第23話 明かされる真実 その3


「私が初めて紅音の能力を見たのは、紅音が十歳の時だ。あれの母親、つまり私の妻が家を出て行こうとした日に……」


「え……」


「紅音は君に、母親の話をしたことがあったかい?」


「はい、物心つく前に亡くなったと」


「そう。私が紅音にそう教えたんだ」


「……」


「私の妻は、聡明で美しい女性だった。若くしてこの地に開業した私たちは、少しでも地元の人たちに貢献できれば、そんな理想を抱いて共に頑張ってきた。


 そしてしばらくして、妻は紅音を産んだ。知っての通り、紅音は生まれた時、全く色のない体だった。真っ白で、まるで穢れを持たない天使のようだと私は思った。

 私は紅音を、心から愛した。


 しかし妻は……紅音のことをいつも気味悪がっていたように思う。彼女はいつも私に『紅音の目が不気味で怖い』そう言っていた。


 愛する娘、紅音を遠ざける妻の態度に、いつしか私の心は妻から離れていった。

 それがいけなかった……今でも後悔している。彼女にとって、私は唯一頼れるべき存在だったんだと思う。その私の心が離れていくのを感じた妻は、日に日に精神を病んでいった。口数も少なくなり、部屋から出てこないようになっていった。そして時折、近付いてくる紅音に対して大声で罵るようになった。『近付かないで!』とね……」


「……」


「そして紅音が十歳の時、それは起こった。妻がこの家から出て行くと私に言った。最早妻の様子は普通ではなく、私も、その方が妻にとっても紅音にとってもいいのかもしれない、そう思った。


 しかしその時、紅音が大声で泣きながらやってきた。『お母さんごめんなさい』『いい子にするから、何でも言うことを聞くから行かないで』そう言って、妻にしがみついて泣いた。


 これまで妻は、紅音に対して母親らしいことを何一つしていないと言ってもよかった。紅音を不気味に思い、日を追うごとにその態度を露骨にしてきた。なのに、紅音はそんな母親に懇願している。私の胸も張り裂けそうになった。娘にとって、母親はたった一人。なのに今まで、どれだけ辛く寂しい思いをしてきたことだろう……妻に対してよりも、何一つ解決しようとしてこなかった自分自身への怒りが強く湧き起こった。


 私は家族三人、もう一度やり直さないか、そう妻に言った。多分あの時、私は泣いていた。しかし妻は紅音を振りほどき『お前のせいだ、全部お前のせいなんだ!』そう言って紅音を罵倒した。


 私は床に倒れた紅音の元に走って抱きかかえた。そして私たちに背を向け、立ち去ろうとする妻に向かって言った。『今の紅音の言葉、お前には聞こえなかったのか?』と……」


 柚希の胸がズキズキと痛む。


 まるで、自分の過去に起こった苦しい出来事をひっくり返されたような、そんな気持ちになっていた。


「その時……その時だった。紅音の異変に気付いたのは……」


 突然明雄の声が小さくなった。


 柚希が明雄を見ると、そこには驚きと恐怖が混在した、明雄の瞳があった。




「突然私は、部屋の空気が冷たくなるのを感じた。それは自然な冷気ではない、初めて感じる物だった。そして腕に抱いている紅音を見て、私は驚愕した。


 紅音の髪が動いていたんだ。小刻みに、重力に逆らって波打っていた。まるで……そう、髪の毛一本一本が生きているかの様に見えた。紅音はうつむいたまま、私の手から離れてゆっくり立ち上がった。


 妻もその異様な気配を感じて振り返った。その妻に、紅音は言った。『行ってしまうんだ……お母さんは行ってしまうんだ……私のこと、いらないんだ……』と……

 妻は紅音の雰囲気に驚き、怯えてその場で膝から崩れた。腰が抜けたと言った方が正しいかもしれない。


 妻はそのまま、紅音から遠ざかろうとした。その妻に向かって、紅音は静かに、ゆっくりと近付いて行った。私自身も、その異様な雰囲気に体が動かなくなっていた。耳には妻の『来るな!来るな化物!』と紅音を罵倒する声が聞こえた。


