N˚.6 < Zwei Akte.:せつな【第二幕】 >

このクソ素晴らしき世界。

Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚.6


< Zwei Akte.:せつな【第二幕】 >


…………………………


駅。冬の空気の中に浮かぶホームに、わたしたちは温度を持ちよって。

 蛍光灯の光は偽物だから救いはない。だけど、ここにいれば闇から身を守ることができて、約束された時間に必ず助けがくる。わたしは夜に浮かんだボートのようなホームで、きょうこちゃんと話すのが好きだ。ボートは、広い、広い、海か湖に浮かんでいて、救いを感じないということは誰もいないということ。ふたりっきりのせかいで、ふたりのことを、ふたりのためだけに共有するために言葉を編んでいく。


「本当に、せつなは一所懸命に生きているんだなあ」

「うん?そんな大袈裟なことじゃないよっ?」


 また嘘をつく。いまのわたしは生きるのに一所懸命だ。わたしのことだけじゃない。あなたのために一所懸命に生きているんだ。だから、わたしをもっと知って。わたしの“こころ”に触れてみて。


「たくさん話すのは、きょうこちゃんに……わたしのことをよく知ってほしいからね?」


「そか。じゃあ……たくさん聞いて、たくさん知らないと、だな」

「うんっ」


 ……また、あなたが素敵な笑顔をするから嘘をついたことを後悔する。胸がしめつけられて苦しいのは、かみさまが許してくれても、あなたが許してくれないと思うからなんだ。



「ねえ?きょうこちゃん?」

「うん?」







 わたしたちの関係って、こうやってお友達をするためですか?







「え?ごめん、聞こえな…」


 ホームに響いたアナウンスとベルが、わたしのせかいに差し込んだ光を、勇気を出して伸ばした手を、再び闇に塗り潰した。それは拒まれる覚悟がないのなら軽々しく言葉にするな、と言われたみたいで、わたしは口をパクパクさせて声になるまえに、声帯が掠れて音にはさせてくれなかったのだ。


 また………逃げたんだ。自分のために聞かなければいけないことからも、逃げる。涙が溜まっていく、落ちそうになる。いつもこうやって逃げてしまう。同じ場所で取り繕うように、たくさんの嘘をついていないと生きていけない。こんなにも弱くて、汚くて、いやらしいけれど、あなたへの想いはとまらないんだ。この想いだけは、どうか。これだけは、ほんとうだから信じてほしい。信じてほしいのに………わたしは、もう…………、


 きょうこちゃんの顔を見れなくなってしまって、扉の脇にあるスペースに隠れるように陣取り、外を見るふりをしていた。手すりを掴んだ手は汗をかいていて焦点は定まらない。悟られないかと焦り、臆病に心臓がはやく打つ。落ち着くまで窓の外を見ていようと思っていたのだけど、ガラスのなかで悲しそうな表情を浮かべるきょうこちゃんが、半透明の色彩でガラスに閉じ込められているんだ。


「……ゴッホって知ってる?って聞いたんだよ」


 車内に立つわたしと、ホームにいるあなた。ふたりの間を10センチメートルの隙間で違うせかいにして、あなたを汚さないように嘘をついた。苦しいなりに精一杯の笑顔をつくった。走る金属の擦れる音とぶつかり合う音は、電車の音じゃなくて、わたしのぎこちなくずるい“こころ”の歪な音だ。


「ゴッホって…『ひまわり』の?」

「うん」


 ふっ、と短く息を吐いて、手すりを握りなおす。あなたには知ってほしいわたしがたくさんいるんだ。はじめて、ゴッホの絵を見たのは小学三年生のとき。母と出かけた美術館に一点だけ展示されていた絵が視界に入った瞬間、







ぞわっ、


 せかいがわたしと彼の絵だけになったんだ。立っているはずの床がない、照らしている光もない。温度をもっているのは、せかいでわたしと彼の絵だけ。いまだに、その体験がどういうことだったのか説明できない。そのせかいのなかで、たくさんの言葉を聞いて、たくさんの言葉を話した。


 色が好きだ、テーマが好きだ、構図が好きだ、そんな理由で説明ができることじゃない。それが出来ていたら、わたしは、いまのわたしになっていない。好きに理由はいらない、惹かれることに理由はいらない、説明できるくらいなら“こころ”に響いていない。その体験を、そういう風に理解することにした。……………きょうこちゃん、あなたはね、その衝撃的な出来事をわたしの“こころ”に感じさせて、震わせてくれた、はじめての“ひと”なんだよ。


