第17話 壊された日常 その2


 その後二人は、木の下で肩を並べて座り、夕陽をみつめていた。

 特に言葉を交わすこともなく、手を握り合い、互いの存在をそのぬくもりで確かめ合っていた。

 ずっと握り合っているうちに、自分の手の感触がどこまでなのか分からなくなっていき、互いが一体になっていくような錯覚さえ感じていた。

 時折見つめあうと、どちらからともなく唇を求め合い、何度も何度も重ねあった。

 ここに来るまでの葛藤が嘘のようだった。

 今柚希の中にあるのは、これまで経験したことのない安息感だった。



 柚希は紅音に夢中になっていた。

 自分の中に沸き起こってくる紅音へのこの想い、それが紅音のことを一人の女性として想い、恋しているのだ、そう気付くのに時間はかからなかった。

 この気持ちを紅音に伝えたい、その気持ちは日に日に強くなっていき、柚希は期末試験が終わり、夏休みに入る前に告白しよう、そう心に決めたのであった。


 試験期間に入ると、紅音と会えない日が続いた。

 学校が終わると一目散に家に帰り、早苗の部屋で勉強会、そして帰宅してからも遅くまで勉学に没頭した。

 この試験が終わったら告白する、そう決意した彼にとって、試験の結果も重要だった。

 紅音のことを好きになり、そのことで勉学がおろそかになり成績が下がることは、彼にとってもっとも許せないことであったからだ。

 それは紅音の評価を下げることになってしまう。

 少なくとも柚希は、好きな人が出来たからこそ、その相手の為にもこれまで以上の成績をつかみたい、そう思っていた。

 学校のこととなると、紅音も快く応じ応援してくれた。

 紅音の思いに応える為にも頑張ろう、柚希は心に強くそう思った。




「いいか、明日から試験休みに入るがまだ夏休みじゃないからな、気を抜くんじゃないぞ。それから分かってると思うが、今回赤点の者には追試があるからな」


 試験の出来が芳しくない者にとっては、死刑宣告とも取れる残酷な言葉を残し、教師がプリントを持って教室から出て行った。


 その瞬間、緊張感が張り詰めていた教室内に、一斉に溜息と歓声が上がった。


「終わったぁ……」


 柚希が、大きく伸びをしながらそうつぶやいた。


 時計を見ると三時、約束の時間までまだ一時間あった。


 しかし今の柚希に、約束の時間まで待っている心の余裕はなかった。


「柚希ぃ、お疲れ。どうだった?」


 慌しく筆記用具を鞄に詰め込む柚希に、早苗が声をかけてきた。


「うん、まあ……ぼちぼち……かな」


「ふふーん、そっかぁ、ぼちぼちかぁ……このっ!余裕みせやがって!」


 そう言って早苗が柚希にヘッドロックをしてきた。


「ギギギギ、ギブギブ、ギブだって早苗ちゃん」


「まあその調子じゃ、今回もやられたかも……ね。でも柚希、そうやって余裕してるのも今だけだからね。次はそうはいかないよ。この早苗様の本気、あんたに見せてやるから」


「……うん、覚悟しておくよ」


「その為にも夏休み、しっかり勉強に付き合ってもらうから」


「ええっ?でも試験、終わったよ」


「何言ってるのよ。今回は今回、これからはこれからでしょ」


「なになに早苗、あんた藤崎君と一緒に勉強してるの?」


「ええーっ、小倉それってまさか、藤崎の家で二人きりで?」


 二人の会話を聞いていたクラスメイトたちが、近寄って話に入ってきた。


「あんたたち、いつの間にそんな関係になったの」


「藤崎……俺はお前のこと、信じてたんだぞ」


「ちょ、ちょっとちょっと、何言ってるのよみんな。何妄想してるのか知らないけど、私と柚希はそんなんじゃないから。ただ試験の間、私の家で柚希に勉強を教えてもらってただけなんだから」


 クラスメイトの突っ込みに、早苗が慌てて弁解した。


「でもそれって……早苗の部屋で二人っきり、なんでしょ?」


「だーかーらー、家には父さんも母さんもいるんだから。変なことだってしたくても出来る環境じゃないから」


「変なこと?」


「したくても?」


「あ……いやあのその……今のは例えての話で……もおおっ!何なのよあんたたちはっ!」


 顔を真っ赤にした早苗が、両手で顔を隠して叫んだ。その反応に周りから笑いが起こった。


「早苗ってば本当、かわいいよねー」


「うんうん。藤崎、しっかり責任取るんだぞ」


 試験から解放されたクラスメイトたちのテンションは高く、教室のあちこちから二人を冷やかす笑いが起こった。


 顔を真っ赤に動揺している早苗の表情も明るく、それを見ている柚希も自然と笑顔になった。




 周りの冷やかしもひと段落し、早苗が軽く深呼吸をすると柚希に向かって言った。


「で、柚希。今からどうするの?私は部室に顔出すんだけど、多分すぐに帰れると思うんだ。ちょっと待っててくれたら一緒に帰れるけど」


「あ、ごめん……僕はちょっと、今から用事があるんだ」


「用事って……何?」


「いやあの……そう、写真。しばらくカメラも触ってなかったから、今日はちょっと寄り道して……」


「ふーん……」


 目を泳がせながら話す柚希を、早苗が不信そうに見る。


 早苗の視線に、柚希の目はますます泳いだ。


「そっか。じゃあまた後でね。晩御飯までにはちゃんと戻るんだよ」


 しばらく柚希の目を凝視した早苗が、そう言って柚希の頭を大袈裟に撫でた。


「あんまり遅くまで寄り道しちゃ駄目だぞ」


「うん……」


「じゃねっ」


 そう言って早苗は教室から出て行った。


 柚希は早苗の誘いを断ってしまったことと、その為に思わず嘘をついてしまったことに、少し良心が痛むのを感じた。


 しかし教室の時計を見て、約束の時間まであと三十分になっていることに気付くと、鞄を手に慌てて教室から出て行った。




 柚希が息を切らせながら走っていた。

 試験明けの体にこの速度はかなり無理があったが、柚希の足は止まらなかった。紅音への想いがそれを遥かに上回っていた。


(紅音さん……)


