第48話 黒は転換ズの心意気

 --やれやれ、何とか大丈夫かな。

 明転。

 転換を終えて戻ってきたわたしは、袖幕の間から舞台上を確認して一安心する。


 ふと後ろを振り返ると、同じく転換から戻ってきたばかりのウサコが、四つん這いになり、生まれたての仔馬のようにプルプルと震えていた。


「だ、大丈夫?」

 わたしは恐る恐る尋ねる。

「我慢できる? だから、ちゃんと事前にトイレに行っとくように言われてたのに……」

「行ったよ。カメも知ってるでしょ? でも、したくなっちゃったんだから、しょうがな……あ、ふぅ」

 ウサコが突然、妙に艶っぽい吐息を漏らした。


「……『あ』って、何よ?」

「ちょっと出たかも」

「ええええええっ!?」

 尚も脂汗を垂らすウサコの姿は、限界が近いことを如実に物語っていた。


 --これはもう、トイレに行くしか……でも、

 会場になっている部室の出入り口は一つ。そこまで行くには、どうしたって客席の前を横切るしかない。八田さんにバレずに行くなんて到底不可能。……まあ、プレアデスくんの二回目の登場と同時に、八田さんはバリカンを調達に行って客席にはいないかもしれないけどね。チーン。


「……それは、やめとく」

 ウサコが力をふり絞ってそう言った。

「でも、もうわたし達に残された道は出家するしか」

「何を言ってんの、バカ。トイレには行かないって言ってるんだよ」


「だって、もう限界じゃないの?」

「いくらあたしでも、ここから誰にもバレずにトイレに行くのは厳しいし……なにより、一度外に出たらもう戻って来れないでしょ? あたし抜きでラストの転換できる?」

 ウサコが、真剣な目でわたしを見てきた。

 わたしは大きく息を吐いて、ウサコを見つめ返す。


「じゃあ、どうするの?」

舞台袖ここ

 ウサコは、そう言うなりスルスルとジャージのズボンを脱ぎ始めた。

 色っぽい素足が露わになり、さらに黒の下着までもが--、


 く、くく黒っ! また黒! さすがは転換ズのリーダー、黒は転換ズの心意気!

「--じゃない! ええっ、えーと、えーと……」

 わたしは、ぎょっとして立ちすくんでしまった。


「ジャージを丸めて、その上にするから」

 ウサコは簡単に言う。

「そ、そこまでしなくても……」

「もうあと少しだし、先輩達もあんなに頑張ってるしさ。あたしのせいでぶち壊しになるのは嫌だ」

 ウサコは、パッと微笑んでみせた。


 いや、もうぶち壊してるかも……と、いうのは置いといて。

 わたしは、舞台上を振り返った。

 わたし達が裏で大暴れしている間にも物語は佳境に入り、演技がさらに熱を増しているように見えた。あれだけ毎日、長時間の稽古を経ての本番初日。真剣勝負の緊張感が、舞台上だけではなく、客席も支配しているのが分かる。やはり、この雰囲気の中を飛び出して行くのはツライ。


「……わかった。これも使って」

 わたしはTシャツを脱ぎ、ウサコに差し出す。

「ウサコにだけ、恥ずかしい思いはさせない」

 舞台上にあるが、わたしにそうさせるのか。

 普段なら絶対にありえない、恥ずかしい下着姿でも、わたしは下を向くことなく臭いセリフを吐いた。ちなみに下着の色は、黒ではない。


 ウサコはTシャツを受け取って、

「ありがと、カメ。いっぱいわ」

「いや、そういう意味じゃなくて……」


「何してんの?」

 --ギャッ。

 わたしは、反射的に両手で胸を隠した。

 暗闇の濃い部分が人のシルエットへと変わる。


「こ、コメちゃん。いつからそこにいたの?」

「さっき」

 コメちゃんは、下着姿の女子が二人もいるのに、まるで意に介さないようだった。


「コメちゃんもあたしに寄付をしに来てくれたの?」

「は?」

 コメちゃんは、ちらっとウサコを見た。

 わたしは、コメちゃんにこのような状況に至った経緯を簡単に説明する。


 コメちゃんは寄付の意味が分かると、

「無理」

 と、即答した。

 --お、女の子がここまでしてるというのに……この案山子かかし野郎!


「ここから行けば?」

 コメちゃんは、一面暗幕に覆われたその先を示した。そこには窓があった。

「その手があったか」

 ウサコが感嘆した。

「いやいやいや……ここ2階だよ?」

 わたしは困惑して、目をしばたたかせた。

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