五、菓子侍

 安左衛門の研究は様々の分野に及んでいた。鶏卵もあらゆる農家のものを試し、砂糖も手に入る限りあらゆる産地、あらゆる原料のものを試した。だが、それによってかすていらの焼き加減に違いが出てくるようなことは無かった。

 一方、小麦の方は多少の影響があるようであった。安左衛門は勘之丞と相談の上、佐賀藩で用いられている小麦をひそかに取り寄せたのである。まさか佐賀藩に長崎のかすていらの製法を直々にお伺い立てるというわけにはいかないが、小麦をあがなうくらいなら無理という筋でもないのであった。

 その佐賀の小麦で焼いたかすていらは、讃岐の小麦で焼いたかすていらよりもふうわりと仕上がった。それが何故なのか、安左衛門には分からない。だが、少なくとも一歩、研究が前進したのは確かであった。

 安左衛門には何をどうやったところで覚知し得るところのものではないから、種を明かすこととしよう。そもそも、うどんに用いるのは中力粉である。製菓に向くのは薄力の小麦粉である。この時代の日本の小麦粉は、ほとんどが中力粉であった。ついでに申し添えておくのならばパンを焼くのに用いるのは強力粉であり、これは江戸時代の日本ではほとんど手に入らなかったから、江戸時代の日本にパンが定着しなかったのもそれが原因である。

 また、安左衛門は試すという発想に辿り着きもしなかったが、もしも佐賀の小麦でうどんを捏ねて食したならば、それが讃岐の粉で作ったうどんよりも味が落ちることについては理解し得たであろう。

 話を戻す。安左衛門がようやく到達した佐賀の小麦で焼いたかすていらは、いちおう、焼きたてのうちであればかろうじて巻くことができた。かなりの修練と技術を必要とする技なのは確かであったが、「かすていらを巻く」という、少なくとも日の本にあっては彼以外誰も挑戦していない事柄については既に彼は日の本一の達人となっていたから、三つに二つは成功させることができた。

 焼き上げたかすていらを薄く削ぎ切りにし、柚子を煮込んだ黄色く甘い汁を刷毛はけで塗り、これを巻く。そして、薄く切り分ける。成程こうして食べると、ただかすていらに柚子の煮たのを塗って食べるよりも断然に風味は良かった。こうして、数カ月に及ぶ試行錯誤の末、安左衛門のたるとは完成した。

 もちろん勘之丞も試食をした。そして今回は奥平藤左衛門も試食をした。普通、殿の食膳に新しいものを載せるというだけのことでいちいち筆頭家老が試しをするなどということは無いが、こればかりは奥平からの特別な任であるのだから当然である。

 不評を言い立てるものはいなかった。そこで、吉日を待ち、その安左衛門のたるとは定行の御膳の菓子として上げられることになった。

 安左衛門は三日の前から一切の飲食を絶ってその日を迎えた。真っ青な顔をしてたるとを焼く安左衛門を、同僚たちが心配げな顔をして見守っていた。

 一方、定行である。定行も、この日の食膳に「たると」が供されることになることは事前に知らされてあった。であるからして、楽しみにその夕餉ゆうげを待った。

 そして、たるとが来た。

 そのたるとは、もちろんあのときのTortaと同じものではなかった。だが、そもそも見たこともないものを見もせずに作ったにしては、外見上は及第点と言ってよかった。

 定行は、たるとに箸を伸ばした。そして口に含む。

「……」

 定行は半分までを口にし、残りを皿に置いた。ここまでの事情を一通り知っている侍従たちが、色めきたった。食膳が下げられた。貴人の食膳は、一箸を付けたら下げるのがお定めなのである。

 定行は、しまった、と思った。確かにその安左衛門のたるとが、記憶にあるものと異なったことに失望したのではあった。だが、記憶というのは美化されて当然のものであり、同じものを二回食べれば二回目には一回目ほどの感動はない、というのもまた当然事実であった。

 だがそんなことをそのまま口に出したら、名も知らぬ包丁侍が一人腹を切ることになるであろう。苦渋の末、定行はやっとの思いで見つけた言葉を口に出した。

「よき菓子であった。だが」

「ははっ」

 小姓たちが色めきたった。

「たれか、答えよ。柚子の旬はいつか?」

「は、冬にて御座いまする」

 今は冬である。旬ではない食材を出した事に対する咎め立て、ではあり得ない。では定行は何を言おうとしているのか?

「余はたるとを、年中を通じて用いられる伊予松山の名産としたい」

「まこと、御美事おみごとなる御案断ごあんだんと存じまする」

「されば」

「はっ」

「今後、たるとには……小豆餡あずきあんを用いよ」

 以上の次第を、安左衛門は奥平藤左衛門の屋敷で直々に聞かされた。九石取の侍が筆頭家老から直々に言葉をかけられることも滅多にあるものではないが、まあ藩主から言葉を賜るというよりはあり得ることである。

「腹を切らずに済んだな、安左衛門」

 安左衛門は松山の城から直接奥平の屋敷に呼ばれたためもあって、まだ青い顔をしていた。

「恐れながら……拙者のたるとには、不足がありましたでしょうか」

「分からぬ。仮にあったのだとしても、殿は不足であるとは仰られなんだのじゃ。なれば、不足はなかったものとしてこれを扱う。不足があったのではなく、柚子のたるとをもとに殿はさらに新たなる菓子を御考案になられた。そうとするより他はあるまい?」

「いえ。僭越ながら……」

「お前が殿の御沙汰おさたを気に入らなんだとしても、腹を切るのは許さんぞ。ここでお前が腹を切ったら、るいは他にも及ぶ」

「……なれば腹は切りませぬが、一つお願いしたき儀が御座いまする」

「申せ」

「小豆餡のたると、この先もなお拙者にこうじさせて頂きとう存じます」

 現状までの安左衛門の努力を考えれば、他に適任がいるわけもなかった。

かろう」

「そして、もしその儀、殿にてご満足を頂けた折には」

「何だ」

「家禄をお返しさせて頂きたく存じます」

 家禄を返すとは、つまり武士の身分を捨て、帰農するか或いは町人になるということである。

「いいだろう。二言はないぞ、互いにな」

 そうして、安左衛門の最後の挑戦が始まった。

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