第19話 壊された日常 その4


「……」


 目蓋が重かった。

 開けようとしても中々開けられない。

 恐らくかなり腫れてきたんだろう、柚希がそう思った。


 あれからどれくらい時間が経ったのか、自分でもよく分からなかった。

 意識が戻ってから、自分の身に何が起こっていたのか、そして今、自分がどこにいるのかを考えていた。


 しばらく記憶が混濁して、子供の頃のことがつい最近のことのように感じたり、最近のことを昔のように感じたり、今自分がいる場所が、かつて父と住んでいたマンションかと思ったりしていたが、体中に感じる痛みと頭の重さが、皮肉にも今置かれている状況を思い出させてくれた。


 もう一度目を開けようと試みると、うっすらと目蓋が開いた。

 視線の先には、見慣れた天井が映った。

 ここは自分の部屋で、今自分はベッドで寝ているんだと理解した。


 その時、ガラガラと氷が水の中でぶつかる音が近付いてきたかと思うと、ふすまが開く音がした。




「あ……」


 聞き覚えのある声が聞こえた。


「柚希……やっと気がついた……」


 早苗だった。


 しかしその声の調子は、どこか弱々しさを感じさせる物だった。


 ふすまを静かに閉めた早苗が、テーブルの上に洗面器を置き、ベッドの傍らに座った。


 どうやら先ほど聞いた氷の音は、自分を介抱するために早苗が用意してくれていた物だと言うことを、柚希は理解した。



「具合、どう?」


「うん……まだちょっと、ぼんやりしてる……かな……」


「柚希ってば、玄関の前でいきなり倒れて……どれだけ呼んでも起きないし、体中傷だらけだったし……」


 そうだ、傷……そう思って柚希が腕を伸ばしてみると、包帯が巻かれているのが見えた。


 その手で頭を触ってみると、頭にも巻かれているようだった。


「これ、早苗ちゃんが?」


「う、うん……病院に連れて行こうかどうか悩んだんだけど、変ないびきとかかいてないから大丈夫だろうってお父さんが言って……今日も目が覚めなかったら、病院に電話しようと思ってたんだ。でもとりあえず、私が出来る範囲で応急処置したんだ」


