23 母
23 母
熊坂の家を訪れてから二日後、母さんが現地で倒れたという連絡が入った。
父さんがバタバタしながら一度俺を迎えに来て、そのまま一緒に飛行機で現地へ飛んだ。
現地の病院は酷い有様だった。日本の病院よりも不衛生で、ベッドの数も医者や看護士の数も、圧倒的に不足していた。
母さんは、その中でも少しだけ上等なベッドに寝かされていた。現地で流行っていたその病は、母さんの体力を殊更奪っているように感じて、頬のこけたその顔を見て、哀しさと悔しさで泣きそうになった。
「今は、容態も落ち着いて眠っているそうです。だけど、まだまだ油断ならない状況だそうです」
現地の医者の言葉を、通訳の人が語る。
母さんは、自分よりももっと別の人にこのベッドをと願ったらしいけど、意識を失ってからは、現地の人達の計らいで、この部屋に移されたらしい。それだけで、母さんがこの土地でどれだけ意味のある行動を起していたのかが伺えた。
病院に来る前に、飛行場で予防接種を受けた俺達だけど、まだまだ未知の部分も多いこの病には、それだけで安心出来るものではないらしい。現に、予防接種を受けていた母さんは感染した……。
父さんは通訳を挟んで医者と何かを話している。生気が無いように見えるその横顔が、痛々しい。
母さんは、苦しそうに呼吸を繰り返している。人工呼吸器なんて立派な物は存在していない。浅く呼吸を繰り返す母さんの額には、じっとりと汗が滲んでいる。暑さの所為だけだと思いたい……。
マスクの上から声を掛ける。
「母さん……」
返事は無い。
反応も無い。
起しちゃいけないとも思うが、このまま眠りから覚めないのではないかと危惧すれば、それは心の中で激情の嵐へと変わる。叫びだしそうな程の哀しみの最中、不意に肩に手を置かれた。振り向くと、父さんの疲れた顔があった。
「武文、すぐに帰るぞ」
手は俺の肩に置かれていたが、その目は真っ直ぐに母さんを見つめていた。
本来海外の病原菌保有者を、日本に持ち込む事は出来ない。そこで父さんは、予め用意しておいた自家用のジェット機に、完璧な無菌室を作り、そのまま母さんを日本に連れて帰ろう言うのだ。
「今動かすのは、危険だと言っていますが?」
「こんな所では、助かるものも助からん! それに、美奈子は強い……。こんな所で死ぬ筈が無いだろう……」
奥歯を噛み締めるように、通訳に言葉を返す父さんの哀しみが俺にはよく分かった。元から父さんは、母さんの活動には反対だった。だからこそ、こうなってしまった事の責任を、止められなかった責任を、強く感じているのかもしれない。
そして、この期に及んで考える事では無いかもしれないが、やはり、財力は大事なのだと、感じた……。
母さんはそのまま速やかに処置が施され、俺達は母さんを連れて飛行場へと向かった。
ジェット機に乗せ、すぐに現地を発つ。日本に着くには、一体どれ位時間がかかるのだろう。不安と緊張に押し潰されそうになりながら、俺は感染覚悟で、母さんの手を握っていた。勿論、マスクや手袋などの一定以上の防護はしている。だけど、俺はこの時、母さんの病気に掛かって死んでも構わないと、本気で思っていた。
心電図が一定のリズムを刻む。
飛行機に乗って、窓の外を見ないなんて初めての経験だった。
「……ここは?」
離陸して二時間程してからだろうか。母さんの声に気がつき、俺は顔を上げた。
「……母さん?」
母さんは俺の顔を確認すると、柔らかく目を細めた。
「……武文、来てくれたのね?」
母さんは痛々しげに、それでも優しく笑った。
「美奈子!」
別室で日本へ指示をしていた父さんが駆け寄ってくる。モニターでこちらの様子は伺っていたのだろう。
「美奈子……」
「あなた……、ごめんなさい」
「だから、言っただろう……」
「そうね……、でも、私は……、不器用だから」
切れ切れに聞こえてくる母さんの声が、次第に弱くなっていく。心電図のリズムが、少しずつ緩やかになってしまう。
「……武文」
「何、何母さん!」
「武文はね、お母さんが居なくなっても、元気に、強く、生きなくちゃ駄目よ……。誰かの為に、何か出来る、素敵な人に、ならないと、駄目よ……」
「母さん……、母さんは、まだいなくならないよ。やめてくれよ、そんな事言うの……」
母さんは、俺の言葉を噛み締めるように、そっと目を閉じた。
「あなた……、私、……幸せでしたよ。あなたのおかげで、……本当に、幸せでした」
「何を言ってるんだ! すぐ日本に着く! 日本の医療技術なら、お前の病気もすぐ治る! だから頑張るんだ!」
母さんの目は開かないままだ。握っていた手が、少しだけ強くなる。そして、その力は次第に弱まり、目を閉じていた母さんの顔が、コクリと、小首を傾げるように、少しだけ横に傾いた。心電図が刻んでいたビートが、点では無く、線になった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます