第20話

 葛葉の目から、一粒の涙がこぼれる。


「葛葉ちゃん?」


 蔵王が心配そうに手を伸ばしてくる。

 けれども、涙は止まらず、ぽろぽろと流れ落ちていく。


(嫌いじゃない。むしろ、大好きだった)


 跡取りとして育てられ、常に虎月堂のことを考え続ける日々だった。

 苦しかったこともある。けれどもそればかりじゃなかった。

 虎月堂で働く人々に支えられ、日々の触れ合いが嬉しかった。

 蔵王の持ってきてくれる、虎月堂のお茶やお菓子に癒された。

 そんな虎月堂を、心から誇りに思い、守りたいと思っていた。

 そのために、どれだけ厳しくても祖母の教えを守って生きてきた。

 だからこそ、跡継ぎという道が閉ざされた時に、すべてに裏切られた気持ちになった。

 反発するようにそれらに目を背けて生きることを決めた時、自由になれたという解放感と共に、罪悪感を覚えた自分がいた。

 未練にも近いその感情を、押し殺してここまで来た。ひたすら前を向いて、たった独りきりで必死に走ってきた。

 それなのに、今あのクッキーを食べたら、きっと過去の気持ちを思い出してしまう。

 自分が孤独に築き上げてきたものが、もろくも崩れてしまうのではないか。そんな気がして、何だか怖かった。


(でも……そうやって、見たくないものに蓋をしながら、自分の過去を否定しながら生きるって、自分らしい生き方って言える?)


 違う。

 辛かった思い出も楽しかった思い出も、すべて自分の経験だ。ちゃんと向き合い、受け入れて、糧としながら前へ向く。

 それこそが、葛葉が求めている本来の姿なのではないのか。


「余計なことをしてごめんね。今、片づけるから」


 蔵王がお盆を片手に、キッチンへ戻ろうと立ち上がった。


「……待って」


 絞り出すような声で、葛葉は言った。


「片付けないで。それ、頂戴」

「え、でも、中身、割れちゃってるよ?」

「いいから」


 蔵王の持つ盆の上から、小袋を一つ手に取って、開ける。

 中は確かに、真っ二つに割れてしまっていた。

 けれど、葛葉はその欠片を掴み、口の中に運んだ。

 さくっと噛みしめると同時に、和三盆を使用したバタークッキーに挟まれた抹茶クリームの深い味わいが、口内に広がっていく。

 同時に、過去の京都での懐かしい日々が、頭の中を駆け巡った。

 小さい頃は抹茶が苦くて苦手で、なかなか食べられなかった。そんな葛葉に、祖母が苺味のクッキーを持ってきてくれたこともあった。

 大きくなるにつれて抹茶を美味しいと感じられた時は、少し大人になれた気がして、とても嬉しかった。

お稽古で疲れた時に、蔵王が差し入れてくれたこともあった。

 従業員の目をこっそり盗んで、つまみ食いしたこともあった。

 葛葉の京都での日々は、つねにこの菓子と共に在った。


「……おいしい」


 ぽつりと呟くと、蔵王が小さな声で「よかった」と言ったのが聴こえた。

 その声にはっと我に返って、葛葉は顔を上げた。

 目の前にいる蔵王は、やわらかく穏やかに微笑んでいた。

 それはとても優しげで、何故か葛葉の胸の奥がほっと音を立てて落ち着いた。

 だけど、そんな蔵王を直視し続けることはできなくて、少しだけ視線をずらす。

 なんとなくバツが悪い。けれども、葛葉はゆっくりと口を開いた。


「さっきは感情的になっちゃって、ごめんなさい。おばあさまに対してムカついてるからって、食べ物に当たるべきじゃなかったわ」


 蔵王が静かに頷いてくれる。

 それに促されるようにして、葛葉は言葉を続けた。


「何て言うか……その、この味を食べることで、小さい頃の楽しかったこととか、虎月堂を大事に思っていた頃の自分を思い出しちゃいそうで、いやだったのよ。決して悪い思い出なはずじゃないのに。それを捨てて全然違う生き方をしている今が辛くなっちゃう気がして。何より、京都が恋しくなってしまう気がしたのよ。いい年して何言ってるんだって思うかも知れないけど」


