第6-3話



 陽の傾きで、日陰が日向になった裏路地。

 そこにノクスがいた。

 誰かと話しているようなのに、自分が立っている位置からは、その姿を捉えることは出来ない。真面目な話であることは、ノクスの表情で分かった。

 怒りを露わにして、口を大きく動かすノクスの横顔。

 それをレオは少し離れた場所から見ていた。

 一体何を話しているんだろう。

 そう思った刹那だった。

 ノクスの目が見開れたのと同時に、鳴った銃声。

 赤い飛沫。倒れてゆくノクスの体。

 何かを思う前に走り出していた。

 地面に落ちる前に抱き止めた体。ズシリと重さが腕に伝わる。

 足元を濡らしていく、ぬめる赤。

 見上げた先。ノクスと話していたであろう誰かの顔は、逆光で見えない。

 はずだった。

 それなのに、レオの瞳にはきちんとその人物が見えた。

 "あの男"の何の感情も表さない凍てついた目が己とノクスを見下ろしていた。




 勢いよく体を起こす。

 ハッハッ、と己の荒い息がやけに耳に響いていた。瞼を開けた先の光景は、さっきまでの赤も光も冷たい眼光もない、ただの暗闇だった。

 大きく息を吐き出して、両手で顔を覆う。


 なんて夢だ。夢にしては妙にリアルだった。


 腕にくる重みも、手に伝わる温さも、滴る赤も。

 本当に夢だったのだろうか、と疑ってしまうほどに。

 僅かに額にかいた汗を乱暴にシャツで拭って、大きく深呼吸する。一度瞼を閉じて、ゆっくりと開いてから、おそるおそる隣を見る。

 隣にはいつも通り、ノクスがむき出しの背を向けて――今では慣れっこだが、彼がパンツ一枚で寝ると知った朝、驚きすぎてベッドから転げ落ちた――眠っていた。

 ゆっくりと上下する左肩。それに合わせるように小さな呼吸音も聞こえて来てやっと、あれが夢だったのだと確信が持てた。


 もしかして今見ているのが夢じゃないのか。


 不意に沸いた疑問。

 そっと手を伸ばして上下する肩に触れる。じんわりと手のひら伝わってくる温もり。本物だ。ノクスは深く眠っているようで、肩を触られても起きる様子はない。彼の寝息に合わせて、レオの手も同じように上下する。

