第9話
ちらほらと社員が帰っていく夕暮れ時。
葛葉は蔵王がまたも女性社員と談笑しているのを横目に、足早に会社を飛び出した。
どうやら蔵王は帰ろうとしていたところで、総合案内の受付嬢につかまったようだ。
この後に飲みに行くお誘いでも受けているのだろう。
今や蔵王は時の人だ。
たくさんの荷物を抱えている人を見かければ、迷うことなく声をかけて手助けする優しさ。人の動きに先回りして颯爽と扉を開けてくれる、さりげない配慮。
おまけに、人好きのする穏やかかつ爽やかな面立ちと来れば、悪意を持つ方が難しい。
おかげで、社外からの協力者とはいえ、あっという間に会社に溶け込んでしまった。
処世術の権化のような男の才能に、幼馴染ながら恐ろしいものを覚える。
(社内に女性が列をなすのも時間の問題ね。怖い怖い)
葛葉はその流れ弾に当たらないよう、願うばかりだ。
そんなわけで、蔵王と鉢合わせないよう、早々に退社してきた。
とはいえ、別にそれだけが理由というわけではなく、事前に予定を入れていたのだ。
錦糸町の駅で降りると、見計らったかのようにスマホが鳴った。
画面に表示された名前に反射的に「もしもし」とスマホを耳に宛てた。
すると、スマホからは聞きなれた声が流れてきた。
『葛葉。今どこにいる?』
「今、錦糸町の駅出たところだけど」
『ああ、ならやはりお前だな。ちょっと右見てみろ』
言われて右方向を見ると、横断歩道の向こう側に髪をまとめ上げ、アルマーニのスーツをびしりと着こなした長身の女性が手を振っていた。
「杏那!」
信号が青になると同時に、葛葉は横断歩道を渡って、女性の元へ駆け寄った。
「すまんな。歩いていたら、たまたまお前を見かけてな」
このさばさばとした口調の女性は葛葉の大学同期の流川杏那だ。
杏那は学年首席で合格した才媛で、今は紅茶を販売する会社を起業した女社長だ。
大学時代は風のようにふらふらとどこかに出かけてしまい、教室で見かけることはほとんどなかった。けれども、そんな自由人な空気が、どうしてか葛葉とは馬があった。
「いいのよ。どうせうちに来るつもりだったんでしょう?」
「ああ。約束の時間よりは少し早くついてしまったが、しっかり土産は持参したぞ」
杏那はひょいと手に盛った袋を葛葉に見せた。その袋に描かれた見覚えのあるロゴマークに、葛葉は目を輝かせた。
「一の傳!? 京都の西京漬けの!」
一の傳とは、京都の中京区に本店を構える、老舗の西京漬け専門店だ。
創業から約百年という長い歴史の中で生み出された「蔵みそ漬」という製法で作られた西京焼きの魚は、地元民にはもちろんのこと、観光客にも愛されている。
「夕飯にはちょうどいいかと思ってな。先に何か買ってくれていたなら、そのまま冷凍して、別の日にでも食べてくれ」
帰りがけにスーパーに寄って、夕飯の準備をしようと思っていた。杏那が予想外に早く来たのもあって、幸か不幸か、メインとなるものはまだ何も購入していない。
葛葉は口角を上げて笑った。
「杏那、ナイスチョイスよ! 今日の夕飯はこれで決まりね。ちなみに、これどうしたの?」
「前に好きだと言っていただろう。先日京都に出張したから買っておいたんだ」
「そうだったのね。さすが親友。よくわかってくれてるわね。早速帰って食べましょう」
西京焼きにお目にかかるのなんて、久しぶりだ。
近隣のスーパーでは基本、魚の切り身と言えば塩焼きか照り焼きが並んでいることがほとんどだ。
西京焼き独特のあまじょっぱさが思い出され、葛葉の喉の奥がごくりと鳴った。
部屋に帰ると、手早くかばんを置いてコートを脱ぐと、キッチンに入る。
杏那から受け取った西京漬け箱の蓋を外すと、中には一つずつ丁寧に包装された西京漬けが美しく並んでいた。居並ぶ銀だら、金目鯛、鮭、さわら、かれいと、色とりどりの魚の切り身を見ていると、ぐうとお腹が鳴った。
(そういえば、今日は結局、お昼食べてなかったんだった)
蔵王との会話の後、取材先の店から電話が入った。アポイントメントを取り付けているうちに、昼食を食べ逃していたのだ。
すっかり忘れていた空腹が、今になっていっきに押し寄せてくる。
リビングでくつろぐ杏那にお茶をだし、葛葉は手早く準備を始めた。
鍋に湯を沸かし、パッケージに入った西京漬けを解凍する。程よく溶けたところで取り出すと袋から取り出し、魚を包み込んでいる味噌を丁寧にぬぐいとった。
グリルの網に魚を乗せて、タイマーを付ける。これで西京漬けの準備は完了だ。
魚を焼く間に、作り置きしておいた切り干し大根の煮物と人参のきんぴらを冷蔵庫から取り出し、小鉢に少しずつ盛り付ける。
なんとなく青物が欲しくて、きゅうりを小口切りに刻むと、しらすと和えて酢の物にする。
その間に別の鍋に放り込んでいただしパックを取り出し、味噌を溶き合わせる。最後にふわりとあおさを投入すると、磯の香りが立ち上るあおさの味噌汁の完成だ。
炊飯器はいつも通り、すでに保温状態に入っている。
準備をしているうちに、ぱちぱちと魚が焼ける音が耳に飛び込み、甘くて香ばしい香りが漂い始めた。
(ああ、いい香り。久しぶりの西京焼き……楽しみ過ぎる)
思わず、顔が綻んでしまう。
杏那にも手伝ってもらい、茶碗や小鉢をセッティングし終わったころに、ちょうど西京漬けが焼きあがった。
「おお、いい照りだな」
皿に盛りつけられた夕焼け色に輝く魚の切り身に、杏那の目が輝いた。
「でしょう? お土産持ってきてくれた杏那のおかげよ。それじゃあ、いただきます!」
食卓に手を合わせ、箸を手に取ると、葛葉はさっそく皿に鎮座する銀だらに手を付けた。
銀だらは一の傳の西京漬けの中でも不動の人気を誇っている。他の魚ももちろん美味しいが、銀だらの脂のノリは格別なのだ。
程よく焼けて味噌の焦げた黄金色の身に、そっと箸を入れる。すると、ほろりと身が崩れた。
優しく箸で摘み、そのままゆっくりと口の中へと入れる。
その瞬間、口の中いっぱいに、味噌の優しい甘みと魚の旨み、そしてそこに加わった焼き魚ならではの香ばしさが広がっていく。
(これよ。この味よ! 脂の乗った魚。京都の老舗が生んだ西京味噌。京都伏見の蔵もの純米料理酒や、二度熟成の醤油を使用し、生み出された旨味!)
内心で机を叩いて喜んでいると、ふと思い出したように杏那が口を開いた。
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