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 今までの苦労が嘘のように全体の文字数は一万二万と加算されていった。それは私がある種の諦めを覚えたからなのかもしれないし、木葉ちゃんの言葉に感化されたからかもしれない。どちらにせよ、私は割り切って小説を書くことができた。小説の中の先輩は今、薬に手を染めそうになっている。最愛の人が友人に殺されて、友人も自殺をしてしまったと知ったからだ。

「もうこんな時間だ」

 昼前には授業のグループワークの課題をやりに喫茶店で集合することになっている。私の部屋の時計は十時ごろを指していた。私はアナログ時計を読み取るのが苦手だった。いつからか、苦手になってしまった。

 スマホの時計を確認して正確な時刻を知ると、おもむろに準備し始めた。新しく出来た友達と初めての課題だから、緊張と興奮が同居している。ノーパソをテーブルの端に置いて、面倒くさいと呟きながらも部屋の中を私が動きやすいように掃除する。

「十時半……」

 そろそろ出ないと、と眠かった視界も急に晴れてきて、私は家を出た。

 東京某所、大学付近の喫茶店に入ると入店を知らせる鈴が鳴って、私に気付いた友達がこっちこっちと私を誘導した。

「遅いじゃん」

 まだ名前を覚えていない女子に言われて、私はごめんねーと謝る。今日は男2、女3の構成で、このグループは半期限定だと聞いた。つまり、たった数回の授業のための仲である。私は人付き合いが得意ではないし、なんなら木葉ちゃんから流れてくる人たちのことすらまだ覚えきれていないせいで顔と名前が一致しないという状況がしばらく続いた。

 走ってきたせいでやや汗ばんだ私の元にお水が届く。みんなアイスコーヒーを頼んでいたので自分もそうした。

「なんか暑くない?」

「暑かったね。私も汗かいてたけど待ってたら涼しくなってきたよ」

 薄暑、というんだろうか。夏はもう迫ってきていて、友人関係を未だ構築できていない私は人にも時間にも置いていかれている気がした。

「で、課題って?」

 グループの男の子がそう言った。無駄話を済まして、そこから真面目な話が始まった。


「そんなに感情的になるなって」

 薄明の中、喫茶店から駅の方まで歩く道中に、私は宥められていた。

「でもさ、でもさ」

 感情的と言われたのは図星かのように私はさっきまで捲し立てていた言葉の予熱を溢す。

「あの連中だし、なんとかなるさ」

 ミーティングは夕飯時までかかった。もはやあれをミーティングと呼ぶのかすらわからない。

「そうは言っても」

「人あたりのいいのが取り柄のような奴らだぞ。締切間際には焦ってなんとか片付けるさ」

「なんでそんなわかったような口を聞くの。浩輝くん」

 私が今話しているのは、あの場にいた、もう一人の男だ。喫茶店で課題を片付けると聞いていた私からしたら、今日の出来事は時間の無駄遣いに他ならなかった。少し何かに取り掛かると雑談を始め、いい時間になったからと昼食を取り始め、結果眠くなったからといって作業は大幅に遅れた。

「ずっと同じような連中と過ごしてきたからな」

「そう言われると妙に説得力あるね」

「だから、なんとかなるってことだよ」

 彼は私が喚いていた本題に話を戻し、私はそうだね、と頷いた。

「浩輝くんはさ、秋風作品が好きなんでしょ」

「浩の方だがな」

 高身長の彼を見上げながら、ずっと聞きたかった話題を持ちかけると、私の熱は一瞬で冷めかけた。

「俺の浩輝も秋風浩の浩から来ている」

 親が好きなんだ、彼は言った。

「秋風浩、ねえ」

「読んだことあるのか?」

「まあ、有名だし。少しは」

「はは、少しか」

「少しだよ。私はあくまで諷真だもん」

「秋風浩の方が知名度は高いし、活動期間も長い。大御所だ。読んどいて損はないと思うぞ」私の機嫌が明らかに悪くなったのを見て、彼は宥めるように言った。

「雰囲気自体はいけ好かんが、物語としては面白いと思うぞ」

「諷真⁉︎」

「そう」

 やっと他に彼を知ってくれる人物に出会えた、という喜びはもちろんあったが、なぜかそこまで嬉しくはなかった。あの時、先輩と本屋で話した一瞬の方が何倍も嬉しかった気がする。