「……ありがとう、早苗ちゃん。それから、ごめん……」


「もおっ、怪我人が変な気をつかわないの。ちょっと待ってね、今タオル替えるから」


 そう言って早苗が額に乗っていたタオルを取り、洗面器につけた。


 ガラガラと氷のぶつかる音がする。


 そしてタオルをしぼると、再び柚希の額にそっと乗せた。


「気持ちいい……」


「そう?よかった」


 早苗がにっこりと笑う。


 その笑顔を見て、柚希は自分の顔が赤くなるのを感じた。


 それを悟られまいと視線をそらした時、早苗の手が視界に入った。


 早苗の手は真っ赤になっていた。


 所々に赤切れも見える。


「え……」


 柚希がそう声を漏らしながら、その手を握った。


「え?え?ちょ、ちょっと柚希、どうしたのよ」


 柚希の突然の動きに、早苗は体中が火に包まれたように熱くなるのを感じた。


「早苗ちゃん、これって僕の……看病で……?」


「ちょ、ちょっと待って柚希、とりあえず手を……」


「あ、ご、ごめん……」


 早苗の声に柚希が慌てて手を離した。


 早苗は赤面してうつむいた。


「早苗ちゃん……僕、どれぐらい寝てたのかな」


「あ……う、うん……倒れたのは昨日の夕方で、そして今は夜の七時だから……丸一日とちょっとかな」


「……」


 早苗の応えに柚希が少なからず驚いた。


 いかに傷ついていたとは言え、一日中眠りから覚めなかったなんて……


「疲れもあったんだと思うよ。柚希ってば、こっちに来てからずっと気を張ってたでしょ。新しい環境、新しい人間関係、隣には口やかましい同級生が住んでるし」


「いや、そんなことは……」


「ふふっ……でも本当、こっちに来てからのあんた、すごく頑張ってたと思うよ。そしてそれを見せないように生活してた。辛いことがあっても、全部自分で抱え込んで」


「……」


「だから疲れて当然。怪我のせいもだけど、ちょっと休みなさいって体が言ってくれたんだよ、きっと」


 そう言って早苗が再び笑った。


「早苗ちゃん、ひょっとして一日中僕のこと、看てくれてたの?」


「まぁ、一日中ってのは大袈裟だけど、それなりに」


「ごめん……」


「だーかーら、怪我人がそこで謝るんじゃないの。大変な時ぐらい、ちょっとは世話焼かせてくれてもいいでしょ。大体あんたってば……」



 目が覚めてから、早苗は努めていつもの自分を取り繕おうとしていた。

 しかしそれが無理なことは、まだ頭が朦朧としている柚希にも見て取れた。

 いつもの調子で明るく話そうとすればする程、早苗の声は震えていた。

 そして、その強がりも限界にきていた。



「あんたってば、ちょっとは私のことを……頼ってよ……」


 早苗の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれてきた。


「あ……」


 早苗が、視線を落としたまま囁く様に言った。


「あれ……おかしいな……さっきまで大丈夫だったのに……あんたの前では泣かないって決めてたのに……あははっ、なんで……なんで私の目、言うことを聞いてくれてないの……」


「早苗ちゃん……」


 柚希が早苗の頭をそっと撫でる。


「駄目……駄目だよ……柚希の方が痛くて辛くて……柚希が泣くのを我慢してるのに、なんで……なんで私……」


「ごめんね、早苗ちゃん……ごめん……」


「だから……なんであんたが謝って……」


 湧き上がってくる感情を、早苗には最早抑えられなかった。


 柚希の手のぬくもりが、張り詰めていた物を一気に爆発させた。


「うわああああああっ」


 早苗が柚希の枕元で、大声をあげて泣き叫んだ。


「ごめん、ごめんね柚希っ」


「早苗ちゃん……」


「うわああああああっ」




 しばらくして落ち着いた早苗が、顔を洗って戻ってきた。


「落ち着いた?」


「うん……」


 少し照れくさそうにうつむきながら、早苗が小さくうなずいた。


 早苗は再び柚希の傍らに座った。


 その早苗の頭を柚希が撫でると、早苗は顔を赤くしてシーツに顔を押し付けた。


「……ったく、この部屋に来たら私ってば、泣いてばっかりじゃない」


「そう言えば……そうなのかな」


「そこは、そんなことないよって言えないかな」


 そう言って早苗が柚希の耳を引っ張った。


「いたたたっ、早苗ちゃん耳、耳痛いって」


「へへーん、柚希の手当てしてて分かってるんだから。ここは怪我してないところだから、遠慮なく私が責めてもいいんだよ」


「そんな無茶な……」


「あははっ……ねえ柚希」


「何?」


「私、いつも柚希のことを見てた。柚希がここで新しいスタートを切れるように、そのことをずっと考えてきたつもり。でも柚希は、辛いことがあっても苦しいことがあっても、何一つ私に話してくれなかった」


「……そんなこと」


「ううん、聞いて柚希。私は柚希と過ごしたこの四ヶ月、本当に楽しかった。柚希はその……今まで知り合ったどの男子とも雰囲気が違ってて……なんて言うか……私が私らしくいられるって言うか……」


「早苗ちゃ……」


「……って、何言わせるのよ!」


 そう言って早苗が再び柚希の耳を引っ張った。


「痛い、痛いって」


「……っとにもぉっ」


「いや、今のは早苗ちゃんが話し出したことで、僕は何も悪くないと思うんだけど」


「お・だ・ま・り」


「理不尽だよ……」


「……とにかく、私は柚希のこと、家族の一員としても気に入ってるのよ、わかる?それでね、その……私は私自身をその……あんたに全部見せてるつもりなの。でも、柚希は……」