 紅音は、妻のすぐ傍で立ち止まるとこう言った。

『なら……お母さんなんて、いらない……』」



 柚希は息が出来なくなっていた。


 手はまるで、血が止まってしまったかのように冷たくなっていた。


 頬を冷たい汗が流れたが、それを拭うことも出来なかった。



「紅音がそう言うと同時に、妻の叫び声がした。それは長い長い叫びだった。これ以上にない恐怖と絶望の叫び声だった。そしてその声が途絶えると同時に、紅音はその場に倒れた。

 私は紅音の元に駆け寄った。さっきまで感じていた冷気がなくなっていたことも、その時には気付かなかった。


 そこで私が見た物……私は生涯あの光景を忘れられない。妻が……妻は……驚愕の表情を浮かべたまま……石になっていたんだ……


 余りの状況に、私はどうにかなってしまいそうになった。自分が理解できる許容範囲を超えていた。震える手で妻の頬に触れると、固く冷たい感触が伝わってきた。そしてしばらくすると、妻の体は一気に崩れた……砂に……砂に帰っていったんだ……


 私は頭を抱えて絶叫した。それが恐怖からなのか、哀しみからなのか分からなかった。ただあの時自分には、そうすることしか出来なかったんだと思う。


 しばらく私は、砂になってしまった妻の前で泣き叫んだ。正直言って、よくあの時に気がおかしくならなかった物だと思う。しかし私には、砂となってしまった妻のほかに、もう一人守らなければならない娘がそこにいた。それが私を、ぎりぎりの所で立ち止まらせてくれたんだと思う。


 紅音の呼吸、脈は正常だったが、体が驚くほど冷たくなっていた。そして何度声をかけても、意識が戻らない。私は紅音をベッドに運び、その頃から私の所で働いていた晴美くんに連絡したんだ」



 柚希は混乱していた。


 紅音が子供の頃に死別したと言っていた母……実はその母を紅音が石に変えた……映画好きな早苗が飛びつきそうな、あまりにも荒唐無稽な話だった。


 だが、それを語る明雄の目は、嘘を言っている目ではなかった。


 そして今の話の中で、先日柚希自身が体験したこととの類似点もあった。


 突然襲ってきた冷気、豹変する紅音、石化したミツバチ……以前の柚希ならば一笑していたかもしれないが、今の彼にとっては気安く否定できる物ではなかった。




「今までの話を聞いて」


 明雄が言葉を続けた。


「どうだね柚希くん。こんな馬鹿げた話、本当にあったと受け入れられるかね」


「……」


「余りに突拍子もない話だ。信じろと言う方が無理だと思う。無論こんな話、これまで誰にもしたことはない。私と晴美くん以外、妻の死の真相を知る者はいないんだ」


「……紅音さんは」


「紅音はその後、三日三晩目を覚まさなかった。深い眠りで、外からの刺激に対しても一切反応がなかった。

 しかし三日目の朝、まるでいつもの目覚めの様に、自然に起きてきたんだ。私は慎重に、紅音にあの日のことを聞いてみた。しかし、紅音は何も覚えていなかった。

 それ所か驚いたことに、紅音の記憶から、妻のことがすっぽりと抜けていたんだ。まるで妻が存在すらしていなかったように……だから紅音は、自らの手で自分の母親を殺めたことを覚えていないんだ」


「……」


「そして妻の遺体……砂は、一部をサンプルとして残して庭に弔った」


「……先生の今のお話、僕は信じます。勿論全てを受け入れられたとは言えません。ですが僕も……この前紅音さんの様子が変だった時のことを思うと……」


「ああ、そうだね。全てを受け入れることは無理かもしれない。そしてそれは、無理矢理することでもないと思う。ただ、私が知っている紅音のことを、君には知っていてもらいたい、そう思ってる」


「はい……」


「話を続けよう……私の人生は、あの日を境に大きく変わった。紅音に発現した能力、それはとてつもなく危険な物だ。紅音はその能力で、一人の人間をこの世から文字通り消し去った。

 どの様な理由であれ、それは犯罪だ。私には警察に全てを話し、紅音の身柄を保護してもらう義務があった。だが……誰がこんな話を信じてくれるだろう。それに、例え信じてもらえたとして、紅音はどうなってしまうのだろうか……施設に収容され、研究対象、実験材料にされてしまうだけではないのか?