 「せつなだって、ゴッホにな…」れるって?どうして、そんなことを言うんだろう。そんな言葉を投げるなんて、まるでわたしを………、


 甲高く大きな音と揺れた電車にあなたがバランスを崩し、わたしを壁際に追い込むように寄りかかってきた。顔………鼻先に、あなたのやわらかな胸があって、不思議と、すごく冷静に、単純だけど、どうしようもなく『ふれたい』と思った。


 ふしぎ、ほんとうにふしぎだ。


 もし、この距離でって………あなたを感じるときがくるとしたら、どきどきして、息なんかできなくて、死んじゃうって思っていた。想像しただけで息がつまって、もじもじしていたのに、あなたの体温や、やわらかな胸、運動をしているひとの美しい身体つきが、ぜんぶ、願っていた“こころ”の距離にある。


 いま、わたしの“こころ”が感じている気持ちは伝わっているのかなあ。


 あなたが気にしている高い身長が好きだよ。見上げてようやく見える顔が好き。動揺しても嘘がつけない瞳が好きだよ、大好きだ。なんともないって顔をして、平静を保つおとなの対応も好き。


 どれだけ想えば届くだろう。

 こんなに想っていても届かないのかなあ。


 手で、指で、すこしだけ触れたなら、

 そこから“こころ”がつながったりしないかなあ?







 わたしが、あなたに繋がれる。


 右手、人差し指で胸の下に触れ、すこし身体が反応したから意地悪に肋骨に添えるよう薬指と小指で包む、熱くなった手のひらで、熱くなっていくあなたにふれた。







 どうして、いま目をそらしたんだろう。

 伝わったから?伝わらなかったから?


「や……っ、ひとがいるからさ…………?」


 ああ。想っても伝わって………ない。


 そうだよ。こんなやり方。

 わたしは、やっぱりいやらしい。ずるい。最低だ。


 でも、


 いままで生きてきたなかで、いちばんの、







 覚悟、だったのになあ。


 くちをとがらせて、見えないように言う。




「ばか」


 あなたが住む町の駅名が伝えられ、きれいな長い髪を、ふわり、揺らし、ホーム側のせかいへと移る。電車とホームの間にある隙間は10センチメートルをあなたとわたしの隙間とするには、こんなに近い距離じゃない。


「それじゃあ、また明日ね?」


 いつも、明日はあなたへの想いが届くように願いをこめて言っている。わたしの想いが届くまえに、はなればなれにならないように…………………そう強く願って言っている。電車の扉が閉じた瞬間、がまんしていた涙がこぼれて止まらなくなってしまった。よかった、たぶん、あなたには見られていない。




「苦しいよう」


 ひとは恋をすると胸が苦しくなると本で読み、映画で観て、音楽で聴いて、友達の話でも聞いていた。それでも、こんなに苦しいことだなんて想像もできなかったから、いつも、このきもちに怯え、泣いてしまう。わたしは泣き虫だけど、この苦しさで涙を流したり、胸がつぶされそうにならないひとがいるのだろうか。指先や手に、あなたのやわらかな身体と、あたたかさが残っていて、それが、いまのわたしが手に入れられる、あなたのすべてだからなくさないように、ぎゅっ、と、手を握り閉じ込めて祈った。


かみさま、わたしは嘘をつきます。

 でも、それは誰かを苦しめたい気持ちでつく嘘なんかじゃありません。

 きょうこちゃんのことが好きだからつく嘘は悪いことですか。

 どうか苦しくとも、わたしのなかに芽生えた気持ちを消さないでください。

 明日も、きょうこちゃんの笑顔や仕草、声も言葉も、それらにいちいちときめいてしまう、


 わたしでいさせてください。


 どこまで祈りつづけたなら叶うのだろう。わたしの降りる駅まで、息を止めて祈りつづけたなら叶うかなあ。


 家の門を開けるまえにガレージに降りたシャッターの隙間から暗闇を覗く。光が灯っていないはずなのに艶めく黒い高級車を見つけ、うなだれ、ふかくため息をついた。


「お父さん、帰ってきてる………」


 鈍く重い金属音が、ガチッ、と鳴り、開いた大きな扉と無駄に広い玄関。それら、この大きな家は父のプライドと努力、母とわたしとの時間をかえりみなかった先に手に入れたものだ。