「……」


「柚希。柚希にとって私は、まだ信頼に足らない人間なのかな」


「そんなこと……」


「本当に?」


「勿論だよ。誰も知らないこの土地に来た僕のことを、ずっと見守ってくれて、世話を焼いてくれて」


「でも、柚希ってば、全然私を頼ってくれないよ」


「それは……」


「私が女だから?私じゃ解決できないから?それともやっぱり、私のことを信頼できないから?」


「違う、それは……違う……」


「だったら……」


 早苗が柚希の耳元にまで顔を近づけてきた。


 耳元で早苗の吐息が聞こえる。


「力にならせてよ。私、柚希の力になりたいんだから……」


「さ……」


 早苗がそのまま、柚希の頭を抱擁した。


 早苗の細い腕が柚希を包む。


「柚希……聞かせて欲しいことがいっぱいあるんだ、私……」


 早苗の抱擁に一瞬柚希は動揺した。


 しかし気がつくと、自分でも不思議なくらい穏やかで、温かい気持ちになっていることを感じた。




「柚希の話、いっぱい聞きたい……柚希はどんな歌が好きで、どんな色が好きで……どんな時に哀しい気持ちになるのか、どんなことをすれば楽しいのか……私、柚希のことを、もっともっと知りたいんだ……」


 早苗の言葉一つ一つが、柚希の心を温かく満たしていく。


「それは無理なの……かな……」


「……ごめん……僕、知らないうちに早苗ちゃんのこと、傷つけてたみたいだね……」


「傷ついてはいない……よ……」


「僕、自分のことをそこまで考えてくれる人がいなかったから、どう接したらいいのか分からなくて……」


「そんなことないよ。柚希、こっちに来た頃と比べたら、随分と変わったよ」


「そうかな?」


「うん。お父さんも言ってたから大丈夫」


「ははっ……おじさんにまで、変な心配かけちゃってるのか……」


「お父さん言ってたよ。柚希は自然に笑えるようになったって」


「自然に笑う……そっか、そうかも……ここに来て、早苗ちゃんの家族と出会って、家族ってこういう物なんだって感じて……こんな僕を受け入れてくれる人がいる、そう思ったら幸せな気持になって……」


 三度みたび早苗が、柚希の耳をつかんだ。


「いたたたっ……えっ?早苗ちゃん、なんで?」


「私の前で二度と『こんな僕なんか』なんて言わないで。そんな風に自分を貶めてどうするのよ。自分のことは自分で守ってあげなさい」


「自分で……」


「そう。いい?もし柚希が柚希じゃないとして、人が柚希のことをそんな風に言ったらどうする?怒らない?」


「それは確かに……いい気はしないかな、人の悪口は……」


「でしょ。例え自分であっても、悪口に変わりはないんだよ。そんな風に言ったら、柚希がかわいそうだよ」


「僕が……」


「そう。自分のことを嫌になった時は、一旦自分のことを他人と思うの。そうしたら、ちゃんと自分のことを理解してあげられるから」


「なるほど……」


「これね、私が落ち込んだ時にあみ出した技なの。柚希には特別に教えてあげる」


 そう言って早苗が小さく笑った。




「でね、柚希……私が今から聞くこと、正直に答えて欲しいんだ……」


 早苗が何を聞きたいのか、柚希は分かっていた。


 そして、そのことを隠し通すことが出来ないことも、柚希は理解していた。


「その傷、どうしたの……」


「……だよね、それだよね……」


 柚希が視線を天井に向け、小さく息を吐いた。


「柚希、あんたがこっちに来てから、色々トラブルに巻き込まれているのは分かってる。でも柚希はそれを言うことをいつも嫌っていた。だから私も、深く聞くべきじゃないんだって思って我慢してた。でも……その傷は限度を超えてると思うんだ……」


「山崎くんだよ」


「え……」


 あっさりと犯人の名前を口にした柚希に、早苗が驚いた。


 これまでどれだけ聞いても頑なに拒んでいた柚希が、初めて今、躊躇なくその名前を口にした。


「……早苗ちゃんの言う通り、確かにこの怪我は限度を超えてると思う……それに早苗ちゃんと色々話をしてて、僕も……どう言ったらいいのかな、自分の気持ちを素直に聞いてもらいたいって思ったから……今の早苗ちゃんに嘘はつけない、かな。はははっ」


 そう言って小さく笑った柚希に、また早苗の胸は熱くなった。


 これまでとは違う、何か凛々しさのよう物を早苗は感じた。




「全部話すよ、早苗ちゃん……」

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