第7話 天使と天使の組み合わせは、天国に違いない

 存分に美術館を堪能して、ほくほく笑顔の紗代さん。

 美術館を出たらすかさず手をつないだけど、だんだん慣れてきたのか、手をつなぐだけではゆでダコにはならなくなってしまったようだ。

 あの作品はああで、このアーティストはどんな人でと楽しそうに教えてくれる紗代さんの横顔を目の端に捉えながら、なんだか心が満たされて、俺の表情筋は自然と笑顔で固定されている。


 信号待ちのタイミングで、ふと何かに気付いたように俺を見上げて、紗代さんが首を傾げた。


「これ、お礼になってないよね?」

「どうして?」

「だって、私ばかりが楽しくて。チケット代も払ってもらっちゃったし……」

「そっか。紗代さんがそう感じるなら仕方ないね。明日の予定は?」


 よくわからないと首を傾げたまま、律儀に彼女は答えてくれる。


「明日は、布団干して掃除して、チロちゃんと公園で遊ぶの」

「楽しそう。いいな。俺もチロちゃんと遊びたい」


 俺の発言の意図に気付くことなく、彼女はいかにチロちゃんがかわいいのかを話している。

 そしてまたふと何かに気付き、俺の顔を見た。


「これ、私たち、どこに向かって歩いてるの?」

「散歩。大さん橋まで行こうかなって。紗代さんが歩けるなら、山下公園でもいいけど」

「ダイエットしてから体力付いたから、歩けると思う」

「なら良かった。でも、もし足が痛くなったりしたら、遠慮なく言ってね」

「うん。ありがとう。……私、お金払ってないのに、ヒロトくんの時間をひとりじめしちゃって、いいのかな?」

「今日の俺は、アールイーのヒロトじゃなくて本郷大翔だから。俺が使いたいように時間を使って、それに紗代さんが付き合ってくれてるんだよ」

「私といて、楽しい?」

「めちゃくちゃ楽しいよ。好きな人と手をつないで歩いてるんだから、幸せだし」

「本郷さんでも、するりとそういうこと言っちゃうんだ?」

「本音だからね」


 なぜだか不満そうに、彼女は口をつぐむ。


「どうしたの?」


 足を止め、彼女の顔を覗き込んで聞いたけど、視線をそらされた。


「私は、バカだと思う」

「突然、どうして?」


 彼女は答えず、唐突に、俺の胸へと飛び込んだ。


「本郷さんに、ぎゅってされたい」

「……紗代さんに許可してもらえるなら、喜んで」


 細い体を腕の中に閉じ込めて、彼女の耳へ頬を擦り寄せる。

 好きな女性を抱き締められる幸福に浸っていた俺は、この時の彼女の心境に、気付くことができなかった。


 ここから、俺と彼女の拗れた恋愛が始まったんだろうと思う。



   ※



 手早く家事を片付け、動きやすい服に着替えて帽子をかぶり、室内で保管しているロードバイクを担いで外へと出る。


 昨日は、夕飯を食べずに長津田まで紗代さんを送って、デートは終了した。

 お礼になっていないことを気にした彼女の良心を利用して今日の約束を取り付けたんだから、立派に俺も悪いやつだ。だけど、こうでもしないと紗代さんとのつながりは、簡単に切れてしまう。


 彼女に、他の男が触れるなんて想像したくもない。

 愛らしいあの笑顔が俺以外の男の心に住み着くのも許せない。

 彼女の初めてが、他の男に奪われるなんて耐えられない。


 醜い嫉妬の塊だ。


「紗代さん」


 もふもふのわんこを抱えて待ち合わせ場所である公園の入り口に立っていた彼女の姿を見つけて、心が弾む。


「本郷さん。自転車で来たの? 遠くなかった?」

「うちからここまで三十分もかからない距離だから、大丈夫。その子がチロちゃん?」

「そう。チロ、今日はこのイケメンのお兄さんが一緒に遊んでくれるんだよ。ご挨拶する?」


 地面に降ろされたホワイトゴールドのシーズーが、土の匂いを嗅いでいる。俺の存在には、全く気付いてないみたい。


「とりあえず、自転車停めてくるね」

「うん。いってらっしゃい」


 今日の紗代さんも、めちゃくちゃ魅力的だった。

 これまでのデート服とは違い、今日は動きやすさ重視のジーンズにスニーカースタイル。日差し避けの帽子をかぶってるのも、またかわいい。


 自転車を停めてから再度合流した後は、チロちゃんが行きたい方向へ付いて回る。


 公園の匂いを存分に嗅いで満足したところで、ようやく飼い主の隣にいる俺の存在に気付いたらしく、もふもふわんこは尻尾を振りながら俺を見上げ、こてんと首を傾げた。

 思わず、ぶはっと噴き出して笑ってしまう。


「かっわいい! やっと気付いてくれた?」


 驚かせないよう、ゆっくり屈んでそっと手を差し出せば、警戒しながらも近寄ってきて、チロちゃんが俺の匂いを嗅ぐ。


「はじめまして、チロちゃん。大翔っていいます。君のママを狙う悪い虫だよー」

「な、チロに変なこと言わないで!」

「ごめんごめん」


 俺の隣に屈んでチロちゃんとの挨拶を見守っていた紗代さんが、赤い顔で怒って肩をぶつけてきた。

 その様子を首を傾げて見ていたチロちゃんも参戦してくる。

 吠えることなくピンク色の小さな舌を出して、俺の膝に前足を置いて立ち、尻尾を振っている。


「シーズーって、本当に吠えないんだね」

「うん。私も、ここまで吠えない犬が存在するんだなって、チロを飼ってから驚いてるの」


 その後は、おもちゃを使って遊んだり、追いかけっこをしたり。久しぶりに公園ではしゃぎ回った。

 チロちゃんの水分補給とおやつタイムの後で、俺と紗代さんも、芝生に敷いたレジャーシートに座って休憩する。


「こういうの、いいね」


 ペットボトルのお茶を飲みながら呟いた俺の言葉を拾って、隣に座った紗代さんも、リラックスした空気で微笑んだ。


「チロも楽しかったみたい。お昼寝モードだ」


 紗代さんの左手で撫でられながら、レジャーシートの上で体を伸ばして寝そべったチロちゃんが、まるで返事をするように「むふー」と鼻から息を吐き出した。そのままうとうと、目を閉じる。


「チロちゃん、マジでかわいいね」

「でしょう? 毎日、天使がうちにいるって思うもん」


 ふはっと噴き出して笑いつつ、お昼寝モードのチロちゃんと、愛しげに柔らかな毛を撫でている紗代さんの顔を見比べた。


「長峰家は、天国だね」

「大げさだけど、チロの親バカとしては、同意せざるを得ないかな」

「こんなに愛されて、チロちゃんは幸せだ」

「チロにそう思ってもらえるよう、チロ様の奴隷の私は頑張るよ」

「またこうして、俺もチロちゃんと紗代さんの仲間に入れてくれたら、うれしいな」


 紗代さんの右手をそっと握ったら、耳を赤く染めた紗代さんが、何も言わずに握り返してくれた。

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