 手を離して、肺に溜まった二酸化炭素を口から全て吐き出す。

 良かった。

 夢は思考の整理だというから、数時間前に考えていた事が顕著に出たのだろうと思う。

 臓腑が冷えきって、全てを吐き出してしまいたくなるような気持ち悪さを覚えたのはいつぶりだろう。

 過ぎった母の顔。

 自分のせいで誰かが死ぬことに、こんなにも嫌悪感を抱く。自分の血を呪いたくなる。

 もう二度と。あんな思いはしたくない。

 どこまでも追いかけてくる”あの男”の影が鬱陶しくてたまらない。

 乱暴に寝転がって思い切り目を閉じる。

 寝て忘れてしまおう。一刻も早く。



 次に瞼を持ち上げた時、すでに日は登っていた。

 隣で寝ていたはずのノクスの姿はなく、その代わりにキーボードを叩く音が微かに隣のリビングから聞こえてきていた。小さく息を吐いてベッドを降りる。

「起きたか、レオ」

 リビングに顔を出すと、ノクスからそんな声が飛んできた。ああ、と頷きながらノクスのいるソファを通り過ぎて、コップに水を汲む。

「今日は確かライエルとの特訓は休みだったな?」

 ゴクゴクと飲み干してから、振り返って肯定する。

 見えた時計は既に昼を回っていた。通りで日が高いわけだなと思いながら、冷蔵庫を覗いた。

「休みのところ悪いが、お前を貸してほしいと要請があった。出来れば出てもらいたいんだが、どうだ?」

 冷蔵庫の中身を覗きながら、少し考える。

 体調の問題はない。休みたいな、と思う気持ちもあまりない。むしろ少し体を動かしたいと思う。昨日夢見が悪かったから、それを払拭してしまいたいのだ。

「構わないけど、誰だ?」

「レミエルだ。具体的に何をやってほしいのかは本人から聞いてくれ。休みは別日に回していい。休みがほしい日を教えてくれたら僕からライエルに伝えておく」

「振替は特にいらない」

「駄目だよ。仕事のパフォーマンスが落ちるから、必ずどこかで取るように」

 ノートパソコンから顔を上げないままそう告げてきたノクスを、スムージを飲みながら見遣る。その横顔が昨日の夢と重なって、心の中で舌を打った。

「どうした?」

 黙ったレオに目敏く気づいたらしい。僅かに首を傾げたノクスに、何でもない、と返事をしてスムージーを飲み切る。ゴミ箱にパックを投げ捨てれば、少しは気分が晴れた。

「レミエルには直接レオに連絡するように伝えておく。連絡が来たらお願いできるか?」

「わかったよ」

「ありがとう。……それから、無理はするな」

 真っ直ぐレオを射抜く深い緑の瞳が、少し揺れたように見えた。

 その意味を、レオはまだ知らなかった。



  ***



 部屋に呼び出し音が響き渡る。

 画面を覗き込んだノクスは少し息を吐いて、その端末を手に取った。

「様子はどうだ?」

『今のところ、二人とも問題ないですよ。逆に自然すぎるくらいです』

 少し笑ったような女――ネムの声が聞こえる。

「そうか」

『随分声が沈んでますね。大丈夫ですか?』

「まあ、大丈夫だよ」

『ボスのその言い方、全然大丈夫に聞こえないんですけど』

 ふふ、と笑う電話の向こう側の相手に、ぐうの音も出ない。

 彼女はとりわけ他人の感情に敏感だ。虚勢を張っても必ずと言っていいほど暴かれてしまう。だからこそ、相手が嘘を言おうともわかってしまうのだろう。諜報に回して失敗したことがないのもそのせいだろう。

『心配しすぎると禿げますよ』

「大丈夫さ」

『そんなに仲間を疑いたくないですか?』

「そうだね。皆、僕の仲間だから」

『ライエルも言ってますけど、ボスがいい人すぎるんですよ。今の今まで心が折れてないのが信じられないくらい、真っ直ぐなんですもん』

「それは褒め言葉かな」

『うーん、褒め言葉でもあるし、呆れてもいます』

「参ったな」

 少し笑ったノクスに、でも、と彼女は言った。

『でも、だからこそ皆、貴方に光を見出さずにはいられないんですよね』

「それはとても光栄なことだね」

 闇に染まる街で、己が光になれるのならそれほど光栄なことはない。

 自分にそういう気持ちがなくても、状況を変えたい、と思う仲間たちの支えになるのならどれだけでも矢面に立ちたい。だからこそノクスは、この組織の顔役として立ち続けるのだ。例えライエルにボスの座を譲ったとしても、矢面に立つのは己で在り続けるべきだとも思っている。

『ちょっと、何で他人事なんですか。ボスのことなのに』

「ありがたいことだとは思ってるよ」

『そんなの私たちこそですよ。貴方のお陰で、絶望するだけの日々を終わらせられたんですから』

「それは僕がきっかけに成っただけで、僕の功績じゃない。君たちがそういう心をまだ捨ててなかった。それが一番大事なことなんだ」


 ヒトは気持ち一つで、如何ようにも転ぶ。


 絶望の中に光を見出すことができるのは、その心を捨てていない者だけだとノクスは思う。現にノクスが関わった全員が、光を見つけたわけではない。ある者は全てお前らのせいだ、と恨みを向けてきたし、ある者はもうどうでもいい、と全てをただ受け入れているだけだった。

