第27話 少女二人 その2


 居間で三人が、柚希を挟んで座っていた。


 柚希のその、何とも言えない微妙な表情は、晴美にとってかなりのご馳走だった。


「柚希さん、両手に花とは正にこのことですね、むふふふっ」


「ちょ……両手に花ってそんな」


「あら失礼、修羅場の間違いでしたか」


「晴美さんっ」


「むふふふっ、柚希さんは本当、いじりがいのあるお方ですね」


「……おいしい!これ、晴美さんが煎れたんですか」


 紅茶を一口飲んだ早苗が、驚きの表情で晴美に言った。


「お気に召されて何よりです」


「晴美さんは本当に、家事の天才なんです。お料理の腕もすごいんですよ」


「お嬢様、そんなにハードルをあげないでくださいませ。お嬢様にそんな風に言われたら、今夜の夕食、気合を入れずにはいられなくなります」


「夕食、晴美さんが作るんですか」


「はい。いつも私たちの食事は晴美さんが作ってくださってるんです。早苗さんも是非、楽しみにしていてくださいね」


「晴美さんの料理……こんなお屋敷でいつも作ってる料理……気になる、うん、気になる……」


 早苗の中にある、料理研究部部長としての血が騒ぎ出した。

 今この場からいなくなると言うことは、柚希と紅音を残していくと言うことだ。

 それは今日、ここに来た本来の目的から大きく外れることになる。

 しかし早苗の中には、例えそうであっても、晴美の料理の腕を見極めたいと言った思いが強くなっていた。


 紅茶を一口飲んだだけで、この人が只者ではないことは分かった。

 ならば悩んでいる時ではない。

 私が今成すべきこと、それは晴美と共にキッチンに行くことではないのか。


「あ、あの……晴美さん」


「はい?」


「よければその……私もキッチンに立たせてもらえませんか」


「キッチンに、でございますか」


「はい、決してお邪魔にならない様にしますので、是非」


 早苗の目は真剣だった。その目に晴美がニコリと笑った。


「桐島家のキッチンは殿方は勿論、何人にも侵されたことのない私の聖域です。そこに入りたいと」


「はい」


「お覚悟、ありますか」


「勿論。この小倉早苗、料理にかける情熱だけは誰人にも負けません」


「はっはっは、いいんじゃないか晴美くん」


「早苗ちゃん、料理のことになったら本当、人が変わったように真剣になるよね」


「ちょっと柚希、私はいつでも真剣だよ」


「あの……柚希さん、料理のことってなると、とは、どう言う意味ですか?」


「早苗ちゃんは料理研究部の部長さんなんだ。全国大会で入賞もしてるんだよ」


「ほう……」


 その言葉に晴美が食いついた。


「分かりました……いいでしょう早苗さん、ではこちらへ」


「ありがとうございます!」


 早苗がそう言って嬉しそうに立ち上がった。


「……と、言うことですのでお嬢様、柚希さん。しばらく早苗さんをお借りいたしますね」


「あ、はい。よろしくお願いします」


「お任せください、むふふっ」


 そう言って二人が居間から出て行った。




「なんだか、すいません先生。早苗ちゃん、料理のことになると人が変わっちゃうんで」


「はっはっは、何構わんさ。ひょっとしたらこの出会い、必然かもしれないよ。晴美くんにとってもね」


 そう言って明雄は笑った。

 その言葉には柚希も同意だった。

 あの二人、いつも思っていたけど、他人って感じがしないんだよな……


 そんなことを思っていた柚希の手に、温かいぬくもりが伝わってきた。


「……紅音……さん……」


 紅音が柚希の手を握っていた。

 そして体を、柚希に預けるようにもたれかけてきた。


 普通であれば、この状況はとんでもないことである。

 何しろ目の前に父親がいるのだ。

 しかしここ数日間に起こった出来事、そして明雄が語った紅音の過去を聞いていた柚希には、それが紅音にとってごく自然なことだと理解していた。


 かなり恥ずかしいことではあったが、明雄に視線を移すと、明雄は笑顔で小さくうなずいていた。

 しかし優しい笑顔ではあるが、瞳だけは、娘の状態をしっかりと把握しようとしていた。

 その表情に、柚希も真剣な表情で明雄にうなずきかえした。




「柚希さん……私、とっても寂しかったんです……」


 柚希にもたれかかり、目を閉じ安堵の表情を浮かべながら、紅音が言った。


「僕もです、紅音さん」


「私、毎日カレンダーばかり見てました。あと何日、あと何日で柚希さんに会える……そればかりを思って、この二週間過ごしてました……」


 柚希の中に、紅音が発する言葉への違和感が生まれた。


「でも……柚希さんは試験の為、お勉強を頑張っているんだ……そう思って私、我慢してました……柚希さん、実は私も、家でお勉強してたんですよ。今、柚希さんと同じ時間に、私もお勉強をしている……そう思ったら、少しだけ元気になれたんです……」


「……ごめんね、寂しい思いをさせちゃって」


「いいえ、これは私の我儘なんです。この二週間、色々考えました。私は今まで、いつも家で生活してました。そしてそのことに何の違和感も感じることはありませんでした。でも、こんな私にも、子供の頃は一緒に遊んでくれるお友達がいたんです。


 人と一緒に過ごすのは苦手ですが、一人で遊ぶのも嫌でした。だから子供の頃はよく、近所の友達の仲間に入れてもらおうとしました。最初はみんな、私を仲間にしてくれました。でも、いつも知らない内にみんな私から遠ざかっていって……