 紅音の顔を思い浮かべる。

 これから紅音に会って、自分の想いを伝えるんだ……そう考えると、息切れから来る動悸とは別な意味での、胸の高鳴りを感じていた。


 曲がり角に差し掛かった。

 この角を曲がれば土手路に出る。

 もうすぐだ、柚希の気持が更に高ぶった。

 その時だった。




「素通りかよぉ」




 背後から聞き覚えのある低い声が聞こえた。

 柚希が慌てて振り返ると、壁にもたれかかり座っている、三人の男の姿が目に入った。

 一人が気だるそうに立ち上がり、くわえていた煙草を吐き出すと、柚希にゆっくりと近付いてきた。


 山崎だった。


「おい藤崎、何急いでるのか知らねぇが、素無視ってのはどうなんだ?」


 柚希の汗が一気に凍りついた。


 ニタニタと笑みを浮かべて近付いてくる山崎のそれは、明らかに柚希に身の危険を感じさせた。


「あ……ご、ごめん……急いでて気付かなくて……」


「ああ、急いでたのは見てりゃ分かるさ。体育の授業に出たことのないお前が走ってたんだからな」


「うん……ご、ごめん……」


「あん……?よく聞こえなかったなぁ。何だって?」


 山崎が、息がかかるほど顔を近づけて柚希の目を見据えた。


「学年一位の秀才様は、俺らみたいなとは話も出来ないってか?」


 気がつくと、他の二人に背後を取られ、柚希は三人に囲まれていた。


「藤崎……お前、最近調子に乗ってねえか?」


「ちょ……調子って……」


「ああそうだ、調子だよ。転校してきた頃は随分と大人しかったのになぁ、最近お前……ちょっとはしゃぎすぎなんだよっ!」


 下腹部に重い衝撃が伝わってきた。山崎の拳だった。


「が……」


 柚希の口から、声にならない声が漏れた。


 その衝撃に柚希の膝は折れ、その場に前屈みでうずくまるように倒れこんだ。


「げほっ、げほっ……」


 額から脂汗がにじんできた。


 と同時に、口からは吐瀉物が勢いよく吐き出され、それが山崎の足元にかかった。


「てめえ……」


 今度は脇腹に衝撃が走った。


 足元を汚された山崎が、力任せに柚希の脇腹を蹴り上げたのだ。柚希の肋骨が悲鳴を上げる。


「なめてんじゃねえぞっ!」


 怒声と同時に、三人が一斉に柚希に攻撃をくわえてきた。


 柚希の全身に衝撃が走る。


「立てやおらぁっ!」


 背後から襟元をわしづかみにされ、力任せに状態を反らされた。


 顔が正面を向くと同時に左頬を殴り飛ばされた。


 その衝撃はすさまじく、柚希の意識が一瞬消し飛んだ。


 力が抜けて上半身がだらんとしたが、後ろから襟をつかまれているせいで、体はまだ反り返っている。


 その柚希の右頬を、山崎が渾身の力をこめて蹴り上げた。


「……!」


 山崎の蹴りの勢いで、柚希の体が壁に激突した。


 地面に倒れこんだ柚希がむせ返るように咳き込むと、吐瀉物が血反吐に変わっていた。


 口の中もあちこちが切れている。


 頭が重く、今、何がどうなっているのか、分からなくなった。


「どうだ藤崎、ちょっとは昔を思い出したか。お前みたいな屑はな、どこに行ってもこうなんだよ」


「な……なんで……」


「あん……?」


「……何も、何もしてないのに……何でこんな目……に……」


「お前みたいなやつはな、ただそこにいるだけで目障りなんだよ」


「……」


「嫌なら……さっさと死ねっ!」


 その言葉と同時に、山崎が柚希の顎を蹴り上げた。


 柚希の頭がゆっくりと空に弧を描き、そして再び地面に落ちていった。


「へっ」


 朦朧とする意識の中、山崎たちの遠ざかっていく足音が聞こえる。


 やがてその音も消え、辺りを静寂が包んだ。




 口の中一杯に血の味が広がっていた。


 体全体が熱っぽく、全身が痛んだ。


 心臓の鼓動が体全体を覆い、柚希は、自分の体がまるで肉の塊になっているかの様な錯覚を覚えた。


 呼吸は小刻みで、時折むせ返るように咳き込み血を吐いた。


「……」


 気がつくと、柚希の両眼からぼろぼろと涙がこぼれていた。


 しかし柚希には、その涙が何を訴えているのか分からなかった。



 情けないから?

 傷が痛むから?

 辛いから?



 自らに問い、浮かんでくる答えを頭の中で何度も回していく中、いつしか涙は嗚咽へと変わっていった。


 そしてその嗚咽の意味すら、今の柚希には分からなかった。

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