「姉ちゃんが好きそうだよな」

「姉ちゃん?」

「西宮だよ。青井のとこにいるだろ、サークルの」

「……」

「知らなかったのか?」

 少しびっくりした顔をする彼に、知らなかったことが恥ずかしいことのよう思えてきて私は顔を背ける。

「そんなことないよ、知ってる」

 否定の言葉を口にしたせいか、この前の先輩と私のラブホのやりとりを思い出す。途端に恥ずかしくなって、居た堪れなくなった。もしかしたら彼に知られているかもしれないと、その考えが浮かんだ瞬間、私は今までの彼との会話にボロを出していないかと恐怖した。

 恐怖は一瞬で私の中で凍りつき、恥ずかしさで体を火照らせた私を冷静にさせた。

「そっか姉ちゃんによろしくな」

 彼が私と先輩についてそれ以上言及するつもりはないと知って、一先ず安心する。

「あとそうだ、大学で姉ちゃんに会いそうになったら俺は逃げるからな。絶対に会いたくない」

「え、なんで?」

 彼はわかるだろ、とでも言うように私を見てきた。

「あの格好だぞ」

 ああ、そうか、と私は笑ってしまった。

「笑うなよ」

「いや、わかるなあって」

「わかってたまるか……まあ、あの人はあの人で可哀想だからな」

「それって……?」

「いや、なんでもない。忘れてくれ」

「そう」

 ビル群から人がぞろぞろと出てきて、街灯も光り始めた。もうすぐ駅には着くが、なんだかもう少し話をしてたいな、という思いがあった。勿論、電車の中でも会話はするだろうし、その間楽しい会話は続くのだろう。けれど、今この流れから抜け出して二人きりにならないと、私の望むものは手に入らない、という気がして、そして私は確かに彼に何かを求めていた。

「どうした?」

 私が急に止まったので、彼が心配をしてくれる。もう駅はすぐそこで、歩くのをやめた私の後ろから嫌そうな顔をしたサラリーマンが続々と流れてくる。

「大学にわすれものをしてきちゃったみたい」

「随分棒読みだな」

 この瞬間の私の葛藤を看破するみたいに、彼が笑う。本当にどうした?

「いや、大学に忘れ物をしたんだよ。忘れものっ」

 語尾が半音高くなる。

「明日じゃダメなのか?」

「うーん、ダメみたい?」

 私の目論見はバレているんだ、と緊張が緩むと不自然に彼に訊くということをしてしまう。

「わかった。行くか」

「ほんと⁉︎」

 駅から大学は十分といったところで、そう歩きはしない。彼のその提案は嫌々というより、むしろ私で楽しんでいるように見えた。

 せっかく掴んだチャンスだから、と自分を奮い出させて、私の得たかった答えを得ようともがいた。

 世界が紫色へと移ろい、宵の風が私の頬を撫でつける。ワイシャツ姿のネクタイを緩ませたサラリーマンが、ストレスから開放された顔をして街を闊歩している。夕ご飯の食材を買いにスーパーから帰ってくる主婦の姿も見受けられ、そんなありふれた日常の中で、私と西宮浩輝はどこまでも無口だった。

 この十分間が、何の為の時間なのか、数分前の私に問い質したい。そして、わかってるだろ! と怒られる。

「青井はさ、大学どう?」

 そうこうしているうちに大学の敷地に入ってしまったので、彼が適当な質問を投げてくれた。ありがたい。

「どうって?」

「どうはどうだろ、感想だよ」

「まあまあかな。でも、私にとっては十分だと思う」

 この生活をまあまあと評するには些か無理があるかもしれないが、私の理想には近いと思う。大学で授業を受けて、サークルで先輩友達と何かして、たまに猛烈な課題に徹夜して。そういう「あるある」を詰めたような大学生活を送りたかった私にとって、今の生活は順調に見えた。ただ。やっていることがやっていることで、それを見れば満足というのはしてないのかもしれない。

 そう考えたところで、浩輝くんがまあまあか、と呟いた。

「いや文句を言ってるわけじゃないぞ?」

 前から私たちの横をバイクが通りすぎた。おじさんが特徴的なエンジン音を轟かせる。

「俺はさ、高校まで野球をやってたんだけど、大学ではやらないつもりなんだ」

 彼がどうして、と訊いて欲しそうにしてたので、私はどうしてなのと訊いた。

「いや、野球で夢を見るのはもう遅いからさ」

 返ってきたのはそんな答えだったので、私はなんとも言えなかった。私はまだ小説家の夢を諦めていない。諦めたりなんてしない。絶対に、秋風諷真に会いに行くんだ、越えてみるんだ。そう思っている。

