第5話

 約七時間前、私達は崖の上に立っていた。


奏叶かなと、何でこんなとこに連れてきたんだ?」


 彼は不思議そうに辺りを見回す。


「気分転換だよー。ずっと絵ぇ描いてても息が詰まっちゃうでしょ」


 コンクール前でそれどころじゃない彼を強引に連れてきた。


 どうしてだか本当は分かってる。彼が絵を描く姿に息が詰まるのは私の方。


 私は絵に嫉妬している。

 いつも私から彼を奪ってしまう絵に。

 そして同時に絵にあそこまで情熱を注げる彼にも嫉妬していた。


 いつからかあんなに好きだった絵に向き合わなくなった。

 進路選択の時も怖気づいて逃げた。


 将来、儲からないから。瀬央せなももっと現実見なきゃでしょ。


 自分で言いながら刃で傷つけられたようにあちこち傷んだ。


 彼はうわひでぇ、と笑い飛ばした。


 それに加え、以前彼が何気なく口にしたことが私の心を縛り付けていた。


「奏叶は絵に本気でのめり込めば、かなり良いとこまで行けると思う」


 それを裏切り後ろめたさを感じているから、余計に激しく嫉妬する。


「奏叶!」


 彼に呼び止められて私は顔を上げる。


「ちょっと訊くけど何で絵、止めたの?」


 私はぐっとうめいて「結構、直球で来る時は直球で来るよね」と恨めしく睨んでみる。


「まあね。……俺のせいなんだろうなってちょい思ってたからさ」


「違う。そうかもだけど、違う」


 考え考え口を開く。


「どっちよ」と彼が軽く突っ込む。


「私このまま絵描きの道に進んでも、なんか溺れ死ぬなって思っちゃったんだ。上を目指そうとすればするほど瀬央の本気度と自分を比べちゃうと思う」


 足元の雑草をぱさっと蹴った。


「じゃあそうなったら俺が助けるよ。奏叶が自分のしたいように絵描きを続けられるよう俺が手伝えばいい」


 彼が笑い掛けた直後、私が手をついたガードレールが崖の下に向かって簡単に傾いた。


 老朽化していて元々壊れかけだったとのちに知る。


 よろめいて背中から落ちそうになった私を彼が咄嗟に抱きかかえ……。




 次に感じたのは胸が潰される衝撃。


 ごろごろと森の斜面を転がる。


 やっと止まったと思っても体中が痛くて動けない。


 せ、な……?


 狭まった視界の端に横たわる彼の背中を捉えた。


 全身の血液が凍り付くようなおぞましい恐怖。


 嫌だ、嫌。待って、嘘だ……。


 彼の所へ夢中で這って行って彼を抱きしめた。

 シャツにじわじわと彼の血がしみこむ中、現実から目を背ける努力ばかりをしていた。




 私達が崖から落ちたのを見た目撃者がいたらしく救急車と消防車とパトカーがすでに来ていた。


 彼の死がその場で確認された後、私は警察の事情聴取に応じることの出来る状態ではなく、ふらふらと彼のアトリエへ、かつて私たちが最も長い時を過ごしたあの場所へと向かっていた。


 その時は何故か分からなかったが彼に会える確信があった。


 でもよく考えれば簡単なことだ。


 彼の魂が最後に求めるものは絵以外にないのだから。





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