


 ここ最近、蔵王の存在に、とても助けられている自分がいる。

 蔵王の前では、常に飾ることなく素の自分でいられる。

 再会し、少しずつ心を許してから、頼れる相手がいるということが心強くもあった。

 そんな相手に対して、嫌だという感情を抱くはずもない。

 嫌いなわけがない。むしろ……


(す……好き?)


 そんなワードが頭の中に飛び出してきて、葛葉は慌てて頭をぶんぶんと振った。


(違う違う! この感情は、私を小さい頃から応援をしてくれることへの感謝の気持ちであって、好きとか嫌いとか、そんな甘酸っぱいものじゃないはず!)


 そうだ。自分は蔵王に、感謝しているのだ。

 確かに小さい頃は憧れのお兄ちゃんを理想化して、恋しているような錯覚を抱いたかもしれない。でも、京都へ連れ戻しにきたという蔵王への疑念から解放された今は、蔵王に対して抱くようになったのは、純粋な感謝の気持ちだ。

 そう考えてみると、何となく心の引っ掛かりは少しだけ楽になった。


(でも、それにしても蔵王って、忙しそうな割に私に構おうとしてくれてるのよね)


 こんなに葛葉にばかり構っていては、逆に彼の私生活が心配になってしまう。


(何かと謎が多いのよね)


 とはいえ、詮索をしたところで、上手く煙に巻かれてしまう気しかしない。


(……って、だからなんなのよ。蔵王の私生活を知って、私はどうしようっていうのよ)


 頭に浮かんできたものを、慌てて消し飛ばした。


「まあ、どのみち今は知りたくても知れないんだけどね」


 思わず、言葉が漏れた。

 というのも、先日、葛葉の自宅ですき焼きを食べている時に、蔵王が突然「しばらく京都に帰るね」と言い出した。

 驚いたものの、よくよく考えれば彼は京都と東京を行ったり来たりしている生活だ。

 ウェブデザイナーとしての仕事も、紫陽社内での大まかなイメージの打ち合わせは終了し、蔵王が独自でデザイン構築を進める作業に入っている。ここからしばらくは、出社せずとも出来る仕事なのだろう。

 どちらにどれくらいの期間滞在していても不思議ではないし、葛葉に報告する義務すらない。


(でも、そんなことを報告されちゃうぐらいには、ここ最近、ほぼ毎日会ってたのよね)


 蔵王のことだ。突然来ないとなれば、葛葉が心配するだろうと気遣ってくれたのだろう。

 そんな生活が当たり前になっていたことに、我ながらびっくりする。

 けれども、この数日、蔵王の顔を見ることはなかった。

 夕飯を取る時も一人きりだ。

 元の生活に戻っただけなのに……


(どうしてだろう。食卓が妙に広く見えちゃうのよね)


 葛葉は一人ぼんやりと高い空を見上げながら、蔵王が置いて行ってくれたマールブランシュの茶の菓を一つかじった。

 濃い抹茶のラングドシャの間に挟まったホワイトチョコレートが、口の中でとろける。まろやかな甘みに、抹茶の適度な渋みが上手く合っている。


「美味しいなぁ……でも……」


 二人で食べたら、きっともっと美味しい。

 そんな言葉を、口に出すことができなかった。

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