 例えどんな異能の力を持っていたとしても、紅音は私のたった一人の大切な娘だ。私の残りの人生全てを費やしてでも、紅音を守っていきたい、そう思った。


 私は、妻の死を隠蔽することにした。妻の実家には、妻が失踪したと伝えた。そのせいで紅音は情緒が不安定になり、妻に関する記憶が曖昧になってしまった、だから妻は病気で昔死んだと教えている、そう説明した。


 それから私の研究は始まった。紅音の能力について、あらゆる文献から、似たような症例はないか調べ続けた。

 しかし……調べれば調べるほど、紅音のその能力はとんでもない方向へと結びついていった」


「……」


「そんな中で、紅音の能力に一つの法則があることが分かった。それは、紅音の情緒が不安定になった時、発現しやすくなるということだった。

 紅音は元々、環境の変化に対応することが苦手な娘だった。周囲に同調しようとすればする程、紅音のストレスは大きくなっていく。だから私は、出来るだけ変化の少ない環境に紅音を置くことを決めた」


「それが、紅音さんが学校に行かなくなった理由……」


「紅音は、自分が病弱だからだと思っているがね……しかし紅音は、私のことを心から信頼してくれている。紅音は私の言葉に従ってくれた。


 しかしどんな生活をしていても、人間である以上ストレスは存在する。紅音にとって、変化に乏しい毎日と言う物も、それはそれでストレスに感じるようだった。私が紅音とこれまで過ごしてきて、人を殺めてしまったのは妻一人だけだ。しかしこれまで、何度となく紅音は、その姿を変貌させている。だから私は、紅音の情緒を安定させる為、投薬することにした」


「精神……安定剤……」


「環境と内面をコントロールすることで、私は紅音の能力を封じ込めようとした。そしてそれは、思っていた以上に効果があった。紅音は、静かで穏やかな生活を送れるようになっていった」




 柚希の中での謎が解けていく。


 なぜ明雄は紅音を家に閉じ込めていたのか、なぜ紫外線防止の為と偽って、精神安定剤を処方していたのか。


 しかしそれらの疑問が解消された時、柚希の中に新たな疑問が生まれた。

 確かにそれは、紅音と紅音の周囲の人たちを守ると言うことにおいては、結果を出しているのかもしれない。


 しかし、そこに彼女の意思はあるのだろうか?

 狭い世界で生きることを余儀なくされ、時折頭の中に白い靄がかかっている、そんな風に感じてしまう薬を投薬され、感情を押し殺された彼女の生活は、それでも幸せだと言えるのだろうか、と。



「ある時、私は紅音の違う能力を目にすることになった。それは紅音が十三歳になった時のことだった。紅音は庭で、傷だらけのコウと出会った。その時紅音は、久しぶりに、本当に久しぶりに感情をあらわにした。崩れるコウを抱きかかえて泣いた。そして……無意識の内に左手を木にかざして、右手でコウを抱くと、見る見るうちにコウの傷は癒えていった。そして木から……まだ新緑だった葉が次々と変色していき、はらはらと落ちていった。

 紅音の髪は揺れていた。またあの能力が……そう思った時、紅音はそのまま気を失い、また眠りについた。


 私はこの時思った。紅音の中に眠るこの不可解な能力は、確かにいびつで誰人からも理解されない恐ろしいものかもしれない。だが、全ての事象に表と裏がある様に、紅音の能力にもまた、人を救える能力が隠されているのではないかと」


「僕も……何度も助けられました」


「……柚希くん」


「はい」


「これまでの話を聞いていて、君の中に何かが形になってはいないかね?」


 その問いに、柚希の体がピクリと動いた。


「私がこれまで調べてきた中で、何の矛盾もなく、紅音の症例を説明できる物が一つだけあった」




 柚希には、自分の中にある存在を言葉にすることが出来なかった。

 言葉にすることで、その荒唐無稽な存在を認めてしまうことになる、それが嫌だった。


 明雄はそんな柚希の思いを感じたのか、自らその言葉を口にした。


「神話に出てくる異形の魔物……」


「先生……」




「――メデューサだよ」




 柚希の脳裏に、その怪物の姿が映し出された。


 柚希が愕然とした表情で天井を見上げた。

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