「遅いなんて」

 と私は言ってみる。軽く挑発したつもりだった。挑発にもなっていない私の言葉が、多くの夢を諦めた野球選手にどれだけ響くか。

「やっていただけ、なんだ」

 彼が滔滔と答え始めた。まるで、かつてその言葉を口にしたことがあるかのように。

「俺はちゃんと満足したからさ」

 いいんだよ、吐き捨てるように言った。

「それが大学でなんの関係があるの?」

「さっき言ったように、俺はやっていただけだった。九年間。小学校から始めて中高と野球一筋。ずっと生活の中心だったけれど、やめた瞬間すっぽりと俺の中から抜け落ちた。もう野球に夢をみることなんてない、野球をしようなんて思わない。俺はそういう人間だ」

 彼は静かに息を吸った。

「だから大学で俺は自堕落な生活をするんだろうなあと思ってるよ。これからもっとダメな人間になっていく」

 ああ、さっきのは応援されてたんだ──私は悟った。自分には無理だと感じてるからこそ、期待を寄せる。自分には無理だから……。

「俺はバカだからさ、結局何もできないんだよ」

「ねえ、お姉さんのこと──西宮先輩のことはどう思ってるの?」

 彼が自分を卑下するから、私は気になった。返答によっては彼のことを嫌いになるかもしれない。でも、それを聞かないでは済まなかった。それが私の求めていた答えだと知ったから。

「それはまだ言えない」

「なんで?」

 絞り出された声だった。考えに考え抜いて、判断されたのだ。私にはまだ言えない、と。

「青井は姉ちゃんの本当の姿を知らないだろうからさ」

「どういうこと?」

「いつか知ることになるんじゃないか。姉ちゃん、青井のこといたく気に入ってたしさ」

 発言の全容を大まかに把握したことで、私は一つの安心を得た。私の知っている本当の西宮先輩と浩輝くんの言う「本当の姿」の西宮先輩、それが一緒なら彼はまだ、あの日西宮先輩と私に起きたことを知らないのだ。

「わかった」

 私が恥ずかしい、耐えられない、と過去に思っていたことを記憶から削除すると、彼は私の妙に納得した、というかすっきりした顔つきを見て不思議に思ったらしい、

「思ったより早く教えてやれそうだな」

「楽しみに待ってるよ。私にはそれが必要だからさ」

「どういうことだ?」

「いや〜?」

 と適当にはぐらかす。

 大学ですれ違う人は、ちょうど授業を終えた人かサークルに行く人、バイトに慌てて駆け出す人が多い。私たちみたいに、もっと話したいからなんて理由で大学に来る人なんていない。

「忘れ物は?」

 わかっているくせに、と心の中で言いながら、なんだっけ……と曖昧な返事をした。

「あれ、あれって青井の友達だっけ?」

「ん?」

 ベンチ内でどこかをぼーっと虚空を眺める女の、遠くから見てもわかる茶髪で顔の整った──木葉ちゃんだ。

「木葉ちゃんだね、どうしたんだろ」

 彼女とはこのベンチが脇に備えられている棟の裏でよく会う。この独特な退廃的な気分にさせてくれる場所はそうはないし、たまに通る人がいいアクセントになって、空間に浸りすぎることもない。

「木葉ちゃん」

 放っといてくれ、という雰囲気が出ていたけれど私は迷わず声をかけた。彼女はゆっくりと自分の名前が呼ばれたことを知り、溜息を吐くように声の主、私の方を見た。彼女の顔は、とても暗かった。

「どうしたの、」

 何かに対しての諦めが滲んだその表情は、私の顔を捉えても変わらなかった。

「ちょっとほっといてほしい」

 木葉ちゃんが私に求めたのはそれだけだった。もう大学に人はまばらで、月明かりが木葉ちゃんを照らし出している。

「わかった」

 何があったかわからないが、何かあったことは確かだ。あの時のサークルのこともあるし、身近で彼女のストレスになることが起き続けているのだろう。

 私は彼女に言われるがまま、浩輝くんと一緒に大学を去る。大丈夫なん? まあ大丈夫でしょ、と彼と会話を挟んだ。

「じゃあ、また」

 私が後悔を残してそう言うと、

「またな。何かあったら相談するぞ。忘れ物とかな」

「ありがと、頼りにしてる」

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