第45話 覚えのない記憶
「あー、疲れたぁ」
放課後。帰り道に私がぼやくと、河野さんが困ったように笑った。
「ごめんね。健介のヤツ、もっと早く止めるべきだったね」
「ううん。今日はありがとう」
健介というのは、学年集会で私に迫ってきたあのキラキラ男子だ。一組の学級委員長で、名字は
学業優秀、運動神経抜群。少々変わり者だが明るい性格なので、男女問わず人気者というのが河野さんの説明だ。
――だからって、なんで私があいつを知ってなきゃいけないんだよ。
私が彼に名前を問うと、彼は大袈裟なほど目を見開き、次いでへなへなと崩れ落ちた。と、思ったら、急に自分がどんな人間かまくし立てはじめ始めた。
曰く、彼も私と同じように本の虫だったとか。
小学校の図書室で、毎日のように会っていただとか。
あの作文コンクールには自分も入選していて、一番最初に発表しただとか。
しかし私は何も思い出せないばかりか、彼の迫力に圧されてパニックになった。そして過呼吸を起こしそうになったところで、河野さんが彼を止めてくれたのである。『この子は人に慣れてないんだよ』と。
彼は、しぶしぶ私から離れてくれた。だけど多くの視線が私に集まってしまい、私はその後も息苦しさに耐えねばならなかった。
「――でも私は、舘葵君を傷つけた、んだよね」
私から距離を取った彼の目は、確実に絶望していた。
「健介でいいよ。双葉ちゃんは悪くないよ、ちゃんとした接点なかったんじゃん」
「そうだけど、さ」
私は言いかけた言葉を飲み込んだ。彼の目を見た瞬間の、胸にずんと刺さった悲しみの重さ。周囲は笑って流していたけれど、私にはとてもそんな真似はできなかった。
「明日、ちゃんと謝ろうかな」
悩む私に、河野さんは両手を軽く上に開いて首を振った。
「気にしすぎだって。あ、もしかして。だから脚本引き受けたとか?」
「うん、まあ……」
結局、私は舘葵君――いや、健介君の依頼を受けた。実際には、私以外にも何人かと組んで書くらしいのだが。
「まあ、舞台に上がるわけじゃないから。目立たないならなんでもいい」
「だねえ、私も役者はやりたくないわー。練習とか絶対だるいもん」
河野さんは同調するようにへらへらと笑い、ちょっと表情を改め道を指さした。
「今日寄るのこっち」
「うん」
私は軽くうなずいて、案内されるままに道を曲がった。
「うわー、金と緑の大草原みたい!」
稲穂が垂れた一面の田んぼに、私は感嘆の叫びを挙げた。風波は目に美しく、風音は力強くも優しく響く。
「いやいや、通学路もこんなもんじゃん」
河野さんの突っ込みに、私は大きく頭を振った。
「だって、あっちは土手側だもん。畑もたくさんあるから、こんなに広々した田んぼってないもん!」
興奮して力説すると、河野さんはげらげらと笑った。
「双葉ちゃん、それ小1の時も言ってた」
「え?いつ?」
「多分、夏前じゃない?」
「え?その頃って、河野さんと知り合ってたっけ?」
私はただ純粋に、疑問をぶつけただけだった。しかし河野さんは目を彷徨わせて、すぐに作り笑顔になった。
「どーだったかなー。ああ、今日行くの、あの家」
「おお。おおおお!?」
河野さんが指さしたのは、田んぼの中にポツンとある大きな屋敷だった。「何あれ、豪農の家? いつからあるの?」
「大正って言ってたかな」
「大正!すっごい、渋すぎる!」
「……うん。渋いよ、ね」
河野さんは、私におされたのか元気をなくした。私は慌ててはしゃぐのを止めた。
「ごめん。私、古い建物好きなんだ。おばあちゃんちもすごく古くて、そこが好きなもんだから」
「うん。聞いたことある、気がする」
ごもごもと誤魔化すように、河野さんは呟いた。
そこからは他愛のない話をして進んだ。河野さんはどこか上の空で、私は自分が何か言ってしまったのかと、不安に思いながらも隠して笑った。
息苦しいまま敷地に入ると、広い前庭を突っ切って、河野さんは引き戸の玄関を勝手に開けた。
「ちょっ!?」
慌てる私を、河野さんはなんでもない様子で振り返った。
「この家はこういう家なの。――典子、来たよー」
誰かに向かって語りかけながら、河野さんは玄関を上がり、急な階段をすたすたと登っていく。私も慌てて靴を脱いで揃え、その後に続いた。
河野さんは、二回に上がってすぐの部屋に向かって呼びかけた。古いふすまがぴったりと閉じている。
「双葉ちゃん連れてきた。どう?出られる?」
しばらくの沈黙のあと、ふすまの向こうから衣擦れの音が聞こえた。
「――大丈夫」
「じゃあ、開けるよ」
河野さんは、勢いよくふすまを引いた。
私は、彼女の後ろから部屋の中を覗いた。まず、古い木枠の窓が目に入った。窓ガラスを通して差し込む日光が、暗い部屋の畳を暖かく照らしている。その光を背に受けて、誰かがゆっくりと立ち上がった。
透き通るような白い肌、私よりも高い身長、そして豊かに伸びた金髪の髪。
「お久しぶり」
その美女は、私を見てそう囁いた。
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