 ノクスの周りには、少しでもこの状況から脱したい、と思う者が集まる。それは一重に、その者たちが心の中に光を持ち続けてくれているからだ、とノクスは思っているのだ。

『そうかも知れないですけど、私のこの感謝してもしきれない大きな感謝は受け取って欲しいです』

「ふふ、ありがとう。それは肝に銘じる」

『わかれば良いんですわかれば』

 ふん、と鼻を鳴らした彼女は、本当に危ない前線でよくやってくれている。時折他の組織の中核まで潜り込むのだから、感謝してもしきれないのはこちらの方だ。

『で、もしも妙な動きをしたら殺して良いですか?』

 いきなり切り出してきた彼女に、少しだけ目を剥く。あまりにも突然だったせいで、一瞬何の話か分からなかったくらいだ。

「殺さなくていいよ。君はありのままを見ていてほしい」

『えー、ボスに楯突くやつはすぐにでも殺りたいんですけど』

「楯突いたわけじゃなくて、ただ心配なんだ。危険な綱渡りをしてる可能性がある」

『ボスがそう言うなら』

 渋々頷いてくれるネムに小さく笑ってから、すまない、と謝った。

「君には嫌な役回りをさせてる」

『気にしてませんよ。ヒトの嘘を見抜くのも疑うのも得意分野です。それに加えて私は鼻も利くので』

「頼りにしてるよ。僕のこともよろしく頼む」

『大丈夫です。最初に約束した通り、貴方が堕ちたら私が責任を持って地獄に送ります』

 どこか誇らしげに言ってくれるのが心強い。

 それじゃあまた定時報告します、と切れた通話。

 端末をローテーブルに置いてから、窓の外を見遣る。

 空を灰色の雲が覆って、今にも雨が降り出しそうだった。



  ***



「いや~! ホント休みのところゴメンな!」

 荷車に乗った木箱がゴトゴトと音を立てている。

 陽気な声を出したのは、レオよりも少し大きめの荷車を引いて前を往くレミエルだ。スーツを着ているものの、柄シャツにいろんな装飾品を付けたチャラそうな男である。小柄で金髪をワックスで適当に崩した彼はレオを見るなり、よく来てくれた俺の救世主! なんて声をかけて来て、面食らったのは数十分前の話だ。

「別に。ちょうど空いてたし」

「他の奴らには全部断られちゃってさ、ホント俺困ってたからさ。ありがとな」

 ガランともライエルとも、寮みたいなあのマンションにいた誰とも似つかない陽気な男だな、と思う。剽軽な男だよ、とノクスが言っていたのは間違いではないらしい。ギャングとは思えない陽キャラで、口を噤むことを知らないのか、と聞きたくなるほどよく口の回る男だった。

「でも意外だな~」

 レオが大して反応を示さなくても、レミエルの口は回っていく。

「ノクスさんが連れてきた感じ悪い奴、って噂だったのに、あんまそんな感じしねーもん」

「そんな噂流れてるのか」

「うん。あ、ノクスさんが流したんじゃね―よ? どっちかってーと、レオが元々いたマンションの奴らかな」

 心当たりがありすぎて、ああ、と思わず他人事のように頷いてしまった。

 テミスに来たばかりのレオは、あまりにも失礼な態度を取りまくっていた。数ヶ月前のことではあるがあの時のことを思い出すと、感じ悪い奴と煙たがられても仕方ないなと思う。

 今更自分のしてきたことを撤回することはできないが、機会があればいつか謝りたい。

「心当たりがあるんだ?」

「まあ、うん。俺の態度が悪かった覚えはある」

 振り返って笑うレミエルの言葉を肯定すると、意外そうな顔をされた。

「すっげえ、簡単に非を認めるんだな」

「悪いと思ってるし、実際俺の態度は拙かったと思うから」

「あ、いやそれが駄目って言ってるんじゃなくてさ。自分が悪かったところを素直に認められる奴ってあんまいないから。なんつーか、ノクスさんに似てるっつーか。俺も誤解してたなって」

 感心したようにウンウンと頷いているレミエルに、そうなのだろうか、と考える。確かに来たばかりの頃の自分だったらギャングのアンタらに言われる筋合いはない、と突っぱねていただろう。しかし、今レオの最も近くにいるノクスが、自分に非があると思えばすぐに謝る。それを見ているからこそ、この言葉がするりと出てきたのだと思う。

「そっかそっかぁ。うーん、だとすると、ちょっと気が引けるな」

 独り言を言い続けるレミエルの言葉に、僅かな引っ掛かりを覚える。

 一体何が気が引けるというのだろう。

 路地裏に差し掛かって、どんよりとした天候のせいで暗かった道が、更に暗くなる。先を往くレミエルがふと足を止めた。

 その背中に嫌な感じを覚えて荷車から手が離れる。

 ガコン、と木箱が大きな音を立てた。

「俺さぁ、実は聞いちゃったんだよね」

 ゆっくりと振り返るレミエルは、笑みを浮かべたままだ。だというのに、薄ら寒さが背筋を駆け上がる。この顔を、知っている。母と自分を裏切ったシンセツな隣人も、情報屋も、同じ顔をしていた。

 僅かに足が後退する。

「レオってさ、本当はレオナルドって名前なんだってな?」

 ドクンと大きく心臓が音を立てた。

 激しく脈打ち始めた心臓は、嫌な音を耳に届け続けている。

「そんでさ」


 やめろ。それ以上言うな。その先は聞きたくない。


 そう思うのに、レミエルはその口を閉じようとはしない。ただ楽しそうに笑みを浮かべて、レオを灰色の瞳でじっと見つめていた。



「この街を牛耳ってるモルテのボスの一人息子、なんだろ?」





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