第39話 贖罪の十字架 その6


「早苗さん、遅いですね」


「そうですね。もうすぐ花火の時間ですし、そろそろ紅音さんの家に向かわないと」


「もう少し待ってから、探しに行きましょうか」


 花火の時間が近付いてきたこともあり、皆いい場所を取ろうと動き始めていて、休憩所には柚希と紅音、二人だけになっていた。


「僕、今までちゃんと花火を見たことがないんです」


「そうなんですか?この街の花火はきれいですよ。それに大きくて、一つの花火で何度も何度も光って……」


「そうですか、楽しみです」


「晴美さんもご馳走作ってくれてます。いっぱい食べてくださいね」


「はい」


 そう言って二人、見つめ合って笑った。




「これはこれは……こんな所で誰かと思えば」


 二人を見下ろしながら、三人の男が立っていた。


「藤崎、楽しそうじゃねえか」


「や……山崎くん……」


 柚希の口から一気に水分が失われた。


 瞳孔は開き、脈が急激に速くなっていく。


 柚希は誓った。これからは絶対に逃げないと。


 山崎たちからも正面から向かい合い、乗り越えてやると決意した。


 しかしこの不意打ちは、柚希の頭を真っ白にした。


「柚希さん……」


 柚希の手を握る紅音の手も、震えていた。


 山崎たちから醸し出される異様な雰囲気に、紅音は怯えていた。


 その紅音の姿に、柚希ははっとした。


 そうだ、今は僕一人じゃない、紅音さんもいる。

 紅音さんを巻き込むわけにはいかない……紅音さんを守るって、僕は誓ったんだ。


 紅音の手を握り返し、柚希が小さくつぶやいた。


「紅音さん、大丈夫です……紅音さんのことは、僕が守りますから」


「何ぶつぶつ言ってるんだ、藤崎。こんな所で女といちゃつきやがって」


 その時、一発目の花火が打ちあがった。歓声とどよめきが周囲を包む。




「走って!紅音さん!」


 そう叫び、柚希は立ち上がって山崎に体当たりした。


 柚希のいきなりの攻撃に、山崎は受身を取ることが出来ずに吹っ飛んだ。


「柚希さん!」


「紅音さん!早く、早く逃げて!」


「てめえ藤崎っ!」




 山崎が、怒りをあらわに柚希に襲い掛かってきた。


 紅音は立ち上がって逃げようとしたが、山崎に殴られている柚希の姿に、体が凍り付いて動けなくなった。


 一人が柚希を羽交い絞めにする。


 その柚希の腹に、顔に、山崎の拳が容赦なく叩き込まれた。


 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら紅音が立ちすくむ。


 助けを呼ぼうとするが、恐怖の余り声も出ない。


 その紅音の腕を、もう一人の男が掴んだ。


「山崎、この女もらっていこうぜ」


「そう……だなっ!よく見りゃ中々いい女だっ!藤崎には勿体ねぇ……なっ!」




 殴られながら柚希は思った。


 まただ、またこの理不尽で容赦ない現実だ。


 いくら決意をしても、幸せがすぐ側にあっても、いつもこうなってしまう。


 どうして現実は、僕をこうして苦しめるんだ……




「おい、そろそろやばいぜ。これぐらいにしとこうぜ」


 そう言って男が、柚希の羽交い絞めをといた。


 柚希はその場に一気に崩れ落ちた。


「藤崎、女はもらっていくぜ」


 そう言って紅音の元に向かおうとした山崎の足に、柚希がしがみついた。


「あん……?」


 振り返り山崎が見下ろす。


 その山崎を、柚希が睨み付けた。


「紅音さんに……手を出したら許さない……絶対に……許さない……」


 その眼光は鋭く、山崎は一瞬後ずさってしまった。


 そしてそのことに焦りと怒りを感じた山崎が、柚希を力任せに踏みつけた。


「貴様ああああああっ!」


 一瞬とは言え、柚希に圧倒されたことを認めたくなかった。


 その思いが山崎の闘争心に火をつけた。


「ふざけるなてめえっ、離せ、離しやがれっ!」


 山崎が柚希の首を、腕を踏みつける。


 その衝撃はすさまじく、首の、そして肩の骨が砕けていくのが分かった。


 しかしそれでも柚希は、山崎の腕を離さなかった。




 紅音は目を背けようとしても背けられなかった。


 涙溢れる両眼は見開かれ、まるで何かの意思によって、その光景を見せつけられているようであった。




 ついさっきまで、本当に幸せだった。


 大切な友達との夏祭り。


 人生でこんな幸せな瞬間が訪れるとは、思っても見なかった。


 自分にとって余りあるその幸せに、今人生が終わっても構わない、そんな思いまで持っていた。


 なのにそれが今、訳の分からない理不尽な暴力で粉々に打ち砕かれている。


 まるで運命が自分に「お前が幸せになることはないんだ」そう言って嘲笑っているようだった。


 目の前で、この世で何よりも大切な人が血まみれになっている。


 それは紅音にとって耐えうる許容量を超えていた。


 紅音の目の前が、テレビのスイッチを消したように一瞬で真っ暗になり、紅音は意識を失いその場に崩れた。




「おい山崎、この女、気ぃ失ったぜ」


「いいじゃねえか、暴れられると色々面倒だ。その方が連れていきやすいってもんだろうが」


「それもそうか」


 何度も何度も踏みしだき、ようやく柚希の手が足から離れた。


 山崎は、ここまで屈服しなかった柚希に対する自身の動揺と、やりすぎてしまったことに対する恐れを打ち消す為、もう一度柚希の顔を蹴り上げた。


 柚希は身動き一つしなくなっていた。


「けっ……」


 山崎が唾を吐き、倒れている紅音に近付いた。


 髪を掴んで顔を覗き込むと、唇を歪めて笑った。


「藤崎にやるには勿体ないな。いい女じゃねえか」


「お、おい……山崎……」


「なんだよ」


「後ろ……」


「……!」


 その声に山崎が振り向くと、山崎の後ろに血だるまの柚希が立っていた。


 目は閉じられ、意識がある様にも見えない。


 まるで紅音を守る為、肉体が意思を持って立ち上がったようだった。


「ひっ……」


 山崎の目が恐怖に見開いた。


 他の二人も、思わず後ずさった。


「て……てめえ……」


「や、山崎っ!」


 山崎がポケットから飛び出しナイフを取り出した。


 そして震える両手でそれを握り締めると、そのまま柚希に向かって突っ込んでいった。


「なめるなああああああっ!」


 ――ナイフが柚希の腹部に突き刺さった。


 Tシャツが血で染まっていく。


 ゆらり、ゆらりと柚希の体が揺れ、そしてそのまま静かに崩れ落ちた。




「はあっ……はあっ……」


「お、おい山崎、やばいぞこれっ!」


「逃げないと俺たち、捕まっちまうぜ」


「山崎っ!」


 仲間の声に我に帰った山崎が、自分の手を染めている柚希の血をみつめた。


「山崎!ずらかるぞ!」


 呆然と立ちすくむ山崎の腕を掴み、二人が裏道へと走っていく。


 人を刺してしまった……その思いが徐々に山崎の脳裏を支配していく。


 山崎は全身から冷たい汗を噴出しながら、脇目もふらずにその場から走り去って行った。

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