第45話 初めてだったり、そうじゃなかったり

 わたしは、逃げるように舞台袖へと転がり込んだ。

 はあ、はあ、はあ……。

 ここは照明の当たらない安息の地。

「ふぃーーーっ」

 小さく長い息を吐き出す。一気に身体の力が抜けた。


 初舞台の感想なんてない。自分が一体、何をしたのかほとんど分からない。ただ、大きな声を出すことは心がけたつもり。今思えば、なんか客席にお尻ばかり向けてた気もする。烏丸部長や七海さんに最後まで注意を受けてたのに……。


 やれやれ、もう動きたくない……。

 わたしは、壁にもたれかかり、そのままずるずると腰を下ろ--

「--すっ!」


 お尻に激痛がはしる。思わず普通に声を出しそうになったので、慌てて口とお尻に手を当てた。自分の短い出番は終わったものの、まだまだ本番真っ最中なのである。


 ふつふつと湧き上がる怒りと共に、わたしのお尻をこんな事にした犯人を睨みつけた。

 ウサコは、静かに目を閉じてクールダウンをしているようだった。巨大なひよこ饅頭のままなので、何をしていても滑稽に見える。


「ちょっと、どういうつもり? アドリブでケツバットって……そんなの聞いてなかったよ。ありえない。わたしの記念すべき初舞台なのに」

 ウサコはきょとんとした顔で、

「えっ、だってハットリと約束したじゃん。ホームランを打つって」


「は?」

「ちょっとバットの根っこに当たって、打球が左によれちゃった。あれじゃあ、フェンス直撃の三塁打止まりだよ」

 ウサコは、悔しそうに壁を小突いた。

 ……打球? わたしのことですかね?


「ハットリ、初日に観に来るって言ってたっけ?」

「ちょっと待った。今日、ハットリが来てなかったら、来るまでわたしのお尻をぶっ叩くつもり?」

「だから、約束したんだって。バックスクリーンに叩き込むって。今日じゃなかったら良いんだけどな……だいたい本当はあたし、左打ちなんだよね。どうして、サンズなのよ。明日は、ロハス・ジュニアにするわ」


 --知らんがな! ウサコが戯曲にはない、野球ものまねをするって言い出したんでしょうが。そして、その選手を選んだのもあんただっ。


 バッティングフォームのチェックを始めた理不尽ウサギに、わたしは戦慄する。

 ハットリは……? もう関係ないじゃない、明日もやる気満々じゃないの!


 誰か、助けてください! 誰かあっ! こんなのただの公開イジメじゃないですか……。浦島さーん! 明日はわたしの浦島さんは、観に来てくれるのだろうか。まあ、本当に本番中に乱入してこられても、どう対応したら良いのか分からないけど……。


 わたしは、仕方なく自力でウサコに詰め寄る。

「もし、他人に言えないような後遺症が残ったら、どうしてくれんのよ? ウサコがお嫁に貰ってくれるって言うの?」


 と、ここでわたしはもう一つ、重要な事を思い出した。

「……そ、そうだ。あと、何あれ? お客さんの前で、その……いきなり、き、ききき……キスとか……」

 ああ! 忘れたままでいられるならその方が良かった。恥ずかしい、恥ずかしいったらありゃしない! お客さんは一体、あれをどう見たんだろう?


 ……。

 ……いや、ウサコは吐きそうになったわたしを助けてくれたんだ。約束通り。有言実行、どんなに無茶苦茶だと思ったことでも、本当にやってみせる。すごいよ、本当にカッコいいよ、ウサコは。でも、でもでもでも……あんな助け方ってある? もし、初めてだったらどうしてくれるのよ? あ、いや、初めてだったり、そうじゃなかったりなんかしてー!


「何をモジモジしてんのよ。気持ち悪い」

 ウサコが、顔をしかめて言った。

「も、モジモジなんかしてないでしょ。ただ、その、ありがとうって……」


「何が?」

「いやだから、また吐きそうになってたわたしを助けてくれたでしょ?」

「えっ、そうだったの?」

「えっ?」


「あっぶないなあ。危うくゲロを飲まされるところだった。洒落になんないって」

「た、助けてくれたんじゃないの?」

「違うよ、バカ。カメがなかなかセリフを言わないから、イライラしてやったのよ」

 と、ウサコは抗議をするように声を尖らせた。

「……」

 わたしは、次の言葉が出なかった。


 う、ううウサコは、イライラしたらキスをするって言うの!? 頭じゃなくて、胃で考えたようなその行動が、相手にとっては初めてだったりするかもしれないのよ!? あっ、いや、初めてだったり、そうじゃなかったりなんかしてー!


「あっ、ヤバい。しゃべりすぎだよ、カメ。早く着替えないと」

「あっ」

 わたしは舞台上を見る。物語は、もう次の転換の手前まで進行していた。


 暗い舞台袖で苦労して着た衣装を、もう脱がないといけない。ウサコの手も借りて、まずわたしから先に元の黒ずくめの格好へと戻った。次に、わたしはウサコの伝説の衣装、もとい、着ぐるみの背中にあるチャックを下げ……、


「あれ? あれあれ?」

「どうしたの?」

「チャックが下がらない」

「バカ。早くして」

「分かってるよ。でも……あれ?」 


 次の暗転のきっかけとなるセリフまで、もう時間がない。焦れば焦るほど上手くいかなかった。


「ダメだ、もういい。このままでやる」

 ウサコは真剣な眼差しで、わたしの手を止めた。

「本当に? 大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。この衣装でもカメより3倍は、早く動ける自信がある」


 わたしは、巨大なひよこ饅頭から伸びる長い手足を見る。

「それは、そうかもしれないけど……」

 程なく暗転となり、場面転換のBGMが流れ始めた。

「いくよ」

 巨大ひよこ饅頭は、わたしにそう囁いた。

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