『お前に大きな部屋を与えたいと思って建てたんだ』


 家族三人には広すぎる家も、運転に自信がないから小さな車で、と言ったのに、父が母のためだと言って買った大きな高級車も、わたしにとっては、ぜんぶ愛なんかじゃなくて、単なる……だと思っている。


「ずいぶんと遅いじゃないか」


 リビングを通らないと自分の部屋へ行けないから、毎日、わたしより早く父が家に帰らないように祈っていた。父が怖いわけでも、父に怯えているわけでもない。ただ、その存在と高圧的な言葉の塊を見るのが、


 悲しいだけ。


「ただいま」

「今、何時だ?何をしていた?」

「部活がね。絵が、なかなかきりのいいところで終わらなくてね」


 父がかけた眼鏡の奥にある冷たい目が、言葉以上の何かを言っていた。それが父の口から溢れる。


「絵なんて、描いて……、



 将来の







 何になる?」


 今日という日に限って………聞きたくなった言葉を投げるんだね。いつも通り、目の奥にしまっていればいいのに、今日、その言葉を引き出してきたのは計算なんでしょう。貴方にとって、わたしを支配することなんて容易いんでしょう。ひとが弱っているときを見計らって、いちばん効果的な言葉を使っているんでしょう。わたしだけではなくて、色んなひとにもそうやってきたんだよね。ひとが悲しんで弱り、従うのが最後の抵抗になってしまう言葉で“こころ”を踏みつけて、支配してきたんだよね。


「お父さん………将来のなにかになるかどうかは重要じゃないんだよ」


 手が震え、足も震える。髪の毛が逆立って、体中の血がざわざわと沸騰していく。


 ────苦しい、苦しい、苦しい。


 このひとを前にすると怒りや不快感の、それらを超えて『悲しい』という感情に押しつぶされそうになる。わたしは泣き虫だ、すぐに泣いてしまう。でも、決して父のことでなんかで………、


 父のためなんかで、


 たいせつな、わたしの涙を流したくない。

 貴方には1ミリリットルの涙も捧げない。


「絵なんか家で描きなさい。そんな無意味な………」


かみさま、

 かみさま、わたしは……。

 わたしは………悪い子ですか?


 目のまえの愛すべき“父”という存在に、




 殺意すら………おぼえる。

 そんなわたしは、この“せかい”で悪い………、


 きょうこちゃん………わたしがかみさまに叱られても、あなただけは………こんなにも汚れているわたしを、きらいにならないで。


 おねがい。






 かち、わたしのなかで何かの音が、鳴る。


「じゃあっ!その無意味なものに何百万円も払ってまで!!!

 無意味なものを家中にベタベタ貼るような!!

 それらを満足げな顔で、にやけてるだけの!!!!

 貴方は……っ!!!




 何より無価値な存在だっ!!!!!」


 父は『もの』の価値がわからない可哀想なひとだ。


午後十時五十三分。

 明日の準備を終えてベッドのなかで温もりながら、今日最後のしあわせに続くメッセージを打った。


<こんばんは、きょうこちゃん。電話をしてもいいですか?>


 かわいいウサギがぴょこぴょこと跳ねて「?」と、首を傾げるアニメーションも添えるのだ。その仕草を見て、ちょっとだけ、くすくす、と笑う。あなたは気づいていないかもしれないけれど、こういうかわいいものが好きだよね。だって、ぬいぐるみや動物のポストカードを見ているときに盗み見る横顔が、いつもとろけそうになっているもの。両手のなかで機械がちいさく震えたから、ひと息、深呼吸して画面に映る、あなたの象徴をタップした。


『もしもし?せつな?』


 きょうこちゃん、今日はごめんね?色々と驚かせてしまったでしょう?きょうこちゃん、お願いだから、わたしのこと嫌いにならないでいて。


 ………父にも、ひととして、ひどい言葉を言ってしまったんだ。だけど、かみさまに叱られてもいいと思っているよ。わたしが言わないと、父は簡単にひとを踏みにじって傷付けてしまうひとだから、誰かが言わないといけない。後悔はしていないよ。


 だから…………、


 だから、わたしを、

 あなたはわたしをね………、


 このせかいに、







 ひとりにしないでね?


「きょうこちゃん、こんばんは」


 はじめて父に反抗し、はじめてぶたれ腫れた頬を冷やしながら、今日手にした手のなかにいるあなたを、きゅっと握って、あなたの声に安心したから、流れそうになった涙を電話が終わるまでとっておくと、決めた。


…………………………


このクソ素晴らしき世界。

Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚.6

< Zwei Akte.:せつな【第二幕】 >

Ende.

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