三、かすていら等安

 かすていらを日本で初めて作ったのは村山等安むらやまとうあんというキリシタンであったと言われている。そもそも日本にかすていら、あるいはその原型であるところのものを持ちこんだのはキリシタンの宣教師であることはこれ疑いのないところである。もっともポルトガルにもその他欧州の国々にもかすていらなどという名の菓子は古今ない。かすていらという名のいわれは、南蛮のカスティーリャ国の名がなまったものだと言われている。かすていらの直接の原型はポルトガルのパン・デ・ローという菓子だというのが通説ではあるが、証拠などが残っているわけではなくこれはあくまでも後世の推論に過ぎぬ。

 さて、天正二十(1592)年、豊臣秀吉が朝鮮出兵の指揮をる為、肥前の名護屋城に滞在していたときのこと。その男、村山等安は秀吉に対し、自分は長崎のかすていら商であり、長崎の商人の代表者であると名乗った。といっても長崎の出身ではなく元は流れ者であったらしいが、本来の素性は誰も知らない。ただ、豪商として成功を収めた人物であり、またそうであるからには当然、如才のない男でもあった。

 この頃、天下人たる秀吉がキリシタンへの禁圧を強め始めている頃だったので、その煽りを食っていた長崎の商人たちは、誰かはやらなければならない事であるのだが秀吉の前に伺候しこうするのを恐れまた嫌がった。そこで手を挙げたのが、この等安だったというわけである。

 そして、等安は秀吉にかすていらを献上し、これを大いに気に入られ、長崎代官という職を秀吉から与えられた。一説に、彼のキリシタンとしての本名は安等アントニオと言ったのだが、秀吉がこれを間違えて等安と呼んだため、逆にこれを好機とし、「太閤より等安の名を賜った」と称してさらに秀吉の歓心を買ったのだともいう。

 そのあたりのところは本来、安左衛門が抱えている問題の解決とは直接に関係のないことではあったが、書籍商より買い集めた南蛮菓子関連の書籍の中に、等安に関する一書が混じっていたため、ついこれを読みふけってしまったのである。

 この等安というのがまた、何とも奇怪な人物であった。といっても、奇行をするという意味ではない。率直に言えば、この男は悪党なのである。特にひどい女好きで、キリシタンの身にありながら昵懇じっこんであった宣教師の妻に手を出したり、その他多くの女を無理やりに妾を囲って人々の恨みを買ったり、逆にそれらの人々を罠にかけて陥れ、謀殺するなどの事を行っている。

 もっともただ悪党一途の男であるならそんなものは珍しくもないが、この男はこれで同時に、キリシタンとしては非常に敬虔な一面も持っていたのだという。この時代、まだキリシタン禁令は全国的なものではなく各地で散発的に行われているに過ぎなかったから、自分の仕える家などから追放されて長崎に流れてくるキリシタンが大勢いた。等安はそのような人々に対しては常に手厚く援助を与えた。それが出来るだけの財力もあった。長崎代官なるものが具体的に何をやる役職だったのかよく分からないが、恐らくは当時の南蛮交易に口を利き、利ざやをむさぼれる立場だったのであろう。彼はやがて金貸しも営むようになり、その金を貸す相手というのに諸藩大名家さえも含まれていたという。

 ちなみに等安は慶長九(1604)年に徳川家康にも謁見して、このときにもかすていらを献上している。このとき家康は、等安に長崎代官の地位を安堵した。

 彼の栄光と絶頂にはまだ続きがある。にわかには信じがたい話だが、地上の富を極めた等安は自らが一国の主になることを夢見、私的に十三隻からなる船団を仕立てて、高砂国すなわち台湾を征討しようと企んだのである。

 もっとも、この船団は台湾に到着することもなく嵐の前に沈んだ。そして、等安の栄光はこのあたりを境に下り坂になっていく。結局、末次平蔵すえつぐへいぞうなる政敵の讒言ざんげんを受けて長崎代官の職を追われた等安は、もろもろの過去の罪過ざいかたたられて江戸にて斬首されその生涯を終えた。

 安左衛門は慨嘆した。かすていらの商いを起点に士分となり、果ては一国の王を目指した異形の菓子侍かしざむらいの物語に。安左衛門自身にはそんな野心も大望もなく、ただ自分の作る御膳に、殿が日々満足してくださるのならばそれに勝る喜びは無かったのだが。

 さて、安左衛門がほうぼう手を尽くして藩の公金であがなった書の中に、『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』なるものもあった。天の巻、地の巻と分かれているのだが、その地の巻の中に「かすてら仕様」と題し、かすていらの製法を記したくだりがあった。

「鶏卵ひとつに砂糖を拾匁じゅうもんめ、粉はうどんの粉を用いて水は入れない。鍋肌に胡麻ごま油を引いた美濃紙を敷き、ねたるものを入れ、火のしで焼く。色が付いた頃、上下を返して又焼く」

 鶏卵、砂糖、いずれも貴重なものである。とはいえ、仮にも伊予一国の首府の置かれる松山に在るのだからして、手に入らないという事はなかった。砂糖は舶来のもの、つまり長崎交易のものである。卵は松山でもあまり流通してはいないが、金を積めば手に入らないということはなかった。うどん粉は、隣国讃岐が名産の地であるので、比較的容易に手に入れる事ができた。

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