 すると、蔵王は緩く首を横に振った。


「故郷を恋しく思う気持ちは、誰しもあることだよ。決して恥ずかしいことじゃない。葛葉ちゃんはずっと一人で頑張ってきたんだから。時には過去の思い出に浸ることがあったっていいんじゃないかな」


 蔵王の優しい声が、葛葉の心に沁みていく。

 だからこそ自然に、「ありがとう」という言葉が出た。

 少し間を置いて、蔵王は葛葉の目を覗き込んできた。


「ねえ、雅世様の件抜きで葛葉ちゃんに聞きたいんだけど……京都に戻りたいって思うことはない?」

「それは……無いわね」


 葛葉はふふっと小さく微笑んで、頭を横に振った。


「例え孤独だろうと、私が自分で選んだ道だもの。今更引き返すつもりはないわ。楽しかった過去を恋しく思うことはあっても、戻る必要は無い。思い出に勇気づけてもらうくらいで十分よ」


 蔵王の目を見て、きっぱりと言い切った。

 すると、蔵王は緩く微笑みながら小さく頷いた。


「なるほどね。なら僕は、そんな葛葉ちゃんを応援するよ」


 あっさりと蔵王の口から出てきた言葉に、葛葉は思わず「え?」と目を見張った。


「でも蔵王は、おばあさまに言われて、私を連れ戻しに来たんじゃないの?」

「きっかけは、確かに雅世様の指示だったけどね。でも、無理強いするつもりはないって言ったでしょ? もし心の奥底で、葛葉ちゃんが京都に帰りたがってるなら手伝ってあげようと思ってた。でも、葛葉ちゃんは、ちゃんと自分で選んだ道を、努力して前に進んでる。僕にとって一番大事なことは、そんな葛葉ちゃんを応援することだから」

「蔵王……」


 真意を探りたくて、彼の目をじっと見つめる。

 だけど、蔵王は目をそらさない。だからこそ、その瞳に偽りは無いように思えた。

 蔵王は昔から、何も変わってはいない。

 ずっと変わらず、葛葉の味方だった。


(それなのに私ったら……)


 蔵王の言葉を聞き入れず、勝手にショックを受けて、「虎月家の犬」とまで罵った自分が恥ずかしく、そして申し訳なく思えてきた。


「その……ありがとう。あと、これまで色々言っちゃってごめんね」

「気にしてないよ」


 蔵王はくすりと笑って、頭を撫でてくれた。その手は温かくて、優しかった。


(これで、今まで通り)


 温かさで満たされた心が、ほっと落ち着いた。

 そんな葛葉の様子を見てか、蔵王は表情を一変させてにこりと笑った。


「そんなことより、誤解が解けたなら、たまには一緒に夕飯でもどうかな? せっかく近くにいるんだし、この間みたいに色々と話ながらさ」

「そうね。考えておくわ」


 いくら打ち解けたとはいえ、ちょっとウキウキしながら言われる誘いに、ほいほい乗ってしまうのもどうかと思う。

 少し含みを持たせて答えると、蔵王はふと何かを思い出したようにぽんと手を叩いた。


「そう言えば、この間、権太呂の季節限定商品のお取り寄せを注文したんだよね」

「なにそれ。詳しく!」


 食い気味に身を乗り出すと、蔵王はくすくすと笑った。


(あああ! やられた!)


 あまりに見え透いた餌をぶら下げられて、まんまと食いついてしまった。恥ずかしさのあまり、格好をつけた自分や、うっかり者の自分をののしりたくなる。

 けれども、不思議と蔵王に反発する気持ちは起こらなかった。


「それじゃあもう少しお茶でも飲んでゆっくりしようか」


 お茶を淹れなおしに立ち上がった蔵王の背を眺める。

 今後、何度も蔵王と食事を共にするのかもしれない。そして、何度もこの背を見るのだろう。

 まだ未来はわからない。けれども、なんとなくそんな予感がした。



 翌日、出社すると、すでに作業に入っていた香織と憲太が葛葉を迎えてくれた。


「虎月先輩! もう大丈夫なんすか?!」

「急に倒れたって聞いてびっくりしたわよ! もう、遠慮せずに言ってくれれば良かったのに」

「心配かけてごめんなさい。でも、香織も小西君も忙しいかなって思っちゃって」


 ぺこりと頭を下げる。すると、香織と憲太はけろりとした顔で言った。


「そりゃまあ、イレギュラーなことがあって忙しかったけど、でも、移動中の新幹線とかでも作業はできてたし。同じ部署で働く仲間なんだから、葛葉が一人で背負う必要ないでしょ? もっと素直に頼ってくれていいんだから」