 今思えば、私は我儘だったんだと思います。受け入れてもらえたことが嬉しくて、それまでみんなで作ってきたルールも雰囲気も、全部私は潰していたんだと思います。だからいつも、私はのけ者になっていきました。


 柚希さんは、私に初めて友達だと言ってくれた方でした。あの時のこと、今でもはっきりと覚えています。本当に、本当に嬉しかったから……でも私は相変わらずで、我儘ばっかり言って、いつも柚希さんを困らせています……」


「そんなこと……」


「それでも柚希さんは、こんな私に愛想をつかすことなく友達でいてくれて……だから私、思ったんです。これからは私、柚希さんの思いに答えられるような人間になろうって……」


「紅音さんはこれまでも、そしてこれからもずっと、僕の大切な友達です。それに僕、紅音さんのことをそんな風に思ったことなんかありませんから。安心してください、紅音さん。僕はどこにも行きませんから」


「柚希さん……」


 紅音が目を開け、柚希を見上げた。


 その紅音の耳を、柚希が軽くつまんだ。


「え……ゆ、柚希さん……な、何ですか……」


「あははははっ、ごめんね紅音さん、びっくりさせちゃって」


 耳を離して柚希が笑った。


 柚希の意図がつかめず、紅音がきょとんとした表情で柚希を見る。


「これね、つい最近早苗ちゃんからされたことなんだ」


「早苗さんから?」


「うん。僕が早苗ちゃんと話してて、さっき紅音さんが言ったのと同じことを言ってね、その時にこうされたんだ」


「よく……分かりませんが、何を言われたんですか」


「僕なんか、って」


「?」


「紅音さんも、さっきの話の中で言ったんですよ。『こんな私』って」


「はい……言ったかもしれません」


「紅音さん、紅音さんは『こんな私』なんかじゃない。先生や晴美さんが大好きな紅音さんは、この世でたった一人しかいないかけがえのない存在なんです。そして僕にとっても、大切な大切な友達なんです。だから紅音さん、自分のことをそうやって貶めないで欲しいんです」


「柚希さん……」


「……って、格好いいこと言ってますけど、僕もついこの前、同じことを言って早苗ちゃんから怒られたんですけどね」


「……やっぱり私たち、似たもの同士ですね」


「そうかも、はははっ」


「ふふふっ……」


 二人がそう言って、お互いの顔を見合わせて笑った。




「柚希さん……そう言えば……」


 紅音が不意に、柚希の顔を覗き込んで言った。


「柚希さん、お怪我を……されてます」


 紅音が右手で柚希の頬に触れた。


 そして息がかかるほど顔を近付け、柚希の顔をまじまじと見つめた。


「やっぱり……傷があります……どうされたんですか?」


 その言葉にようやく柚希は、さっきから感じていた違和感の訳を知った。


 明雄に目をやると、明雄は無言でうなずいた。


(そうか……紅音さん、この前傷だらけになった僕と会った記憶……あの時の記憶がなくなっているんだ……紅音さんの中で僕は、試験前から一度も会っていないことになってるんだ……)


「どうかされましたか、柚希さん。お顔が少し、怖くなってますが……」


 柚希の顔をじっと見つめる紅音が、柚希を気遣うようにそう言った。


「あ……ううん、なんでもないです。ちょっとこの前、家で転んじゃって。でも大丈夫、もう治りかけてるから」


 そう言って柚希が笑った。


 その笑顔を見て、紅音の顔がみるみるうちに赤くなっていった。




「柚希さん……大好きです……」


 囁く様にそう言うと、紅音が柚希の胸に顔をうずめてきた。


 その行為には、流石の柚希も動揺を隠せなかった。


 いくらなんでも、お父さんのいる前で僕のことを好きって言って、そして今、僕の胸の中に……


「はっはっは。紅音は本当に甘えん坊さんだね」


 明雄のその声は、柚希にとって助け舟だった。


 しかし紅音は顔を上げると、頬を膨らませながら明雄に言った。


「お父様、紅音はもう子供じゃありませんよ」


「はっはっは。でもね紅音、見てごらん。柚希くんも困ってるよ」


「え……柚希さん、困ってらっしゃるんですか」


「あ、いやその……困ると言うか何と言うか……こんな風にしてくれるのは嬉しいんだけど、その……ね、先生の目の前だし……」


「紅音、柚希くんは恥ずかしいんだよ。そういうことは、二人きりの時にする物なんだよ」


「え……そうなんですか、柚希さん」


「あ……その……」


「ご、ごめんなさい私ったら……また私、柚希さんにご迷惑を」


「ち、違うよ紅音さん。迷惑なんかじゃないから」


「私……ごめんなさい柚希さん……あっ」


「大丈夫、大丈夫だよ、紅音さん……」


 柚希が紅音を抱擁した。


 紅音の全身に柚希のぬくもりが伝わってくる。


 そのぬくもりに紅音は安堵し、柚希に身をゆだねた。


「ずっと……ずっとこうしてもらいたかったんです、私……」


「紅音さん……」


 顔から火が出る思いだった。


 ……僕は今、父親の目の前でその娘さんを抱きしめている……


 今、こうしないといけない、そう言った思いが柚希の中にあった。


 しかしそれはただの自分への言い訳で、実は自分自身、紅音にそうしたいと言う欲求が強くあったのだと思い返し、後で柚希は恥ずかしさに身悶えることになる。




 柚希が優しく紅音の頭を撫でる。


 その温もりに、紅音は満足そうに笑った。


「柚希さん……」

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