「そうっすよ。それに、虎月先輩はいつも俺達のフォローをしてくれてるじゃないっすか。俺達だって虎月先輩の役に立ちたいんすよ」

「ありがとう。二人とも」


 葛葉はこみ上げてくる何かを飲み込んだ。

 二人のことを信頼していなかったとか、そういうつもりではなかった。

 けれど、この部門をまとめるリーダーとして、自分には責任がある。他の二人に負担をかけるわけにはいかない。勝手にそう思い込んでしまっていた。

 自分自身が甘え下手なことを、今回改めて痛感する。

 小さい頃から、上に立つ者としての心構えや責任の重さというものを、祖母から何度も聞かされてきた。それゆえかもしれない。


(一人で抱え込むことばかりが、人のためになっているわけじゃないんだ)


 それに気付かせてくれたのは、他でもない蔵王だ。


(蔵王……ありがとう)


 心の中でそう呟いてから、葛葉は資料に目を落とした。


(って、あれ? でも、小さい頃から蔵王にだけは、よく甘えてたような)


 甘え下手な葛葉でさえ、甘えさせてしまう。天然人たらし蔵王、おそるべしだ。


「よおし、それじゃあラストスパート。分担してささっと進めちゃいましょ!」

「そうっすね! 編集長も吃驚するような記事を仕上げてみせるっす!」


 やる気を見せる二人に葛葉もはっと我に返り、力強く頷いた。


「そういえば……ちょっと葛葉」


 席につこうとしたところに、香織が急接近してきてひそひそ声で耳打ちしてきた。

首を傾げると、香織はにやにやしながら言った。


「吃驚したといえば、あんたが休むっていう連絡を入れて来たのが郁島さんだったっていうのも、ものすごく吃驚したわよ! 一体どういう関係なの!?」

「えっ!? あ、ああ、それは……実は郁島さん、私と同じマンションだったのよ。それで、ちょうど帰り道が一緒になって、よりにもよってその時に倒れちゃったから……」

「ええええええ!? それってまるでラブコメみたいな状況じゃない! で、彼の部屋に行ったりしたの!?」

「いやいや、私の家まで送ってもらっただけで、別に何もなかったし!」


 実際は蔵王の家で一晩明かしてしまっているのだが、さすがにそんな話をできるわけがない。


「とにかく、ほんとただの偶然だから。郁島さんは他の女性社員にも人気なんだから、くれぐれも変な噂を流したりしないでよ?」

「そんな野暮なことしないわよ。でも……」


 そう言うと、香織は再びにんまりと口角を上げた。


「これって葛葉にとって、チャンスなんじゃない? 私だったら、頑張っちゃうけどなあ」

「もう、何言ってるのよ!」

「まあまあ。とりあえず、これお土産よ。ご利益がありますように」


 香織は小さな小袋を葛葉の手に握らせると、再び自分のデスクに戻っていった。

 おそるおそるその小袋を開けてみると、そこにはピンク色の文字で『恋愛成就』と書かれた、可愛らしい白い御守りが入っていた。


(か、香織!?)


 自分では買わない種類のお守りに、葛葉は思わず目を大きく見開いた。

 香織の方向を見ると、案の定、香織は面白そうに笑いながら葛葉を見ている。

 同僚の気遣いがありがたい反面、妙な気恥しさを覚えて、顔が赤くなる。それを誤魔化すように、お守りをジャケットのポケットに押し込むと、パソコンに向かった。

 納期まで、まだまだやらなければならないことは沢山ある。

 でも、もう一人では無い。共に協力し合える仲間がいる。そのことがとても心強かった。

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